宮崎県の誕生
上の図は何度か紹介させて頂いた明治十二年(1879年)の日本地図だが、九州の南部に宮崎県が存在していなかったことがわかる。今回は宮崎県が鹿児島県に吸収合併されたのち復活に至るまでの経緯について書くこととしたい。
宮崎県は、七世紀中期以降に成立したとされる「日向国」がルーツで、その当時は今の宮崎県と鹿児島県の本土部分を管轄する大きな国であったのだが、八世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は明治初期まで、概ね今の宮崎県の県域が日向国の領域であったようだ。
南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例に違わず群雄割拠の時代となり、土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、天正六年(1578年)の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配することとなった。しかしながら、天正十五年(1587年)の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏し、その後日向国は功のあった大名に分知されて細かく分断されてしまった。
日向国には、江戸時代においては強力な大名は置かれず、天領と小藩[延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩(おびはん)]に分割されていて、薩摩藩や人吉藩も一部の領地をもっていた。
上の図は江戸時代の延享四年(1747年)の旧日向国の地図だが、小さく複雑に分断されて幕府領が飛び地で何か所もおかれていた。これは江戸幕府は、島津家に敵対してきた外様の伊東氏を飫肥藩に配し、譜代大名の内藤氏を延岡藩に配置したのだが、これは幕府が島津家の反乱に備えるためであったと言われている。
明治維新ののち、明治四年(1871年)七月に廃藩置県が行われ、この時は藩名を県名に読み替えて延岡県、高鍋県、佐土原(さどわら)県、飫肥県(おびけん)が設置されたのだが、同年十一月の府県合併によって美々津(みみつ)県、都城(みやこのじょう)県に再編され、その後明治六年(1873)一月に美々津県、都城県が統合されて、ほぼ旧日向国の領域をもつ宮崎県が誕生している。県庁は県の中央に近い宮崎郡上別府村(現・宮崎市橘通東二丁目)に置くことに決定したのだが、『日向国史 下巻』には当時の宮崎についてこう記されている。
宮崎の地たる、旧城下にあらず。もと是れ寂寥を極めし一寒村のみ。故に、固より県庁に充つべき大厦(たいか:大きな建物)なし。乃ち已むことを得ず、上別府村戸長所を以て仮に県治所と為す。
(喜田貞吉著『日向国史 下巻』史誌出版社 昭和5年刊 p.737~738)
今でこそ宮崎市は人口四十万の都会だが、当時は「寂寥を極めし一寒村」で、県庁として使える建物がなかったため、やむなく上別府村戸長所を仮の県庁としたが、狭すぎるために政府の認可を待たずに建築を開始し、明治八年(1875年)に完成したことが前掲書に書かれている。
鹿児島県に合併されたのち西南の役に巻き込まれる
ところが、明治九年(1876年)八月の第二次府県統合で、宮崎県は鹿児島県に合併されてしまい、完成したばかりの宮崎県庁は宮崎支庁となった。鹿児島県に合併された背景には、不平士族の問題があったと言われている。
以前このブログに書いたとおり、薩摩藩の士族人口は二十四万五千人で他藩を圧倒して多かったのだが、その多くは明治新政府の施策に強い不満を持っており、下野していた西郷隆盛の周辺に不平士族たちが集まっていた。明治政府にとって難治県であった鹿児島県に対し、宮崎県においては政府に対する反抗はみられず、このような宮崎県民を鹿児島県に吸収合併させることで、鹿児島の士族の不平を抑えることができるとの期待から、宮崎県は鹿児島県に合併させられてしまったのであろう。
しかしながら、そんな小手先で鹿児島の不平士族問題が下火になることはなく、翌年(1877年)二月に勃発した西南戦争に多くの日向の人々が巻き込まれ、日向が戦場になってしまった。前掲の『日向国史 下巻』にはこう記されている。
賊軍大隅に敗るるや、走りて日向に入り、都城、財部、荘内等を保つ。ついで桐野利秋ら宮崎に来り、細島、延岡、飫肥、外ノ浦等に守兵を分遣し、清武、宮崎、広瀬、高鍋、都農、美々津、富高等に弾薬製造所を設け、飫肥、福島等における官米二千石を奪い、大いに軍容を張る。人吉陥るに及び、隆盛以下、また宮崎に集り、日向割譲の令を下し、米穀の輸出を禁じ、一切の県税を廃し、楮幣(西郷札)を新造して軍資に充つ。
(同上書 p.805)
西南戦争では、宮崎支庁より旧藩領に薩軍への従軍の呼びかけがあり、約七千の兵士が薩軍に参加したという。六月から八月にかけては日向の各地が戦場となり、宮崎支庁は「薩軍軍務所」と改称され、軍資金調達のため西郷札の名で知られる不換紙幣が大量に印刷されたという。
「賊軍の日向に於いて発行せる楮幣六種、世に西郷札と称す。旧佐土原藩士森半夢之が雛形をを造る。桐野利秋総裁となり、池上四郎等工事を督し、広瀬に於いて之を製造す。六月より始め、八月に至り、全額十四万千四百二十円を算す。」
(同上書 p.806~807)
明治十年ごろの千円の価値は、次のサイトによると現在の二百九十万円から七百五十万円とのことなので、宮崎で印刷された西郷札は現在価値にして四億一千万~十億六千万円程度ということになる。
西郷札は西郷軍が私用に発行したものであり、西郷軍がいる場所でしか通用しなかった。商人等はこのような信用のない紙幣による支払は本来受け入れられないものであったのだが、西郷軍の武威により受け入れざるを得なかったのである。もちろん西郷札が政府貨幣と交換できるはずがなく、西郷軍に販売した商人にとっては商品を奪われたも同然であった。
また西郷軍が政府軍に追われていく途中で多くの金品米穀が掠奪され、そのため米価が高騰し、食糧の涸渇による餓死者も出たという。また政府軍との戦いの戦場となった地域では多くの家が焼かれ、薩軍に参加した兵士の死者も多かったのである。
宮崎県分県運動の高まり
もし明治九年に宮崎県が鹿児島県に合併していなかったとしたら、西南戦争の被害がこれほど大きなものにはならなかったであろう。少なくとも宮崎支庁が薩軍に従軍を呼びかけることはなかったであろうし、西郷軍が長期間陣を張り、西郷札で大量の商品を販売させられることもなかったであろう。
そればかりではない。日向の人々にとっては、西南戦争で西郷軍が敗れた後も、面白くないことが続いたのである。鹿児島県議会では、日向の人々にとって必要な道路や学校の整備などの予算が認められず、支払っている税金に見合うサービスが受けられないことで不満が高まっていき、鹿児島県から分かれることが主張されるようになっていった。
宮崎県再設置運動の中心人物が、その当時県会議員であった川越進である。この人物の活躍については、「宮崎県郷土先覚者」のHPが詳しい。
川越が、明治十三年(1880年)に開かれた地租改正に関する戸長会議の場で、「日向国分県(宮崎県再設置)」を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちで「日州親睦会」を結成して会の代表となった。川越は同年九月に、同志の藤田哲蔵、上田集成らとともに新たに着任した鹿児島県令の渡辺千秋を訪ねて「分県請願書」を提出したのだが、県令は実現困難だと門前払いにしたという。
日州親睦会のメンバーは日向国内各地を訪ねて、宮崎県の再設置を住民に訴えて支持者を拡大していった。十三年(1880年)三月に徳島県が高知県から独立し、十四年(1881年)二月に福井県が石川県から独立したことも、川越らの運動に希望を与えていた。メンバーは、代表者の川越らを上京させて、政府当局者と直接交渉することを決定している。
『日向国史 下巻』に、内務卿松方正義宛に七月に提出された請願書の全文が掲載されているが、日向人民にとっては県庁が遠すぎることや、日向国は税徴収のわりに予算の配分がかなり少ないことなどが縷々述べられている。
しかしながらなかなか返事が来なかったので、内務卿が交替したのを機に「分県の儀追申」を十一月に山田顕義内務卿に提出している。この全文も前掲書に掲載されている。
その「分県の儀追申」は分県の必要性について十一ヶ条に分けて述べられているのだが、その十にはこう記されている。文中の「薩・隅」は「薩摩国・大隅国」の略で、「現在の鹿児島県」と理解して良い。
昨十三年度地方税収収支を算するに、日向より徴収するもの、総額十万六千二百円許、而して、其日向に支出するもの、郡戸長役所、警察所等の八万五千円のみ。差引二万一千有余円は薩隅に投ずるものとす。但し、その幾分は県立諸学校、勧業試験場、県会等の諸用となり、日向人民も、また自ずから其益を得るべき理なりと雖も、…其実全く日向の損失に帰し、日向瘠地人民の膏血を絞って薩・隅肥沃の民を助くるに至る。豈に悲しからずや。加えるに、本年度は一般地方税額増加し、その増加は悉く土地に課したるを以て、日向に徴収する、殊に多し。
(同上書 p.830~831)
日向国は九州最大の面積があり、薩摩・大隅二国のおおよそ倍の広さなのだが、人口はその半分に過ぎず、県会議員の数では日向の議員は全体の三分の一にすぎなかった。そのため、県議会では日向に必要な予算が充分に認められなかったのだが、川越らの計算によると、日向の人々が支払った税金の二割は、薩摩・大隅の地域のために使われたと書かれている。 川越らの努力は実らず、この請願書は翌月に却下されたのではあるが、上京したことは決して無駄ではなかった。
川越進らは在京の秋月種樹(あきつきたねたつ:旧高鍋藩主の世子)や司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと面会し、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志など)が反対しているために保留となっていることを知り、また伊東博文や山形有朋など旧長州出身の有力者などにも陳情を重ね、山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受けている。
川越進らは翌明治十五年(1882年)の三月の県会に「日向国分県建議案」を提出し、この建議案は賛成多数で成立したのだが、翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議書上程の可否について再議することを提案し、上程しないことが決議されている。
これに憤慨した宮崎地区出身議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど分県運動がさらに盛り上がることとなる。
翌明治十六年(1883年)に川越進が鹿児島県県会議長に選出され、三月に再提出された分県建議案は可決され、川越は再度上京し山田内務卿に分県建議書を提出し、四月二十五日に参事院で「宮崎県を置くは適宜の分割と認定す」との結論が出され、五月九日に宮崎県再置の布告がなされて、川越らの三年に及ぶ努力が実を結び、七年ぶりに宮崎県が復活するのである。
上の画像は宮崎県文書センターに収蔵されている宮崎県再配置の太政大臣布告である。
川越進は七月一日に宮崎県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治二十三年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。
その後川越は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁にその胸像があるようだ。彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した大正元年(1912年)には、ほとんどの財産を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したと伝えられている。
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