石川県の不平士族
以前このブログで石川県の廃藩置県のことを書いた。
「明治四年(1871年)七月の廃藩置県では金沢藩は金沢県、大聖寺藩は大聖寺県となり、十一月二十日に両県は廃止され金沢県が置かれ、能登半島のある北部を分離して七尾県が新たに設置されたのだか、翌年二月二日には金沢県は石川県と県名を変え、五月五日に県庁を石川郡美川町(現白山市美川南町)に移している。」
明治四年の十一月に一旦金沢県を置いたにもかかわらず、わずか三か月後に石川県と県名を変え、その三か月後に県庁を金沢市の中心部から石川郡美川町(現白山市美川南町)に移している。その理由は、金沢の不平士族の勢力が強かったことにあった。
簡単に旧加賀藩の幕末から維新にかけての歴史を振り返っておこう。
江戸時代の加賀藩は「加賀百万石」と称され、前田家は外様大名でありながら御三家に準ずる待遇を受けてきたことから、大政奉還時は徳川慶喜を支持し慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方として出兵している。ところが、途中で幕府軍敗走の情報が入り、加賀藩は兵を呼び戻して、以後朝廷方に尽くすことを表明した。
四月になって明治政府より加賀藩に出兵命令が下り、彼らは官軍として長岡城攻撃など、東北各地を転戦した。この戦いで加賀藩は七千人を超える兵を動員し、二百八十人もの死傷者を出している。戦後になって明治政府は加賀藩の協力に感謝し、一万五千石の戦功賞典を与えている。
にもかかわらず、旧加賀藩の士族たちは明治新政府から軽んじられていることに我慢ならなかったのである。
この頃の彼等がどのような動きをしていたか、『石川県史. 第四編』に詳しく記されているので引用させていただく。
金沢藩治の施かれし後、幾(いくば)くもなく壮年の志士等、当局の為す所を快とせざるものあり。杉村寛正・坪内金吾・陸義猶・長谷川準也等は即ちこの徒にして、安井顕比・内藤誠に対して厳しく論難攻撃し、遂に坪内金吾は抜刀して顕比を脅迫せしことあり。内藤誠もまた東京において、或る者のために鉄棒を以て頭部を乱撃せられしことありき。
(石川県 編『石川県史. 第四編』昭和6年刊 p.228)
このように、旧加賀藩出身で藩の統治に携わる者の間にも根深い対立があり、新政府側に立つ者は命を奪われてもおかしくないような危険に晒されていたのだが、『石川県史』を読み進んでいくと、内藤誠を鉄棒で頭を殴った「或る者」とは、島田一良という人物であったことがわかる。島田は明治十一年(1878年)に大久保利通を暗殺したグループのリーダーであった男である。
西南戦争で挙兵しようとした島田一良
島田一良は嘉永元年(1848年)に加賀藩の足軽の子として生まれ、戊辰戦争の活躍が認められて以降、軍人として順調に昇進していったのだが、征韓論に端を発した明治六年政変で西郷隆盛以下大量の軍人・官僚が職を辞した際に、西郷を強く支持していた島田は故郷に戻って国事に奔走する道を選択し、後に金沢の三光寺を拠点にして政治結社「三光寺派」を結成している。
明治十年(1877年)に西南戦争が起こり、島田は西郷らに呼応して挙兵しようと動き出したのだが、千二百名の社員を擁する政治結社「忠告社」は戦況を傍観する態度で動かなかった。島田はそれでもこの機に挙兵を行おうと躍起になった理由が『石川県史. 第四編』に記されている。
彼らは言う。加賀藩が海内列候の首班に居りながら、維新の鴻業に際して何らの功績を立つる能わず。その進退の優柔なりしこと婦女子に類するものありしを以て、今や満天下の軽侮する所となり、常に人後に鞺若たるに至れるは、到底吾人の堪うる能わざる所なり。
(同上書 p.275)
然るに今幸いにして西郷隆盛の兵を挙げたるあり。吾人須らく精神あり気魄ある志士を募り、金沢の天地に兵火を挙げ、天下をして金沢にもまた人あることを知らしめ、過去の汚辱を一洗することを要す。
而してその目的を貫徹するの手段としては、先ず石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ、直に長駆して京師に上り、鳳輦を大本営に擁して、薩南の健児と官軍を挟撃せば、南海の志士また饗応すべく、必ず成功せんこと萬の一の疑いを容れず。この如くにして相倚り相助けて天下の事に当たらば、明治第二維新の政治これによりなすべく、国運の隆昌これによりて待つべきなりという…
島田にとっては、御三家に準ずる待遇を受けてきた誇り高き加賀藩が今では軽んじられている現状に我慢が出来ず、政府軍が西南戦争鎮圧のため九州に向かい、軍備が手薄となるタイミングで兵を挙げて現政権を倒し、生まれ変わった政府で枢要なる地位を占めることによって加賀藩の汚辱を洗い流すことを真面目に考えていたのである。しかしながら、旧加賀藩士族の最大勢力である忠告社の説得に時間がかかりすぎて、挙兵のタイミングを完全に失してしまった。
大久保利通暗殺
島田はそれ以降、要人の暗殺に方針を転換することとなる。島田は当初木戸孝允と大久保利通に狙いを定めていたのだが、しばらくして木戸孝允が病死したため、島田の標的は大久保利通一人に絞られた。
彼らは、毎月四・九のつく日に参議らが参朝することを確認し、大久保が参朝する日は自宅を午前八時に出発し、いつも紀尾井町を馬車で通過することを確認していたという。かくして明治十一年(1878年)五月十四日を決行日とすることが決定した。
この日に集まったのは、石川県士族五名(島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一)と島根県士族*の浅井寿篤であった。
*島根県士族:当時は鳥取県が島根県に併合されていた時代で、浅井の出身は鳥取藩である。
『石川県史. 第四編』に当日の場面がこう描かれている。
五月十四日払暁、同志悉く島田一良の旅宿に集合し、午前七時三十分ここを出でたるが、一良は長連豪(ちょう つらひで)とともにその首謀たるをもって、最も途上の状況に注目するところあり。
(同上書 p.1124~1125)
八時紀尾井町の清水谷に至りしに、あたかも大久保利通が霞ヶ関の邸を出で、二頭立の馬車に乗じて赤坂の皇居に至らんとするに会せり。連豪すなわち直ちに突進して馬脚を斬りしも、馬は尚疾行せしを以て、杉本乙菊はまた他の馬脚を斬れり。時に利通は車内にありて書類を閲したりしが、兇徒のために襲撃せられたるを知り、大声『待て』と叱咤し、徐(おもむろ)にその書類を袱紗(ふくさ)に包まんとせり。ここに於いて一良は車窓を開きて利通の手を捉え、胸部と咽喉を刺すことこと三たび。志また集まり来たり、車上より利通を引下して之を殺し、鞭を挙げて抵抗したる馭者中村太郎もまた脇田巧一の為に斬られてその主に殉ぜり。
一良等既に素志を達したるを以て、刀を路傍の草間に棄て、馳せて宮門に赴き、警衛の兵士に就きて自首す。これ同志の懐にしたる斬奸状を宮内庁に呈するの便宜を得んと欲したるによる。衛兵多数の壮漢を見て驚き、汝らのほかなお同志ありやと問いしに、一良はこれに答えて、三千万の国民、官吏を除けば皆わが同志なりといえり。
島田一良の用意した斬奸状
島田一良はこの日の為に斬奸状を用意していた。この全文は『石川県史. 第四編』p.1125~1130 に出ている。
長い文章なのでポイントだけ書くと、彼らは、大久保には次のような五つの罪があるという。
その一、公議を途絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する
(国会や選挙を行うことなく、民権を抑圧し政治を私物化している。)
その二、法令漫施、請託公行、恣に威福を張る
(法令の朝令暮改が激しく、官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やしている。)
その三、不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す
(不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。)
その四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す
(忠義ある志士を排斥し、憂国の士を疑い、内乱を引き起こした。)
その五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す
(外交政策の誤りにより、国威を貶めている。)
五箇条の御誓文では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ」 と宣言していたにもかかわらず国会開設の動きは一向に進まず、また明治七年(1874年)には板垣退助や後藤象二郎らが民選議院設立建白書を提出した動きに対し、明治政府は新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、反政府の言論活動の取締り強化を図るばかりであった。そして薩長藩閥が政府や陸海軍の要職を独占し、私腹を肥やす人物が存在したこともまた事実なのである。
斬奸状にはこう記されている。
…政治を改正し、国家を興起するのことは、すなわち天皇陛下の聖明と、闔国人衆(こうこくじんしゅう)*の公議に在り。願わくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨**により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し、公議を取り、皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す。
(同上書 p.1129)
*闔国人衆:全国の人々の意。
**八年四月の詔旨:五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した詔書(立憲政体の詔書)。
島田らはこのように、明治八年(1875年)に出された立憲政体の詔書の通り、速やかに国会を開設することを要求したのだが、この点については大久保利通は伊藤博文らと、まずは地方から制度改革を進めるべく準備していたところであった。
紀尾井坂の変の役二か月後の七月二十二日に郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則(総称して、「三新法」)が公布され、ようやく府県会の選挙が行われることとなる。そして島田ら六人は「三新法」が公布された五日後の七月二十七日に死刑を宣告され、同日に市ヶ谷監獄で斬首刑に処されているのだが、処刑が遅れたのは「三新法」の公布を島田らに確認させる意図があったではなかったか。
その後、わが国では自由民権運動が活発化していくことになる。
九月に大阪で開かれた愛国社再興会議で石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から十三社の代表が大阪に集まり愛国社の再建が決定し、翌明治十二年十一月の愛国社第三回大会で国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定している。明治十三年(1880年)三月第四回大会では、二府二十二県から愛国社系以外の政治結社代表を含む百十四人が参加し、国会開設請願を求める約八万七千人の署名が集まった。
明治政府は集会条例を制定するなど民権派の急進的な活動を取り締まる一方で、政府の主導による立憲政治の実現に取りかかることになるのである。
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