不平士族と大久保利通暗殺
前々回の「歴史ノート」で金沢の不平士族のことを書いたが、明治六年(1873年)の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると、不平士族が全国各地でテロ事件や反乱を起こしている。
明治七年(1874年)一月には、岩倉具視の暗殺未遂事件(赤坂喰違の辺)、二月には江藤新平らが反乱を起こし(佐賀の乱)、明治九年(1876年)には熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口県で萩の乱、明治十年(1877年)には西郷隆盛を盟主にした西南戦争が起きている。
金沢の不平士族の一部には西南戦争に呼応して何としてでも挙兵しようとした動きがあり、『石川県史. 第4編』に彼らが挙兵にこだわった事情が記されている。
彼らは言う。加賀藩が海内列候の首班に居りながら、維新の鴻業に際して何らの功績を立つる能わず。その進退の優柔なりしこと婦女子に類するものありしを以て、今や満天下の軽侮する所となり、常に人後に鞺若たるに至れるは、到底吾人の堪うる能わざる所なり。然るに今幸いにして西郷隆盛の兵を挙げたるあり。吾人須らく精神あり気魄ある志士を募り、金沢の天地に兵火を挙げ、天下をして金沢にもまた人あることを知らしめ、過去の汚辱を一洗することを要す。而してその目的を貫徹するの手段としては、先ず石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ、直に長駆して京師に上り、鳳輦を大本営に擁して、薩南の健児と官軍を挟撃せば、南海の志士また饗応すべく、必ず成功せんこと萬の一の疑いを容れず。この如くにして相倚り相助けて天下の事に当たらば、明治第二維新の政治これによりなすべく、国運の隆昌これによりて待つべきなり…
『石川県史. 第4編』石川県 昭和6年刊 p.275
リーダー格の島田一良(しまだ いちろう)、長連豪(ちょう つらひで)らは、幕末までは御三家に準ずる待遇を受けてきた誇り高き加賀藩が、日和見藩として世間から軽んじられている現状に我慢が出来ず、政府軍が九州に出征して軍備が手薄となるタイミングで兵を挙げて現政権を倒し、生まれ変わった政府で枢要なる地位を占めることによって加賀藩の汚辱を洗い流すことを真面目に考えていたのである。しかしながら、石川藩士族の最大勢力である忠告社の説得に時間がかかりすぎて、挙兵のタイミングを完全に失してしまう。
島田はそれ以降、要人暗殺に方針を転換し、明治十一年(1878年)五月十四日に石川県士族五名(島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一)と島根県士族*の浅井寿篤が、馬車で皇居に向かう途中の大久保利通を襲い殺害している。(紀尾井坂の変)
*島根県士族:当時は鳥取県が島根県に併合されていた時代で、浅井の出身は鳥取藩である。
島田一良らが新聞社等に送った斬奸状の全文が『石川県史. 第4編』に出ている。
かなりの長文だが最後の方にこう記されている。
…政治を改正し、国家を興起するのことは、すなわち天皇陛下の聖明と、闔国人衆(こうこくじんしゅう)*の公議に在り。願わくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨**により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し、公議を取り、皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す。
(同上書 p.1129)
*闔国人衆:全国の人々の意。
**八年四月の詔旨:五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した詔書(立憲政体の詔書)。
島田らはこのように、明治八年(1875年)に出された立憲政体の詔書の通り、速やかに国会を開設することを要求したのだが、この点については大久保利通は伊藤博文らと、まずは地方から制度改革を進めるべく準備していたところであった。
紀尾井坂の変の二ヶ月後に郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則(総称して、「三新法」)が公布され、ようやく府県会の選挙が行われることとなるのだが、これらの改革は三月に大久保が太政大臣三条実美に上申し、地方官会議と元老院の議決を経ていたのである。
福井県の再設置と若狭湾沿岸地区の滋賀県復県運動
「郡区町村編制法」によって大区小区制が廃止され、近世以来の郡や町村が行政区画として再び法的に認められ、「府県会規則」により地方議会が開設され、地租五円以上を納付する満二十歳以上の男子に選挙権、地租十円以上を納付する満二十五歳以上の男子に被選挙権が与えられることとなったのだが、その後自由民権運動が一段と活発化し、全国各地では府県区画の修正問題に波及し、分県に関する議論に火がつくこととなった。
最初に分県が行われたのは徳島県で、明治十三年(1880年)三月に高知県から分かれている。その次が福井県で、明治十四年(1881年)二月に石川県から分県している。最初にこの経緯から書くこととする。
「『福井県史』通史編5 近現代一」にはこのように解説されている。
福井市街においても商人たちが中心となり「勉強会」(総代岩井喜右衛門)という組織を作り、十三年十一月、石川県からの越前七郡の分県を千阪県令に請願し、また同年十二月には旧藩主松平慶永(春嶽)にも政府への働きかけを依頼するなど、分県への動きが活発化していた(松平文庫)。
このような状況のなか千阪石川県令は、十三年十二月に再度「管地区画改良」を政府へ建言した。建言のなかで彼は、風土民情の異なる「南越」(越前七郡)と旧加賀藩域の「加能越」の県会における対立事例を詳しく述べた後、「南越幸ニ地租再調ノ事竣ル、此機ニ投シ断然分割ノ措置ナカルヘカラス」と断じ、越前若狭両国からなる一県設置の必要性を強調している(資10 一―一三五)。
この建言書提出をうけて、松方正義内務卿は「府県分合之儀」を三条実美太政大臣に上申し、福井県新置と堺県の大阪府への併合案が一月三十一日、元老院会議にかけられた。会議の冒頭、伊東巳代治少書記官は、「南越ノ民ト加能越中ノ民トハ、常ニ軋轢シテ氷炭相容レサルノ情況」であり、分県を行わないと、県政の運営が阻害されるばかりでなく、「異日或ハ動乱ノ基トナルモ亦知ルヘカラサルナリ」と議案提出理由を述べている。千阪や伊東は、地租改正反対運動や国会開設請願運動が自由民権運動の大きな潮流となり、反体制運動として先鋭化することをもっとも恐れていたといえよう。この会議では特別の反対もなく、議案は全会一致で可決された(『元老院会議筆記』一〇)。
(『福井県史』通史編5 近現代一 第一章 第四節 一)
前回の記事で、明治六年(1873年)に越前護法一揆が起こり軍隊を差し向けて鎮圧したことを書いたが、伊東巳代治が十四年(1881年)の会議の冒頭で「異日或ハ動乱ノ基トナルモ亦知ルヘカラサルナリ」という殺し文句が効いたのか、福井県の再設置は全会一致で可決され、二月七日の太政官布告により石川県から分離することが正式に発表された。
ところが、この決定を喜ばない人々が存在したのである。
「嶺南」と呼ばれる若狭湾岸地方は福井県が分県されるまでは滋賀県に所属し、「嶺北」と呼ばれる越前地方は福井県に属していたのだが、嶺南地方と嶺北地方とは昔から仲が悪かった経緯があり、嶺北とともに福井県に所属することになったことを嶺南地方の人々が大反対したのである。
ただちに士族が中心となり、太政官布告が出た二月に滋賀県への「復県運動」が開始され、代表が滋賀県大津へ請願に向かったほか、三月には上京して復県請願を行っている。その後二年にわたり「復県運動」が続いたが、福井県の石黒県令が嶺南・嶺北の融和策を講じることにより運動は次第に下火となっていった。しかしながら、嶺南・嶺北地域の地域対立はその後も続いたという。
富山県の再設置
自由民権運動の高まりとともに、富山でも分県運動が活発化している。
明治十四年(1881年)十二月に司法省の役人、石崎謙が代表となって分県の嘆願書を元老院議長・寺島宗則に提出した記録があるが、その嘆願書の内容がどのようなものであり、政府内で嘆願書がどのような扱いを受けたかは調べてもよくわからなかった。
石崎とは別に富山県の分県に力を尽くした人物として越中自治党の米澤紋三郎がいる。
米澤は県内の仲間とともに富山市に集まって分県について盛んに討議したという。そして政府に対して分県の請願を行うこととなり、十五年(1882年)九月には米澤紋三郎と入江直友が代表に選ばれて上京することとなった。この点は、石川県令が政府に分県を建言した福井県のケースとは異なる。
政府に提出するための建白書は米澤が起草し、約千名の署名を添えて内務卿山田顕義に提出し、岩倉具視や山縣有朋といった高官に直接会って分県の必要性を説いたのだが、この時の米澤は弱冠二十五歳であったという。
『石川県史. 第4編』に米澤らが記した建白書の全文が収められている。ポイントとなる部分を引用させていただくが、文中の「越中」は「富山」、「加・能」は「加賀・能登」と読み替えて良い。
…我が越中国人情風俗の加・能両国に同じからざるは、地理形勢休戚(きゅうせき:良いことと悪い事)利害大いに異なる所あるに由るにあらずして何ぞや。この如く大いに異なる所あり。施政もまた自ずから異ならざるべからざるなり。しかるを今強いて同一県治の下に統括す。これを以て加・能人の急務とする道路の開鑿は、越中人に何の利益もなく、越中人の必要とする堤防の築造は加・能人これを無用とし、その他百般甲に便なるもの乙に適せず、此れに益する者彼に害あり。…中略…
かつ金沢区に旧藩士の多く、能く地方官の方寸を悩ます無きを得んや。これに関し、我が越中国人の窃に憂懼する所あり。
(『石川県史. 第4編』石川県 昭和6年刊 p.24~25)
富山は三千メートル級の立山連峰から流れる常願寺川、神通川、黒部川など、川の氾濫による被災に何度も苦しめられてきた歴史があり、公共予算は治水を優先する考え方なのだが、県会ではこの富山人の常識が通らない。
石川県会は、休戚利害大に異なる所の議員を集むるものなるを以て、艱険困難、ただ弥縫糊塗を事とし、毎に他府県に無類の長日子を要して、常に適当の議決を為し得ざるは、理の当さに然るべきことにして、また吾々人民之を責むる能わざる所なり。地方官にも望む可からず、県会議員をも責む可からず。是れ我が越中国人民は、特にこの患難災厄を蒙るものにして、挙国人民の慷慨嘆嗟に堪えざる所以なり。この実験を経て、分県を願うの念切なり。
(同上書 p.25)
米澤らの熱意が通じ、明治十六年(1883年)五月九日に太政官達が発せられ、越中一円を石川県から分離して富山県を建てることが正式に決定している。
米澤が生まれた入善(にゅうぜん)町のホームページに、その後の米澤についてこう記されている。
県内屈指の豪農であった米澤家ではあるが、県政界のリーダーとして分県運動などに多額の私財を費やしたため家政が傾き、明治二十年(1887年)に紋三郎は、負債整理のため一時公務を辞した。しかし、その後、明治三十六年(1903年)には、衆議院議員に最高点で当選を果たすなど、国政にも参加した。
富山県の生みの親として県政に尽くした功績は大きく、永く県民の讃えるところである。
(入善町ホームページ 「郷土の偉人」米澤紋三郎)
自由民権運動の機運が全国に広がっていったのは、板垣退助らが明治七年(1874年)に起草した民撰議院設立建白書影響が大きいと言われている。建白書には「夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス。(政府に対して納税の義務がある国民は、政府が行なうことについて知ることができ、その是非を議論する権利を有している)」と書かれているのだが、米澤らの富山県分県活動はこの考え方に影響を受けていたことは確実であろう。
納税する者が税金の使い方を議論し、自分で決める権利を獲得するために、米澤は私財を投じて家政を傾けてしまったのだが、今のわが国に、地域住民が支払った税金が地域住民の幸せのために使われるために尽力する、米澤紋三郎のような政治家がどれだけ存在するのであろうかと思うと、現状は寂しい限りである。
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コメント
しばやんさん、こんにちは。いつも楽しくブログを拝見しております。
>石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ・・・
フランス革命やロシア革命を想起させるものがあります。あくまでも私見ですが、金沢の不平士族の一部の背後には、この2つの革命を扇動したのと同じ勢力がいるのではないでしょうか?彼らは、薩長を操って徳川幕府を倒し、今度は金沢の不平士族を煽って明治新政府を倒す。デバイド&コンカーの最終段階は、完全に無政府状態にして、民衆が疲弊したところで、ホワイトナイト然としてコンカーを成就して、植民地完成というシナリオです。
半年かけてやっと動画が出来ました。『江戸時代の大旅行ブーム お陰参りの起源を解明』
https://youtu.be/gRI_dGkO95g
かなり貴ブログを参考&引用させて頂きました、感謝です。戦国時代から現代まで通底する歴史戦を俯瞰するもので35分あります。ご覧いただければ幸いです。
シドニー学院さん、コメントいただきありがとうございます。
金沢の不平士族の背後に外国勢力がいたかどうかは記録がないので何とも言えませんが、イギリスをはじめとする欧米諸国は、日本の内乱が続けばいつかチャンスが訪れると考えていたことは間違いないでしょう。明治政府がもし外国の勢力に治安を要請していれば危なかったかもしれませんが、政府がそのような手段をとらず、自力で鎮圧したことで外国が介入する機会を封じました。
『江戸時代の大旅行ブーム お陰参りの起源を解明』の動画を楽しませて頂きました。よく研究されましたね。宝島事件や、正親町天皇のキリスト教禁止令の話、伊勢お陰参りの起源の話など、知らない話題が出てきてとても面白かったです。拙著や旧ブログなどの記事を紹介いただき感謝いたします。
動画作成に半年もかけられたとのこと。大きなテーマを分かりやすくコンパクトにまとめられて、とても分かりやすいです。ナレーションが人の声になって聞き取りやすくなったのも嬉しいです。
次作を期待しています。