水戸藩に下された「戊午の密勅」を幕府に納めさせようとした大老井伊直弼
前回の「歴史ノート」で、将軍継嗣問題で敗れた一橋派が尊攘派の志士や公卿とつながっていき、安政五年八月八日(1858/9/14)に一連の幕府の政策について天皇が不満である旨の「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を水戸藩に下させることに成功したことを書いた。
この密勅が出されたのち大老井伊直弼は、これは天皇の意思ではなく水戸家の陰謀とし、京都に派遣していた長野主膳や、新たに老中・間部詮勝を送り込んで情報を集めさせ、尊攘派や一橋派の大名・公卿・志士たちを徹底的に弾圧していったのである(安政の大獄)。
主だった人物の処刑が一段落したのち、井伊大老は「戊午の密勅」が水戸に存在していることは幕府の権威に関わる問題であると考えた。
そこで大老は、京都所司代の酒井忠義に命じて、朝廷から勅書返納の御沙汰書を手配させ、安政六年十二月十六日(1860/1/8)に老中安藤信正を水戸に派遣し、水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)にそれを示して密勅の返上を迫っている。
慶篤は蟄居中の父の斉昭に相談し、直接朝廷に返上することを決めたのだが、井伊大老は朝廷に返上するのではなく幕府に納めよと迫り、互いに譲らなかったという。
怪しいと直感した慶篤は、密勅の返上を命じる勅書が本物かどうかを確認するために、安政七年正月六日(1860/1/28)密かに京都に鈴木安之助を遣わし内情を探らせると、老中の間部詮勝が九条関白と謀って作成したものであるとの報告があったという。そこで慶篤は幕府に対し、密勅は朝廷に直接返納すると正式に回答したのだが、井伊大老はこれを許さず、幕府に納めよと督促がますます厳しくなってきたのである。
菊池寛の『大衆維新史読本 上巻』にはこう記されている。
年が変わると共に、直弼の態度はいよいよ強硬で、若年寄安藤信睦(のぶやす)*を小石川の水戸邸に遣し、返納を催促し、もし従わなければ、違勅であると威嚇した。違勅は同時に、水戸家の滅亡を意味する、とまで極言した。
これが慶篤や穏和派を動かした。とにかく密勅を江戸に持って来ようとした。しかし途中の長岡に頑張っている壮士の一団は、これを執拗に妨害した。退去を説諭しても、頑として応じない。
篝火(かがりび)をたき、幟(のぼり)をたてて気勢を挙げている。
蟄居中の斉昭まで(その衷情は察するが、一藩の運命には代え難い)と言って、手書を長岡勢に下して、自重を促したが、一向に撤退しない。
遂に意を決した藩当局は、長岡に向けて鎮圧の諸隊を派するとともに、彼らの黒幕と目していた激派の領袖、高橋多一郎、関鉄之助らを、評定所に召喚しようとした。
しかし、この時既に、彼らは何事かを期するものかの如く、水戸を脱走しているのである。
*安藤信睦:老中在職中に改名し「信正」を名乗った
(菊池寛『大衆維新史読本 上巻』p.62~63)
この事件から二か月後に桜田門外の変が起こっているのだが、調べていくと井伊大老暗殺の計画は水戸藩だけの話ではなかったのだ。
薩摩藩の井伊大老暗殺計画
話は遡るが、井伊大老を暗殺しようとする計画は、安政五年(1858年)の冬頃から薩摩藩で動きがあり、薩摩藩士の堀仲左衛門、高崎猪太郎らは水戸人と提携して直弼を要撃しようと考え、水戸藩の安島帯刀、高橋多一郎、関鉄之助らと密議を重ねていたという。
原昌通 著『幕末明治大正史 : 波瀾重畳. 天之巻』によると、
かくて一部の薩士は、水戸の志士と連絡して大老要撃の計画を進め、安政六年七月六日(1859/8/4)、堀、有村の両人は鹿児島なる大久保正助(後の利通)に書を送って斬奸の計画を通知し、八月九日(9/5)両人は同氏を糾合するため鹿児島へ帰った。すなわち大久保正助および大島より帰りて当時菊池源吾と変名し居たりし西郷隆盛らは、直弼ら斬奸の決死隊を集めて、…四十九人を得た。
(原昌通 著『幕末明治大正史 : 波瀾重畳. 天之巻』松本書院 大正10年刊 p.108~109)
計画の内容は、幕府寄りの九条関白を退け、京都所司代の酒井を斬り、同時に江戸においては井伊大老を斃すというもので、この活動資金は鹿児島の富商である森山棠園が全額出すというものであった。
ところが水戸藩の同志である安島帯刀、茅根伊予之介、鮎沢伊太夫が相次いで捕らえられ、八月二十七日(9/23)に処刑され、さらに首領たる金子孫二郎、高橋多一郎も幕府にマークされていたために、計画を実行できる状況ではなくなり、決行がしばらく延期されることになった。
その後、水戸藩の同志の多くが処刑されるに至り、薩摩藩単独で実行することを決めたのだが、そのことが藩主島津忠義の知るところとなり、近臣を大久保正助宅に遣わして志士の鎮撫に努め大久保もそれを受け入れて、十一月五日(11/28)に薩摩藩の井伊大老斬奸計画は暫く中止されることが決定した。
井伊大老暗殺計画で薩摩藩が参加しなくなった経緯
一方の水戸藩では、前述したとおり「戊午の密勅」を幕府に渡すかどうかで議論が沸騰していった。
前掲書にはこう解説されている。ちなみに、文中の堀は堀仲左衛門で金子は金子孫二郎である。
しかるに水戸においては勅書問題沸騰して、斬奸並びに大義首唱の機熟せるを見、金子孫二郎らはこれが決行を在江戸の薩人に報じたが、この時はあたかも斬奸計画中止のやむなきに陥りし時なりしため、堀は薩藩の内情を述べて延期を求めた。金子はこれに答えて、辺勅の幕命甚だ迫って急を告ぐるの時なるが故に、大老誅戮も王政復古の大義首唱も今はもはや延期すべき時ではない。大老誅戮のことは我が藩の有志のみにて担当すべきにより、薩藩よりは速やかに義兵を京都に出し、これに応じて水戸も出兵し東西共に事を挙げたいと言った。
(同書 p.111~112)
水戸藩の金子孫二郎の話を堀仲左衛門、高崎猪太郎は薩摩に持ち帰り、大久保正助(後の利通)に伝えて準備を促したのだが大久保は制止し、島津久光(前藩主・斉彬の弟)の意向を確認したうえで、堀を江戸に出張させて水戸藩の事情を探らせることになったのだが、堀が江戸に出発した三日後に江戸から田中直之進が戻って来て、水戸藩の高橋多一郎が記した薩摩の同志に送る書簡を携えてきたのである。同上書にはこう解説されている。
その書面によると、「三月二十日を斬奸期日とし、江戸城内紅葉山に人を忍ばせて直弼らの登城後に放火し、混雑に乗じて討取ること。この策成功せざる場合は登城の途中に要撃し、目的を達せば直弼の首を携え支那側より海路にて京都に赴き、勅諚を以て幕府を攻め、又攘夷を結構す。誅戮すべきは井伊、讃州、安藤*の三奸とする。京都へは薩摩より三千人を繰り出されたい。水戸よりは中山道、東海道より差し当たり二百人程出兵して京都を守護し奉る。同時に横浜商館を焼き、高輪東禅寺の外人を討つ」という意であった。大久保派これを久光に進めてその指揮を仰いだ。久光はこれを見て、もし争乱起こらば出兵すべきも、未だ何等の事なきに兵を動かすは無名の師であり、その罪を免れがたい。勅命あらば直ちに出兵すべきも、軽挙して国家の大事を誤ってはならぬと大久保に内訓を与えた。ここにおいて大久保は久光の意を伝えて激昂せる志士を制止し、事件一発の報あるまで自重すべく諭して、志士の脱出を中止せしめた。
*井伊、讃州、安藤:井伊大老、讃岐高松藩主・松平頼胤(直弼の娘・八千代の夫)、老中・安藤信正
(同書 p.112~113)
このように薩摩藩は、水戸藩が斬奸を決行する迄は動かないこととしたが、幕府との争乱となれば藩主自ら出兵することが決定したのである。それにしても、この計画のまま実行されていたら、外国の領事館や商人の施設が放火されて、わが国は列強との戦いに巻き込まれていた可能性が高い。
水戸藩の浪士は薩摩の同志の到着を信じて江戸に向かった
一方水戸藩では、幕府が何度も何度も返勅を迫ってきて、藩主・徳川慶篤も拒むことが出来なくなり、安政七年正月十六日(1860/2/7)に家老白井織部、目付役中山庄司左衛門の二人を水戸に遣わして、勅書を幕府に渡すことを決意した。ここで冒頭で紹介した菊池寛の『大衆維新史読本 上巻』の場面となるのである。
白井織部、中山庄司左衛門の二人は直ちに江戸を出発して長岡驛まで来たのだが、ここには金子孫二郎、高橋多一郎ら脱藩した浪士が集まっていて、二人が水戸に行くことを阻み、江戸へ追い返してしまった。
その後浪士たちは二月十二日(3/4)には幕府の意向に沿おうとする藩の重役に重傷を負わせ、十八日(3/10)には説諭のために長岡に向かった重役と格闘騒ぎを起こしている。その動きを見て幕府も動いた。
この時にあたり、幕府は長岡屯集浪士の不穏なるを見、二十二日若松、土浦、関宿、古賀、宇都宮、水戸の六藩に命じ、浪士の脱走を警戒せしめた。かくて水戸藩ではその翌二十三日に至り、勅書を江戸に送致することを決し、二十五日を以て水戸を発することとなったが、予(あらかじ)め返勅の不可なることを切論せし斎藤留次郎は、二十四日の夜、奉勅策なる一書を斉昭に献じ、城中において自刃したため、勅書はまた留まる事になった。
一方長岡屯集の浪士らは、空しくここにあって同藩の士と戦うが如きは固より本意ではない。速やかに元悪を倒して禍根を絶たねばならぬと議を決し、同志八十余名血判の誓書を作り、これを府中なる別雷(わけいかづち)神社に奉納し、一同は再び帰らぬ紀念として長岡原に木標を建て置くことに決し、一丈余の標柱に、高橋多一郎は「大日本大小至忠招楠公魂表」と記し、金子孫二郎は「七度もいきかえりきて皇国(すめくに)を、まもりの魂(たま)とならむ大夫男(ますらお)」と記して建て、互いに江戸において相会う事を約し、…忍びやかに悉(ことごと)く解散した。
(同書 p.115~116)
長岡驛で解散した志士たちは、藩や幕府の目を避けるべく変装し、水戸街道を通らず、それぞれ別々に江戸に向かったという。江戸に集まった同志の指揮を執り大老誅殺の手配一切は金子孫二郎が担当し、高橋多一郎は薩摩の同志と落ち合うために、商人に扮して大阪に向かったという。
しかしながら薩摩の同志のほとんどは藩命により鹿児島に帰っており、江戸にいたのは藩命に背いて残った有村雄介とその弟の治左衛門の二人だけだった。
水戸の同志が次々に到着したが、二月末には予定の人数が揃っていなかった。三月一日(3/22)に金子孫二郎は稲田重蔵ら水戸のメンバー数名と有村治左衛門とで、日本橋西河岸の一旗亭で会合した。メンバーからもう少し同志を増やそうという意見に対し、稲田重蔵が反論した。
『維新史・第二巻』には、この時の会合の様子がこう記されている。
一人の元凶を路上に要撃するに、如何で多数の力を必要としよう。かえって徒に時機を失し、やがて大事が発覚する虞(おそれ)があるから、少人数を以てしても断然速やかに結構すべきであると痛論した。孫二郎もこの議に賛成してね大いに同志を鞭撻激励し、三月三日上巳の嘉節を卜し、桜田門外において、井伊直弼の登城を要撃し、必ずその首級を挙げることを申渡した。当日は同志四五名をもって一組となし、おのおの武艦*を手にして、諸侯登城の儀衛を観るが如き態を粧い、やがて直弼の儀衛が接近し来たらば、まずその前衛を衝いて御輿側の乱れるに常時、之に迫って彼を討取り、身に重傷を被った者は、自刃するか或いは老中に自首して出で、その他の者は皆潜行して上京することを取り決めたのであった。
*武艦:江戸幕府役人の使命、石高、俸給、家紋などを記した年間形式の紳士録。
(『維新史. 第2巻』維新史料編纂事務局 昭和15年刊 p.716~717)
そして、翌三月二日(3/23)は夕刻に品川に水戸浪士十九名が集まり、皆心に明日の成功を期して飲み明かしたのである。
その翌日に起きた、桜田門外の変については次回の「歴史ノート」に記すこととしたい。
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