徳島藩蜂須賀家が治めていた淡路島がなぜ兵庫県に移されたのか~~四国1

版籍奉還から廃藩置県、府県統合

明治政府にとって難治県とされた徳島県

 上の図は四国の県の変遷をまとめたものだが、何度も県の統廃合が行われていて結構ややこしい。「淡路国」というのは現在の「淡路島」を意味するが、明治の初期に於いては、兵庫県ではなく徳島県の一部であったことや、明治九年(1876年)八月には四国には愛媛県と高知県の二県のみとなり、明治十三年(1880年)になって徳島県が高知県から独立し、二十一年(1888年)になって香川県が愛媛県から独立したことはあまり知られていないのではないだろうか。

 このように県の統廃合が複雑なケースは、明治政府にとって厄介な難治県が存在していたことが多いのだが、四国の場合は徳島県が難治県であり、明治三年(1870年)には淡路島の帰属に関して庚午事変(稲田騒動)という大事件が起きている。今回はその事件を中心に書くことといたしたい。

戦国時代以降の蜂須賀家の歴史

 この問題を考える前に、戦国期から江戸時代の蜂須賀家の歴史を簡単にまとめておこう。

蜂須賀正勝(小六)

 天正十三年(1585年)の四国征伐を前にして、秀吉は前田玄以を蜂須賀正勝(小六)に遣わし、戦勝の暁には正勝に阿波一国を与えるとの内意を示したが、正勝は大坂にあって秀吉の側近として仕えることを望んでこれを辞退し、代わりに阿波は嫡男の家政(いえまさ)に与えられることを希望した。秀吉は四国征伐を勝利し、戦後の論功行賞によって阿波国を正勝の希望通り、子の家政に与えている。家政は蜂須賀氏の郎党家臣をつれて阿波国に入国し、秀吉の指示により渭山城を破却して徳島城を建築した。

蜂須賀家政

 秀吉の死後家政は徳川家康に近づき、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣方)に付いたものの病気と称して自らは参戦せず、長男の至鎮(よししげ) に家臣らの多くを与えて東軍(徳川方)に従軍させている。このようにして家政は関が原でどちらが勝利しても蜂須賀家の存続を図ろうとしたわけだが、戦いは東軍の勝利となり戦後の論功行賞で蜂須賀家は家康より阿波国の所領を安堵され、その後に家政は家督を至鎮に譲っている

蜂須賀至鎮

 阿波国徳島藩の藩主となった至鎮は、その後大坂の陣で徳川方に参戦して武功を立て、慶長二十年(1615年)に淡路国を加増され、以降江戸幕末まで淡路島は蜂須賀家の所領であった。そして阿波徳島藩家老の稲田氏が洲本城代として代々淡路島を統治してきたのだが、稲田氏は、蜂須賀正勝(小六)が兄弟の契りを結んだ稲田植元を客分として招いて以来蜂須賀家に仕えてきた家柄で、蜂須賀家の家臣でありながら大名並みの待遇を受けてきた経緯にあった。

 ところが幕末以降の混乱期において、阿波国徳島藩最後の藩主・蜂須賀茂韶(もちあき)の父・斉裕(なりひろ)は、徳川十一代将軍家斉の子であり、蜂須賀家としてはギリギリまで幕府を支援せざるを得なかった。また鳥羽伏見の戦いの最中に十三代藩主斉裕が死去したこともあり藩内が混乱し、戊辰戦争では奥羽に兵を送ったが維新の戦功を挙げる事が出来なかった。一方、稲田家は尊王攘夷派で早々と新政府軍に帰順し、鳥羽伏見の戦いでは主家の裁可を得ずに出兵し新政府軍に貢献したのである。

稲田家臣団は分藩を主張した

 新政府は明治二年(1869年)の版籍奉還では淡路国・阿波国をまとめて徳島藩としたのだが、その後実施された禄制改革では、稲田家は蜂須賀家の陪臣であることから、士族より一級下の卒族の扱いを受けることとなった

 蜂須賀家の他の家老も、家臣団も同様にすべて卒族とされたのだが、稲田家はこれまで蜂須賀家より長年にわたり大名並みの待遇を受けて来た家柄であり、維新においては本家以上に新政府軍に貢献してきた経緯から、卒族とされることを不服としたのである

 徳島市電子図書館に公開されている『庚午事変(徳島市民双書)』によると、それまでの三万石あったと言われる当主の稲田邦植はわずか千石となり、家臣団は徳島藩からわずかな給禄を受けることになったのだが(p.28)、二、三百石の知行取りの者が数多くいたという稲田家臣団にとっては、大幅な収入源になることに耐えられなかったのであろう。やがて藩とのやり取りの結果、淡路島が徳島藩から分かれる分藩運動にまでエスカレートしていったという。

稲田邦植

 徳島藩は稲田家の家来を全員士族にするところまで譲歩したのだが、稲田家臣らは徳島藩知事の配下になることは受け容れられず、これからも旧主の稲田邦植(九郎兵衛)に仕えたいと、その後も分藩の主張を続けたのである。

 彼らは、徳島藩を相手にしていたのでは目的を達することは出来ないと判断し、明治三年(1870年)の早々に稲田方は朝廷と有栖川宮に分藩を請願する書状を提出している。

 『庚午事変』に有栖川宮に宛てた書状の全文が掲載されているが、一部を引用させていただく。

 稲田家は今さら申すまでもございませんが、勲功もあり、家臣も家禄に堪え難いほど多数召抱えて、勤王にはげんできた家であり、それが一朝にして郷付銃卒となりますことは何としても解せません。それでは何のための勤王かということになります。

 それで、今まで通り九郎兵衛へ付属させてほしいと昨秋来知事へ嘆願していますが、埒があきません。

(庚午事変編集委員会『庚午事変』徳島市中央公民館 昭和45年刊p.65)

明治三年の稲田騒動(庚午事変)

 ところが、稲田方の主張に激昂した徳島藩の藩士が少なからずいて、ついに五月に暴動を起こすこととなる。前掲書にはこの様に記されている。

 諸隊の兵士が一時に騒ぎ出したので、少数の役人では手の下しようがない。ついに諸司令はその兵士を引率して洲本宇山の稲田九郎兵衛の屋敷を襲撃し始めた。その寄手の人数は銃士百余人、銃卒四大隊、大砲四門ということである。積年のうっ憤を晴らすはいまぞという勢いで繰り出した。稲田家の旧重役七条弥三右衛門からその筋に出した願書によると、十三日の早朝兵隊が三人稲田の屋敷へきて、ただいま当屋敷を打払うから早々立ち退くが良いといって立ち去った。それで何事だろうと使者を仕立て、付き添いの者と二人で様子を聞きに行こうとすると、その者を捕えて、大小を取り上げて打擲するので、私は使いの者だからというと、許してくれたので、急いで立ち帰ると、はや道筋には兵隊で一ぱいになっており鉄砲を打ちかけるので、その付き添いの者は即死した。その使いがまだ屋敷へ帰りつかないうちに、こんどは菩提所の江国寺の役僧が、藩の士族一統からの使いだといってやってきて、「稲田の旧家来が分藩なぞという嘆願をすることは不らちだから、今日は打払うことになって、これから屋敷を焼き払うてしまう。しかし家族の者はおかまいないから早々立ち退け」という。それはいったい何事かときいたが、役僧は「私はただ使いに来ただけで何も詳細はしらない」という。そのうちにはや大砲の音が聞えてきた。

 それで急いで立退きにかかると、大砲、小銃を発射して猛烈に攻撃が始まったので屋敷を抜け出し、一里ばかりある家来の家へ落ち着いたが、またまた銃隊が押し寄せて来たので、山野に潜んで、十五日夕方に家族の者一人は、人数つき添いのうえ船で大阪へ行き、水口藩知事に頼り、他の家族は洲本で潜伏して十五日夜船に乗り、十六日夜大阪に着いたということである。

(同上書 p.106~107)

 この争いによる稲田側の被害は、自決二名、即死十五名、重傷六名、軽傷十四名で、ほかに投獄監禁された者三百人余、焼き払われた屋敷が二十五棟と記録に残されているが、稲田方は抵抗せず、申し合わせて隣藩の高松に避難したという。これは、抵抗して私闘と判断されては喧嘩両成敗にされ稲田家も危うくなるので、隠忍自重し無抵抗で貫くしかないとの判断があったようだ。

厳しかった事件主謀者の処分

 政府はこの暴動の情報を受けて徹底的な取り調べを行っている。

 もし江戸時代であれば、蜂須賀家はお家断絶・藩の取り潰しが行われてもおかしくなかったところだが、版籍奉還により蜂須賀家はこれまで治めて来た土地と住民を天皇に返還し、旧藩主は政府の任命により藩知事という役職に就いていた。明治政府のこの事件処理に関するスタンスは、もし徳島藩の役人がこの暴挙に与していたのであれば、政府に対する謀反とみなさざるを得ないというものであった。徳島藩に対する処分はかなり厳しいものとなり、首謀者十人は斬刑、八丈島への流刑二十七人、禁固が八十一人、知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を申渡している。主謀者十人の斬罪は藩知事の嘆願により切腹がみとめられ、徳島市住吉島の蓮花寺などで処刑されている。

 徳島藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡(稲田氏知行地)は翌明治四年(1871年)五月に兵庫県に編入されている。これは旧徳島藩と稲田家を切り離し移住させることにより騒動を鎮める目的があったと思われる。そして稲田家臣団の移住が進捗した十一月には、淡路島全島が名東県(阿波国・淡路国・讃岐国)に編入されている。

 その後明治九年八月の第二次府県統合で、名東県より淡路島全域が兵庫県に移管されたのだが、もし庚午事変が起こらなければ、淡路島が徳島県に残って可能性が高かったのではないだろうか。

北海道開拓で苦労の連続だった稲田家臣団

 また政府は、明治三年に稲田邦植に対し北海道の開拓を命じている。要するに政府は、稲田家臣団の希望した通り、旧主の稲田邦植に仕える環境をこういう形で実現させたのだが、この開拓に稲田邦植や家臣団が苦労したことは言うまでもない。

 上の地図は稲田家臣団の静内開拓に関連する場所を地図にプロットしたものだが、この地図に「お登勢の碑」とあるのは、静内開拓の苦難の物語を描いた船山馨著『お登勢』がテレビドラマ化されたことを記念してこの地に石碑が建てられたとのことである。

 大阪毎日新聞記者をつとめたのち作家となった秋永芳郎氏は、彼らの北海道開拓を調べて、こう記している。

 邦植が支配地として命じられた開拓地は日高国静内(しずない)郡新冠(ニイカップ)と根室国積丹島(シャコタントウ)の二か所であった。さっそく家臣の内藤弥兵衛、平田友吉らを派遣して、その土地の下検分をさせたが、静内が良地なのに比べ、積丹の方は手に負えぬ荒れ地であったため、これを拝辞した。

 やがて明治三年七月、血気の壮年者四十七名を二分して、一班は睦(青森県)大湊の近くのシッカリ(筆者注=現在この地名なし。白糠ではないかと思われる)より海路静内へ向かった。

 これにつづいて四百八十余名の士族と百姓組と称する雇人十余名は汽船三隻に分乗し、米麦、農具、家具を積んで淡路の洲本から海路静内へ直行させ、さらに四年八月には薩摩の汽船を借り、淡路の大浜から二百五十名を送ったが、不運にもこの船は紀州周参見沖で暴風雨に遭って沈没し、八十五名が溺死した。そして米ミソなどの食料からの什器の一切を失った。損害は三万五千両に上ったといわれる。

 しかも不運はなおもつづいて、邦植はじめ移住者の衣服家具類を預けていた静内郡捫別村佐野専左衛門の倉庫数棟が、四年八月火を発して、その全部を烏有に帰した。このとき稲田家伝来の什宝も焼失したといわれる。

 邦植は不運を嘆き落胆した家臣たちをなぐさめ、一時的な救済策として、家族一人に対しフトン一枚、木綿の反物一旦、綿若干ずつを配給し、また扶助米を給し、からくも糊口をしのがせ越年した。

 その後一年間にわたって、米、ミソ、農具、種子を支給し、家屋を建てて当てがったが、家は一戸分二十五両要し、士分の者は三間に五間、卒は二間半に四間とし、分に応じて区別した。ところが建築中の五十余戸が野火におそわれて焼失し、度重なる悲運に一同は泣いても泣き切れぬ気持であった。(野火類焼の月日は不明) 

(同上書 p.383~384)

 不運な出来事が相次ぎ何度も心が折れそうになりながら、士族上がりのにわか百姓が、慣れない農機具を用いて進めた大樹林地の開拓は遅々として進まなかった。移住した家士・瀬川芳蔵の回顧録には当時の様子が、快左衛門氏のHPに引用されている。

 海辺には土人*の通う小道あるのみにて、海岸一帯より原野を望めば、 樹林鬱蒼として古来より斧の入りたることあらずや。満目の光景、今日より見れば、誰か当時の情況を想像し得る者あらんや。

  十余の壮士、一草屋に住し、ただ寝食の処となすをもって、梁間三間桁行六間の一棟にして、 土間に草を敷きてむしろとなし、中央に一つの炉を設けて煮炊きの用に供するのみ。夜に入りても、よく灯火あるにあらず。 半夜きんじょうを踏むものあり。起きて付け木を点ずれば、数頭の狐屋外に飛び去るを見たり・・・。
*土人:アイヌのこと

 明治五年になってようやく移住者の復興家屋が全部完成し、家族を引きまとめてようやく開拓が進むようになったのだが、わずかな収穫も野馬や鹿に何度も荒らされ、明治十四年にはイナゴの大軍に襲われて飢餓に近い経験をした記録が残されている。彼らは約二百町*を開拓したが、静内の農業が飛躍的に発展を見るようになったのは明治十八年に渡辺伊平を団長とする兵庫の団体移住があってからで、十年後の耕地面積は七百六十九町に大幅に増加したという。
*町:面積の単位。9917.3㎡(100.83町=1k㎡)

北辺開拓の礎碑(google画像より)

 稲田家家臣団が開拓した静内は、平成十八年(2006年)に三石町と合併して新ひだか町と名前を変えたが、主君稲田氏が住居を構えた御殿山の丘陵地に稲基神社があり、その地に移住開拓記念碑が昭和四十五年(1970年)に建てられたという。その碑文の最後にはこう記されているという。

「明治四年八月二百十五名を乗せた汽船は暴風雨に会って沈没し、衣類家具什宝類を預け入れた倉庫も失火して全焼するなど多くの不幸に見舞われながら静内の基礎を築いた先祖達は、今日の繁栄を夢想だにできず、望郷と苦闘の一生を終えこの地に埋って永久に町民を守護している」(同上書 p.441)

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