誕生したばかりの明治政府は軍隊を持たず資金も乏しかった
江戸時代、各藩主は代替わりごとに領地の所有を徳川幕府に認められていたのだが、幕府が瓦解し王政復古となっても、全国の諸大名は旧来の土地と人民を持ち、家臣を従えて、その力は中央政府の存在を脅かすに足るだけのものがあった。
井上馨の伝記である『世外井上公伝. 第一巻』に、明治新政府が成立したばかりの頃に、版籍奉還論が出てきた事情についてこう記されている。
新政府樹立の当座、旧幕府の返還した直轄地の歳入八十万石と、奥羽諸般から没収した土地歳入二十万石を以てしては、政府の経費全部を支弁し得ないのであるから、政府が王政復古を計画しても、その目的は実際には達成し得ない。しかもなお三百の諸侯が依然旧によって土地人民を領有し、各々兵馬の権を握り、あたかも独立割拠の形勢を持して政府を掣肘しようとする状態が存していた。そこで復古の理想たる全国を挙げて王土とする必要から、版籍奉還論が識者の間に提唱せられたのは当然のことである。新政府の経費を補給するためには、既に慶応三年十二月に毛利家が戦勝によって得た旧小倉領及び石州浜田領等十五万石を献納しようと進達したこともあり、明治元年二月に島津氏が封土の中十万石を献納しようと上願したこともあったが、政府は一般人心の動揺をおそれてこれを許可しなかった。しかし、復古の機運が益々熟するにつれ、何時までも全国を封建の状態に置くことは出来なかった。
(井上馨侯伝記編纂会 編『世外井上公伝. 第一巻』内外書籍 昭和8年刊p378~379)
幕府が倒れて政権が朝廷に戻ったといっても、朝廷には兵力もなく資金も乏しかった。戊辰戦争の征東軍は勤王諸藩から兵を借りて、軍費は富豪の商人から借り入れて工面していたのである。またそれぞれの藩は、各藩主が年貢を集めて行政権を行使していた。この体制のままでは朝廷が一国を統治することは到底不可能だ。
まずは各藩を廃して郡県制にし、兵力財力を朝廷に統一して、朝廷の力を直接に日本全国に及ぼすようにすることが必要であるのだが、そのためには、諸藩の制度を撤廃し、大名たちを追い払うことが不可欠で、当然のことながらその家来たちも禄を失わなければならなくなるのだ。全国の武士たちにとって死活問題となるのだが、わが国が近代国家に生まれ変わるためには、いずれやらねばならなかったのである。
木戸孝允の版籍奉還論
新政府誕生後最初に版籍奉還の必要性を建言したのは木戸孝允である。木戸は慶応四年(1868年)二月に「至正至公の心を以て、七百年来の積弊を一変し、三百諸侯をして挙げてその土地人民を還納せしむべし。然らざれば一新の名義、何くにあるを知らず…」と、意見書を書いて三条實美、岩倉具視に提出したのだが、東北の征伐も目鼻のつかない状況であったため、そのまま不問に付されてしまった。
木戸のこの提案は極秘で行われたのだが、その噂が長州方面にも伝わるようになり、藩士の間に木戸に対する不満が大きくなっていったという。当時の長州藩では、維新の行賞があって当然と考える者が大多数で、藩地を奉還させられるとは夢想すらしていなかったのである。
木戸は四月に急いで山口に下り、藩主・毛利敬親に面謁して版籍奉還を急ぐべきことを説いている。その場面が『伊藤博文伝』に出ている。
…その時の論述の大体として、木戸の語るところはこうだ。
(久米正雄『伊藤博文伝』改造社 昭和6年刊 p.184~185)
「朝廷に実権がなくては維新の大業も用をなさず、諸侯各々雄を競い、再び武人政治の世となるようなことがあっては、国家の大事これに過ぎるはない。…今や我が藩公が、…今日も尚依然として版籍を持っておられては、折角の朝廷尊崇の志も、その実が挙がらない。今日のように、諸侯が各々版籍を持って、互いに兵を養っていては、他日如何なる変乱が醸されるかも解らない。今日もし長藩が率先して藩籍を還すならば、他の諸侯も皆、これに倣うて奉還の挙に出るだろう。さすれば、公は、いながらにして天下の乱階を断って、国家を万岳の安きに置かれることになる。家門の名誉、これに過ぎるはないではないか。」
藩主慶親はこれを聞いて、即座に嘉納して、よきに計らえと言ったので、木戸が退出しようとすると、藩主は「待て」と呼び止めた。「戦後の今は、藩士の人気が荒立っているから、迂闊にこの説を流布すると大変なことになる。万事はお前が京都に帰って後、徐(おもむろ)に謀るが良い。」
版籍奉還の上表
藩主や伊藤博文は木戸の考えを理解し支持していたのだが、反対論が熾烈であったために、長州藩が単独で藩籍を奉還できるような状況ではなかったようだ。そこで木戸は薩長共同で行うことを画策し、大久保利通に相談を持ち掛けたのだが、藩の最高権力者であった島津久光は封建制度の主張者であり、簡単に説得できる相手ではなかったのである。
しかしながら五月になって、たまたま播州姫路藩の酒井忠績(江戸幕府最後の大老)が独自に所領没収の嘆願書を政府に提出し、その後十一月に藩制度を改革し中央の統制が働く郡県制の移行を求める建白書を提出した。伊藤博文はこれを好機と捉え、木戸と同様の郡県制論と、戊辰戦争後の凱旋兵士を再編し新政府軍の常備軍とすることなどを記した上奏文を提出している。
一方、薩摩では大久保らが藩主の島津忠義(島津久光の子)を説得し、次第に藩論が版籍奉還に傾いていった。そこで木戸らも共に奔走し、薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還を上奏することで話がまとまり、薩摩藩の島津忠義、長州藩の毛利敬親、土佐藩の山内豊範、肥前藩の鍋島直大の四藩主が連名で、新政府に対して明治二年一月二十日に版籍奉還の上表を提出したのである。この文書は国立公文書館の『公文書に見る日本のあゆみ』に公開されている。
上表文は木戸孝允が書いたと言われているが、全文のテキストは『維新史 第五巻』で確認する事が出来る。
そこには藩主が領土領民を大幅に失うことについては一言も書かれておらず、よく計算された文章である。
「そもそも臣等居る所は天子の土、臣等牧する所は即ち天子の民なり、安んぞ私有すべけんや、今謹(つつしみ)て其(その)版籍を収めて之を上(たてまつ)る、願くは朝廷其の宜しきに処し、其の与うべきはこれを与え其の奪うべきはこれを奪い、凡そ列藩の封土更に宜しく詔命を下し、これを改て定むべし」
意訳すると、大名の領土領民をいったん朝廷に返還しますので、それから朝廷で再配分願いたいということになるのだが、朝廷が土地や人民の所有の結末についてはあいまいにし、結果は改めて伝えると書いている。もし提出しなければ、すべて没収されても文句は言えないので提出するしかないのだ。
奉還上表の提出に抵抗する藩もあったようだが、多くの藩が「いったん返上した土地や人民は政府からそのまま再交付される」と考えていたようだ。『大隈侯昔日譚』には次のように記されている。(大隈の文章では、「版籍」ではなく「藩籍」という言葉を用いているが、この用語の方がわかりやすい。)
藩籍奉還は藩籍の没収にあらず、また封建の廃滅にあらずして、彼幕府より封ぜられたる藩士を更めて、直ちに、皇室より封ぜらるるの儀式と為し、単に『本領安堵』なる『判物の書換』に止まるものと思いしもの多かりしはまた偶然にあらざるなり。
(大隈重信『大隈侯昔日譚』新潮社 大正11年刊 p.327)
急激な改革を望まなかった主要閣僚
かくして諸藩の奉還上表が提出されたのだが、封建制度を廃滅するかどうかについて、政府閣僚の意見は割れたという。前掲書にはこう記されている。
「忌憚なくこれを言えば、この際に一挙して藩籍を没収し、進んで封建の制度を廃滅するがごとき急劇の処置は、木戸孝允の欲するところにあらざりしなり。大久保利通の望むところにあらざりしなり。その他の閣僚も、やや躊躇するところなきにあらざりしなり。ただ余(大隈重信)及び伊藤博文のごときは、その間に立ちて急劇の改革の断行すべきを主張し、熱心に論争するところありき。…
(同上書 p.329~330)
余らの議論の大要と言えば、その奏請を聴容して藩籍を没収し、封建を廃滅し、各藩歳入の二十分の一をその藩候に給して藩候一家の禄となし、旧家門閥の禄の如きも、その藩候に準じてこれを削減し、各藩の歳入に充分の余裕を生ぜしめ、これを以て、中央政府の経費の不足を補充することと為し、従来の藩候をしてその府藩の知事たらしめ、各藩養兵の制を廃して兵馬の大権を中央政府の統括の下に帰せしむべしとのことにてありし。」
大隈や伊藤の主張は正論であり、木戸や大久保は強硬な反論はしなかったが「如今の情勢にその議を発せば、恐らくは不測の禍変あらん、且暫くこれを待て」と、当時の情勢では、急激な改革に持ち込むことは得策ではなく時期尚早と主張した。そもそも各藩は、自分の有する領土や財源や兵力を取り上げられることを喜ぶ筈がなく、薩長の如きは維新の大業を成し遂げた功を認めて石高が増えて当然と考えるものが少なからずいたのである。
この頃岩倉具視は、版籍奉還について、次のように奏上した。
一 列藩主に任ずるに知州事を以てすべし
十万石以下の小藩を以て州と称するは不可なるが如しと雖も、将来一州に一政府を置き、一知州事と為すの目的なり。今姑(しばら)く一州に数人の知事を置き、領地の大小を以て正副を区別し、大なるを以て知州事とし、小なるを以て副知州事とす一 当分の内は従前の領地を守護せしめ、封建の姿に郡県の意を寓すべし
(多田好問 編『岩倉公実記. 下巻 1』皇后宮職 明治39年刊 p.725)
土地人民は知州事の私有に非ざるの旨意を明らかにせんことを要す…
版籍奉還の実施
結局明治二年六月十七日にようやく版籍奉還は勅許され、藩主は藩知事という名称になった。また、同日に太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」が公布されて、華族制度が創設され、旧藩主及び公卿は華族という称号を与えられて、士分の藩士は、藩主一門の別家を含めて士族とされた。
そして二十五日には藩知事の家禄(年俸)を現石高の十分の一と定める命令が出され、同時に各藩は、各藩内の国勢調査を中央政府に申告することになった。
結局版籍奉還では伊藤や大隈の急進論は採用されなかったのだが、諸藩から版籍を奪った政府は、重要な権限を手中に収めている。
政府は旧藩主をそのまま藩知事に任命し世襲を認めて満足させた一方、藩知事の個人の家計と藩の財政を分離し、藩知事は政府によって任命される地方長官と位置付けた。また旧藩士は旧藩主との主従関係を断ち切り、彼らの給料は藩知事からではなく藩の財政から支払われることとなった。つまり、旧藩主も旧藩士も中央政府の統制下に置かれることになったのである。
版籍奉還は、表面的には大きな改革には見えないのだが、中央集権化を進めたい明治政府にとっては大きな一歩であり、この改革がなければ二年後の廃藩置県の断行は難しいものになっていたことは確実なのである。
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