鳥取県が消滅した事情
前回の「歴史ノート」で奈良県再設置の事を書いたが、鳥取県の再設置についても書いておきたい。鳥取県は明治九年(1876年)八月に島根県に吸収されてしまい、復活が認められるまでの五年の間、「鳥取県」という名称が地図から消滅してしまったのである。
イッシ―さんのホームページの「地理データ集」に「府県の変遷」のリンクがあり、そこから調べたい府県の合併や改称等の変遷を「版籍奉還から廃藩置県まで」、「第一次府県統合以降」の表を見ることで、誰でも確認することが出来る。
鳥取県と島根県については、明治二年の版籍奉還前後にもいくつかの小藩が併合されたりしているのだがその動きはこのデータを参考にしていただくこととして、廃藩置県の直前以降の動きを両県について一表にまとめると、上の図のとおりとなる。
それぞれの藩の人口は明治九年に出版された『明治史要』の「使府県戸口概表」に、廃藩置県直後の明治四年七月における三百二県の戸数と人口が出ている。
明治四年の廃藩置県当初に設置された県は、鳥取県、松江県、母里県、広瀬県、浜田県であり、この時点では島根県よりも鳥取県の方が大きかったのだが、明治九年四月に島根県と浜田県が統合され、さらに八月には鳥取県が島根県に統合されて鳥取県の名が消滅し、統合後の県庁所在地が松江とされてしまったのである。
しかしながら、旧藩時代において鳥取藩は山陰地方で最大の藩であり、石高を比較すると旧鳥取藩は三十二万五千石で、旧松江藩は十八万六千石にすぎなかった。にもかかわらず、、明治九年(1876年)の九月六日に、格下であったはずの島根県の県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのである。
旧鳥取藩士たちの不満
鳥取の人々は島根県令からの布告をどう受け止めたのか。国会図書館デジタルコレクションに昭和七年(1932年)に出版された『鳥取県郷土史』が公開されていて、この頃のことについてこう記されている。
この飛報は実に青天の霹靂(へきれき)であって、県民誰一人として信ずることは出来ない位であった。特に因幡人士の驚愕は言語に絶し、爾来これが再置を計るため、いろいろ計画することとなった。懐かしい『鳥取県庁』の門標は下ろされて、墨蹟も新しく『島根県支庁』と代えられた。時の長官伊集院権参事は、高知県に転任のため鳥取県を去ることになった。多数の先輩が氏を叶の茶屋まで見送っての帰り路、眼前に聳ゆる城山を涙なくして眺め得たであろうか。
(鳥取県学務部学務課 編『鳥取県郷土史』鳥取県 p.1201)
鳥取県は東西に長く、地域によってこの問題の受け止め方は異なっていたようだ。文中の「因幡(いなば)」は律令制に基づいて設置された「因幡国」があった地域で鳥取県の東部を指し、鳥取県の西部は「伯耆(ほうき)」と呼んでいた。
合併後における県民の態度は、因伯二国によって自ずから異なるのは、止むを得ぬことであった。隠岐は明治四年十二月本県(鳥取県)に合併されたが、元来松江藩の治下に属していたものであるから、この合併は望むところであった。伯耆は因幡の者ほどには思わなかったようである。それは、伯耆は出雲に近く、前から生業風俗習慣においても出雲と親密な関係があり、また中には県庁が近くなって険阻な坂道を往復する苦痛もなくなるなどと考えるものもあったらしい。従ってこの合併を憤った者は、主として因幡人士、殊に士族階級のものであった。しかし一般的に考えれば、二百数十年間政治の中心であった鳥取から、その政治機関を取り去られることは、堪えられない寂しさであるのに、まして維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた。…
(同上書 p.1201~1202)
少し補足すると、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争では鳥取藩は新政府軍について各地で転戦し明治維新に貢献している。一方、松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずであったために、慶応四年(1868年)に山陰道鎮撫使が派遣され、鎮撫使は松江藩の意向を確認したうえで、二月十三日には同藩に最後通牒を突き付けている。このやりとりが藤川三渓『山陰道鎮撫記』に記されていて、『かんがくかんかく』というブログにその原文が紹介されている。
最後通牒に驚いた松江藩は家老の大橋筑後が切腹して鎮撫使に謝罪することに決めたのだが、鳥取藩主池田慶徳が鎮撫使との仲介を申し出て、松江藩の藩世子及び家老等の血誓書を提出させることで許されるとの鎮撫使の内諾をとりつけ、家老の命と松江藩の危機を救った歴史があるのだ。『鳥取県郷土史』で、鳥取の人々が「維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた」と記されているのは、このような歴史を知るとよくわかる。
全国で士族たちは、廃藩置県で明治四年(1871年)に今まで生活の本拠となっていた藩を失い、さらに明治六年(1873年)一月に徴兵令で陸海軍の採用を士族に限定しないことが決まったために、本来の職能であった軍役からも離れることとなりその存在意義を失った。さらに明治九年(1876年)八月には、秩禄処分で士族の禄制が廃止されている。鳥取県が島根県に吸収されたのはその翌月のことであり、鳥取の士族たちにとっていやなことばかりがたて続けに起こったのである。
鳥取は山陰の政治の中心地としての役割を失ったために経済も衰退し、多くの失業士族が発生した。大藩であっただけに、士族の数も多かったのだが、彼らの多くは働く場を失ってしまったのである。
鳥取城の破壊と鳥取士族達の反政府活動
そればかりではない。長きにわたり士族たちの心のよりどころであった鳥取城が破壊されてしまっている。
鳥取城は久松山城とも言われ、織田信長の中国攻めでは羽柴秀吉が兵糧攻めを行って攻略したことで有名だが、元和三年(1617年)に池田光政が三十二万五千石の大封で入府したのち、大大名に相応しい規模に拡張され城下町も整備され、その後池田家が十二代続いて明治維新を迎えている。「日本名城百選」にも選ばれていて、非常に立派な城であったことは石垣を見ただけでわかるのだが、鳥取城はどういう経緯で破壊されてしまったのであろうか。
Wikipediaにはこう解説されている。
城は、1873年(明治六年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第四軍管に属した。1876年(明治九年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877年(明治十年)より1879年(明治十二年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して破却された。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓だったという。
Wikipedia鳥取城
少し補足すると、明治四年(1871年)の廃藩置県後、明治政府は全国の城郭や陣屋・砲台など軍事利用可能な施設をいったん兵部省の所管として国有化し、その後軍事的に有用であるかどうかを判断して、明治六年(1873年)の廃城令で今後陸軍が所管する城(「存城」)と大蔵省が所管する城(「廃城」)に分けられたのだが、「存城」といっても軍財産とすることを決めたにすぎず、文化的価値とは無関係で選ばれただけだ。
鳥取城に関していうと、軍が不要と判断した門櫓や土塀の大部分は早い時期に撤去され、土蔵や御殿、三階櫓などの大型の建造物は、軍が利用していた間は残されていた。上の画像はその頃の鳥取城の写真である。
その後明治九年(1876年)になって鳥取県が島根県に編入されることになり、再設置される明治十四年(1881年)までの五年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅した。鳥取城が破壊されたのは、「鳥取県」が存在しなかった頃のことである。
では陸軍は、なぜ鳥取城を破壊したのだろうか。
明治二年(1869年)の版籍奉還によって従来の藩の知行高は 十分の一に削減され、さらに明治四年(1871年)の廃藩置県以降、士族の収入がさらに削減されていったことから各地で不平士族たちが反乱を起こしている。鳥取においても不穏な動きがあったのだが、明治十年(1877年)に西南戦争が終結して不平士族の動きが沈静化していくと、陸軍の分遣隊を全国各地に置く意味がなくなっていき、明治十一年(1878年)に鳥取分遣隊の撤収が決定している。同年十二月に建造物処分を前提に兵営用の什器備品が搬出されたのち、建造物は解体撤去されてしまったようなのだが、この時の解体の経緯や入札結果を示す資料は乏しく、どういう経緯で解体されたかを明確に記している記録はネットでは見つからなかった。
『鳥取県郷土史』に、明治四十二年に出版された『西南記伝』が引用されているが、これを読むと西南戦争終結後も鳥取には明治政府に反抗的な旧藩士がかなりいて、明治政府が特に警戒していたことがわかる。
…詫間護郎は因州における政府反対派の領袖なり。かつて同志とともに弾薬を製造し、武技を鍛錬し、以て風雲の来るを待つや久し。十年の役(西南戦争)起こるに及び、詫間は機に乗じまさに為すところあらんとす。政府鳥取の形勢を看破し、前鳥取県令河田景與をして鳥取に赴き人心を鎮撫し、…官軍熊本城に連絡するに及び、詫間等計画を中止し、事無くて止みしといえども、十一年その党中より紀尾井坂事件(大久保公暗殺事件)*に與(く)みし、また、竹橋騒動(思案橋事件)**に與みするものを生じたるは、蓋し十年失敗の結果なりしなり。…
(鳥取県学務部学務課 編『鳥取県郷土史』鳥取県 昭和7年刊 p.1193)
*紀尾井坂事件:明治十一年五月十四日、内務卿大久保利通が不平士族六名によって暗殺された事件。参加者の内一名は鳥取出身士族であった。
**竹橋騒動:明治十一年八月二十三日、陸軍近衛部隊二百五十九名が起こした武装反乱事件。大隈重信邸が攻撃目標とされた。中心メンバーに鳥取出身士族がいた。
このように、政府要人を暗殺する計画に鳥取藩士が参加していたのであるが、陸軍が鳥取城の建造物を破壊したのは、鳥取に強力な反政府分子が多数いたことと無関係ではないのだろう。
鳥取最大の祭も失われた
鳥取藩は戊辰戦争では政府軍に協力し、河田佐久馬、北垣晋太郎、松田道之ら明治政府に登用された藩士もいるのだが、なぜ多くの不平士族が生まれたのであろうか。
記録には残されていないので、あくまでも私の推測なのだが、政府の神仏分離施策も彼らを憤激させたのではないか。明治三十六年に刊行された『因幡国史談』という書物に「第二十章 樗谿(おうちだに)神社のこと』という文章がある。この神社はかつて「因幡東照宮」と称していたのを明治七年に「樗谿神社」に改称した経緯があるのだが、この本にはこう記されている。
慶安三年の創建にして東照宮(祭神徳川家康公)を祭る。昔は祭礼最厳重にして因伯二国に及ぶものなし。その行列は軍旅凱旋の式に擬し、神輿を古海の松原に渡し奉りしなど、この日は藩主自ら出でてその祭は執行せられたり。本社の別当は大雲院。神主は代々永江氏に任せり。明治のはじめ、本社のほか付属の寺院みな廃止せられしか。同七年本県士族等相謀りて旧藩祖池田忠継・忠雄・光仲三卿神霊を合祀し、社号を今名に改め県社に列せしめた…
(金居小太郎編『因幡国史談』明治三十六年刊 p.30)
明治政府が最初に行った全国施策が神仏分離であり、各地で多くのトラブルが生じたことはこのブログに何度か書いてきたが、鳥取でもそれが強行された。現在の樗谿公園周辺には、因幡東照宮と大雲院ほか多数の寺院があったのだが、大雲院は移転させられ多くの寺院が廃寺となった。家康を祀る東照宮は神主も氏子もいなくなり荒廃したが、旧藩祖を御祭神に加えて社名を改めることで神社は残されたものの、この神社で永年行われて来た因幡伯耆二国で最大の祭である「権現祭」は明治の初めに行われなくなってしまった。
初代鳥取藩主の池田光仲が徳川家康の外孫にあたることから、藩にとっては権現祭は徳川家への恭順を示すとともに、自家の権威を高めることでもあった。この祭りが明治の初めに行われなくなったのは、おそらく政府が、家康を祀る祭を認めなかったということだと思う。
樗谿神社(おうちだにじんじゃ)は平成二十三年(2011年)に鳥取東照宮に改称されたが、この神社の参道の両脇には、勧請当初に鳥取藩の重臣たちが献納した二十基の石灯篭が等間隔に並んでいる。
鳥取士族からすれば、多くの寺が廃され因幡東照宮も荒廃し、県下最大の祭りも失った。そのために、明治政府に強い不満を持つ士族が早い段階から少なからず生じていて、明治政府は鳥取を統治しづらい県と考えて島根県に吸収させ、鳥取から遠く離れた松江に県庁を置こうとしたとも考えられる。
しかしながら、島根県による統治は鳥取の人々の期待に応えるものではなく、いよいよ鳥取県再設置に向けての活動が本格化していくことになるのである。
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