奈良県が消滅し再設置されるまでの経緯

版籍奉還から廃藩置県、府県統合

奈良県の誕生と消滅

 このブログで廃藩置県のことを何度かに分けて書いてきた。

 明治四年(1871年)七月に実施された廃藩置県直後の府県の数は三府三百二県であったのだが、その後県の合併が推進され、明治九年(1876年)の第二次府県統合時には三府三十五県となっていた。

 上の地図は明治十二年(1879年)の日本地図だが、その後明治十四年(1881年)に堺県が大阪府に編入されて三府三十四県になっている。この数は現在の県数(一都一道二府四十三県)よりかなり少なく、結論を先に言うと現在の富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県がその後復活したことになるのだが、政府が一度決定したことを覆すことは何処の国でも簡単なことではなく、いくつかの県で復活に苦労した記録が残されている。
 今回は、奈良県の再設置をテーマに書くことといたしたい。

 「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、かつて飛鳥浄御原京や平城京が営まれ、古い寺院や神社などに貴重な文化財が数多く残されていて、日本人の心のふるさとともいえる地域である。

 廃藩置県が実施された直後には、今の奈良県の地域に、柳生県、郡山県、小泉県、柳本県、芝村県、田原本県、高取県、櫛羅(くじら)県、奈良県、五條県が存在したのだが、明治四年(1871年)十一月の第一次府県統合でこれらの小藩がまとまって大和全域を管轄する統一奈良県が成立し、初代県令に四条隆平(しじょう たかとし)が任ぜられ、奈良県庁には廃仏毀釈で廃絶となった興福寺一乗院の建物が転用されている

本願寺堺別院

 しかしながら、明治九年(1876年)四月に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入されて「奈良県」の名は地図から消滅してしまった。当時の堺県令は税所篤であったが、このブログで以前述べたように、この人物が県令であった時代に多くの奈良の文化財が失われてしまった。上の画像は堺県の県庁がおかれていた本願寺堺別院である。

本願寺堺別院の案内板

 さらに、明治十四年(1881年)には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その目的について、一月三十一日の元老院会議で太政官少書記官の伊藤巳代治は次のように趣旨を説明したという。

 大阪府は河川が多く、多額の橋梁堤防費を必要とし、それが府財政の負担を重くしている。各種の税収入の増加を考えてみるが、いろいろの制限があってどうもうまくいかない。府が経済的に苦しいのは管轄する地域が狭いうえに経済的な面でそれをおぎなう方法がないところにある。そこで管轄地を広くし、地方税収入の増加をはかりたい。堺県庁と大阪府庁の間はあまりへだたっていないし、通信や往復に便利な関係にある。したがって、大阪府が隣接の堺県を合併すれば、府の管轄地を広くし好都合である。

(『青山四方にめぐれる国―奈良県誕生物語―』奈良県 昭和62年刊 p.149~150)

 要するに、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために合併が行われたのだが、その結果、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されるようになったため、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発することになった

 たとえば、明治十四年(1881年)六月の大阪府会では、十津川郷にあった堺師範学校分校の平谷学校への地方税による支出が認められなかった。また、同年九月の府会で議事堂新築についての議論がかわされたが、大和出身の議員らは地方税が増加することを心配して、早急に事を運ばないようにと異論を唱えている。ところが、大阪市街区出身の議員は原案に賛成するとともに、

「反対論者は地方税がかさむとか、あるいは新置県のことを考えて、新築案に賛成しない」

「大和国を独立させて、新しい県を作ろうとひそかに考え、議事堂新築に反対しているように思える」

などと主張して、大和出身議員との議論がかみあわないままに、議事堂新築案が通過してしまう有様であった。

(同上書 p.151)

 少し補足すると堺師範学校分校の平谷学校は旧奈良県に唯一存在した師範学校の施設であったのだが、「大阪府になったから師範学校は堺や奈良には不要である。大阪に一校あればよい」との意見に押されてしまったのである。

 大阪府会には旧奈良県出身の議員が十七人いたのだが、地域の実情をなかなか理解してもらえず、大阪中心部の予算が優先されることが多かった。例えば、その当時コレラが流行し、飲み水試験が行われたが、その予算の割り振りが大阪市街区でおおよそ五五%、その他郡部で四五%とする案が出たり、大阪市中の犯罪警備の重要性から、郡部の巡査を三百三十人削減し、市中で二百十七人増やすという案が出たり、明治十六年には老朽化していた三輪郡役所の建築費が予算から削除されようとするなど、旧奈良県出身議員にとっては面白くないことが頻繁に起こったのである。

奈良県再設置運動の出発と最初の請願書却下

 恒岡直史・今村勤三・中山平八郎議員らは、このままでは郷土の発展は望めないとし、地元有志の支援を得て、なんとか奈良県を復活させようと考えるようになる。すでに明治十三年(1880年)には高知県から徳島県が独立し、翌年には石川県から福井県、島根県から鳥取県が独立していた。奈良県もそれが可能だと考えたのである。
 その頃は全国的に自由民権運動が高まりを見せており、各地で政治結社が組織され、政談演説会が開かれて、国会開設を求める声が盛んになっていた時期である。明治十四年(1881年)十二月に田原本で各郡有志会が開かれ、いよいよ奈良県再設置に向けての運動が開始されることとなった。そして翌年の十一月二十九日に今村勤三・服部蓊・中村雅真の三名は請願書を持って内務省に出頭し山田顕義内務卿あてに「大和国置県請願理由書」を提出している。

 請願書の内容をみてみると、まず、

「維新以来大和国では各方面にわたって整備を進めようと意気込んでいたのに、不幸にも奈良県は廃された。その後は、堺県庁あるいは大阪府庁から遠く離れているので、いろいろな指導や利益を受けることが少なくなり、そのため産業や教育・医療などはふるわなくなっている。ことに大阪府管内に入ったことは、大和にとって最も不利なことだ」という主張からはじまっている。そして、
「大和と摂・河・泉では風土・人情が相違するので、まるで――氷炭器ヲ一ニスルノ状勢ヲ免レズ――といったありさまである。経済の上では、大和の山間部では道路の整備が必要だし、盆地部では水不足に悩み、そのための水路を開くことが重要なのに、このことに関心を持たない大阪府にどうして籍を置かなければならないのか。ことにさきの府県統廃合の策はもっぱら経費削減が主眼で、地方の事情を考慮していない。」

(同上書 p.162~163)

 請願書にはさらに別冊があり、そこには地方税における大和の負担はおよそ十六万四千五百円で、そのうち一万二千円は全く摂・河・泉のために支出していて、残額の十五万円余りを細かに観察しても、大部分は大和以外のために支出していると書かれていて、かつて奈良県が置かれていた時代よりも退歩し、大和の人々にとっては重い税金を徴収して河内や摂津に恵みを与えている状況になっていることを訴えたのだが、この請願書は却下されてしまったのである。

太政官への請願も却下、元老院への請願書も却下

 内務省への請願は認められなかったが、恒岡直史・今村勤三らは希望を棄てず、次回は太政官に請願すべく準備を進めていた。そして明治十六年(1883年)五月には、富山県、佐賀県、宮崎県の再設置が決定し、準備にいっそうの拍車がかかった。

 同年七月下旬に今村勤三、片山太次郎が上京し、八月十五日に三條實美太政大臣宛に請願書を提出している。以前堺県知事を務めた税所篤からは薩摩出身の西郷従道・松方正義など薩摩出身の参議は奈良県再設置に賛成しており訪ねる必要はなく、長州出身の山縣有朋、山田顕義両参議に賛成をしてもらうことが重要との意見を得ていたのだが、この二人の参議に面談するために今村らは随分苦労している。
 当時の政府有力者にとっては旧奈良県のことなどは眼中になく、山縣にのみ四度目にようやく面談が叶ったが、山田とは四度訪ねても面談が叶わず、井上馨や伊藤博文との面談も試みたが会えなかった。
 九月十日に太政官に出頭せよとの連絡が届き、期待を以て太政官に出向いたのだが、旧奈良県の分離独立の願いは「規則第十三条ニ依リ建白ニ属スベキモノナレバ、元老院ニ差出スベキ旨口達ヲモッテ却下」されてしまったのである。

 今度は元老院宛ての建白書が準備され、今村は同年十月十六日に佐野常民元老院議長に宛て「大和国置県之建白書」を提出した。しかしながら元老院からはまったく音沙汰がないまま明治十七年(1884年)の正月を迎え、その後も何も返事がないので五月十三日に再建白書が提出された。

 しかしこの再建白書も、またもや実らなかったのである。

 これまで数年間にわたり、委員の状況や集会などに多額の費用をかけて来たのだが、さすがに、これだけがんばっても実らない運動に手を引く人も出て来て、活動は一時停滞した。

再設置運動の最後の努力とその実現

 ところが明治十八年(1885年)に瀬戸内から近畿地方に台風が襲い、各地で河川の決壊や山崩れが起こり、盆地部では床上浸水の被害が出たのである。前掲書にはこう記されている。

 ところが、このときも巨額の復旧費はほとんど摂・河・泉に割り当てられ、大和はなんらかえりみられない状態であったので、いったん下火になっていた奈良県再設置運動の声がふたたびわきおこってきたのである。けれども、これまでの苦しい経過が思い返されたのであろうか、なかなか同志は得られなかった。

(同上書 p.196)

 新聞広告まで出してメンバーを集めようとしたのだが、この年の建白書はわずか四人の連署だけの貧弱なものとなり、やはり政府を動かす事が出来なかった。

 ところが、明治二十年(1887年)になって全国的に土地測量が行われ、地価の修正が実施されることとなり、同じ大阪府管内でありながら、大和はそのままで、摂・河・泉は五%の引下げが実施されることとなった。この事は大和の人々だけが高い税金を払わされることになり大問題であった。今度こそ奈良県再設置を勝ち取らないと、二度と奈良県の独立はできないという切羽詰まった気持ちが、再び恒岡直史・中山平八郎らを動かした。

 恒岡らは上京して山縣有朋内務大臣に奈良県再設置を請願したのち、十月五日に松方正義大蔵大臣に地価修正の事を嘆願している。松方正義は大和の地租改正は今更どうしようもないと答えたのだが、中山がしつこく食い下がり松方を激怒させる場面があったのだが、中山の懇願が通じて松方大臣から「ただこのままではきみたちが大和に帰りにくいだろう。かわりになにかみやげを用意しよう」という言葉を引き出している

 そしてよく十月六日に恒岡・中山ら一行は松方の指示で伊藤博文総理大臣のもとに出頭している。そこには山縣有朋内務大臣も同席していた。その席で一同は伊藤・山縣両大臣から直接、宿願の奈良県再設置の内諾を得る事が出来たのである。

 山縣の指示により、「奈良県設置の件」の議案が内務省で練られたのだが、この文案には恒岡・中山らのこれまでの主張がしっかりと織り込まれていた。

「一、大和の地勢や人情は摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。

 二、摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路の事に執着する

 三、大和の税金は地元に還元されにくい

 四、大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である

 五、近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる

 六、もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない

 七、大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。」

 このような「奈良県設置ノ件」の議案は十月二十四日の閣議で了承された後、二十九日の元老院会議で賛成多数で可決され、十一月四日付で「奈良県を置く」との勅令が出されて、十一月十日発行の官報で告示されている。
 恒岡直史は大阪府会の議長であったのだが、奈良県再設置のために上京中のため十一月一日からの大阪府通常府会を欠席していたことから、二日目に突然、出席議員の中から、恒岡議長の辞職勧告の建議案が提出されている。区部選出議員から辞職勧告賛成の発言が続出し、上京中の恒岡に電報が送られたのだが本人には届かなかったという。恒岡は四日に帰阪したことが判り、辞職勧告委員は早速恒岡の宿舎に向かったのだが、恒岡は委員から辞職勧告の話が出る前に議長職の辞任を表明し、直ちに辞表を預けたという。恒岡にとっては永年の希望であった奈良県再設置が決まり、いつまでも大阪府議会議長を続ける気持ちはなかったのである。 

 何度政府から却下されても、政府に対して粘り強く奈良県再設置を求める恒岡、今村らの活動がなければ奈良県の再設置はなかったであろう。
 いつの時代もどこの国でも政治が特定地域の経済を軽んじれば、その地域は人口が減少し高齢化が進み、その伝統や文化は廃れていくしかないのだ。もし奈良県再設置が実現していなければ、今日残されている奈良県の文化や伝統の何割かが失われていた可能性が高いと思う。
 再設置運動の中心人物の一人である今村勤三の生家は江戸時代から代々村の庄屋役などを勤めた家で、現在安堵町民俗資料館として公開されているようだ。今度奈良に行くときに立ち寄りたい。

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