日本最大の県となった石川県
明治九年(1876年)に全国規模で大規模な府県統合が二度にわたり行われ、石川県は四月に新川県(現在の富山県)を併合し、八月には敦賀県(現在の福井県)の一部を合併して、旧石高二百二十万石の日本最大の県となっている。
石川県が大きな県になった背景について、「『福井県史』通史編5 近現代一」には次のように解説されている。
この九年の府県統廃合の目的は、まず第一に、地租軽減(地価の百分の三が二・五となった)による歳入不足を克服するための府県経費節減にあった。第二には、旧士族が県職員を独占している旧藩域依拠の県をなくし、中央政府の地方支配を確立するためであった。最大の眼目であった鹿児島県には手をつけることはできなかったが、佐賀・鶴ケ岡・鳥取・名東県を廃止し、また、その名東県を合併した高知県の県令に初めて他県出身者を任命したのも、そのような政府の意図からであった。
(『福井県史』通史編5 近現代一 第一章 第四節 一)
ところが、もともと藩政以来の「陋習」が深く「浸染」し、「難治県」の一つとされていた石川県が、新川県とともに旧福井藩(親藩)の封地であった越前七郡を併合したことは、県政の運営をより困難にした(「公文別録」内務省一―一)。
政府は難治県である石川県を近隣の他県と併合することで、旧加賀藩士と県庁との結びつきを遮断しようと考えたのであろうが、そもそもこの併合にははじめから無理があったと思われる。政府にとっては、旧石川県のみならず、新川県(富山県)も敦賀県もいろいろ問題の多い県であった。このブログで神仏分離・廃仏毀釈についていくつかの事例を紹介してきたが、この地域においても、三県が合併する以前に大きな文化破壊が行われ、後には暴動が起きて多くの者が処刑された歴史がある。
白山信仰の神仏分離
富士山、立山とともに日本三霊山の一つである白山は、富山県、石川県、福井県、岐阜県の四県にまたがる両白山地の中央に位置しその最高峰であるのだが、古くから白山を霊峰とする白山信仰が存在した。中世より神仏習合が進み、僧徒が広大な神域を管理するようになり、加賀(現石川県)・越前(現福井県)・美濃(現岐阜県)の三つの禅定道が整備され、広大な神域には多くの仏教施設が存在していた。
慶応四年(1868年)に鳥羽伏見の戦いがあり三月以降神仏分離令が出されたたあと、全国各地で仏堂が破壊されたり社殿に転用されたりしているのだが、加賀馬場の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ:石川県白山市)の本地堂、地蔵堂などが明治二年(1869年)までに撤去され、越前馬場の平泉寺は明治三年(1870年)の太政官布告により寺号が廃止され、明治四年(1871年)に寺領が没収され、翌年には廃寺となっている。
白山頂上には三社(大御前・大政・別山の山上三社)があり、かつてはこの所属をめぐって加賀・越前・美濃の三藩の対立が何度も起こり、この地域は寛文八年(1668年)以降白山を含む山麓十八ヶ村は天領(幕府直轄地)となっていた。明治五年(1872年)にこの地域を石川県の管轄とすることが決定し、翌年には白山比咩神社の本社とすることが決定したのだが、そのために石川県が山上三社の多くの仏像等を排除しなければならなくなったのである。
石川県のホームページには下山仏の画像を添えて次のように解説されている。
明治七年(1874)になって、石川県令内田政風は、白山山頂の神仏分離を強行し、山頂一帯の堂舎に安置されていた仏像・仏具を廃棄した。さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白山麓十八ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺と尾添村に預けられることとなり、「白山下山仏」の名で安置され、今日に至っている。林西寺境内の白山仏堂に伝えられているものは、山上三社や室堂などに奉納されていた八体即ち、銅造十一面観音坐像(大御前本地仏、文政七年《1824》在銘)・銅造阿弥陀如来坐像(奥之院本地仏)・銅造聖観音菩薩坐像(別山本地仏)・銅造地蔵菩薩坐像(六道辻地蔵堂安置)・木造泰澄坐像(室堂安置)・木造薬師如来坐像(市之瀬薬師堂安置)・木造如来形坐像・銅造雨宝童子立像である。神仏分離の歴史的事実を今に伝える、これら下山仏は、貴重な資料であるといえよう。
下山した中で一番重たい仏像は白山の主峰・御前峰に安置されていた銅像十一面観世音菩薩坐像で、重さは二〇七kgもあるという。いくつかに分解して運べるように鋳造されているのだそうだが、悪天候の中で急峻な山道を金属製の仏像を担ぐ苦労は大変なものであったろう。
三日の予定が九日もかけて苦労して下山してきた仏像のうち八体を引き取った林西寺は、今は浄土真宗の寺であるがもともとは天台宗で、八世紀に開基された白山麓でもっとも由緒の古い寺院であり、長年にわたり代々白山別当を勤めてきた寺だという。この林西寺の境内にある「白山本地堂」で八体の貴重な白山下山仏を拝観することができる。
かくして白山信仰の神仏分離は無事にやり終えることができたのだが、もっと難度の高い業務を遂行しなければならなかった。北陸地域は歴史的に浄土真宗の信徒が多く、この地域で神仏分離や寺院統合を推進することは容易なことでないことは政府もわかっていたと思うのだが、富山藩だけは幕末の水戸藩に倣って単独で廃仏毀釈を実行している。
激しく行われた富山藩の廃仏毀釈
越中富山藩は明治二年(1869年)の版籍奉還で、藩主の前田利同(まえだ としあつ)は富山藩知事に任ぜられたが、当時はまだ幼かったために一切の政務を大参事・林太仲(はやし たちゅう)に任せていた。林は藩政を西欧流に改革しようとし、議会制の導入や軍制の洋装化などを推進し、幕末の水戸藩に倣って廃仏毀釈を推進し梵鐘などを熔かして武器を製造しようとした。明治三年に、寺町に一宗一個寺を残すほか、管内の寺院を悉く廃寺として取壊すことを命じているが、当時の富山藩の寺院総数は千六百三十余であったという。それを八箇寺のみを残すこととし、それをわずか一日で強行しようとしたのである。
圭室諦成 著『明治維新廃仏毀釈』にはこう解説されている。
(明治三年閏十月)二十八日、法華宗大法寺より、「配下の寺院、郡市とも残らず、今晩当寺より合寺せしめ候いおわんぬ。なおまた従来の伽藍および梵鐘、金仏具はそのまま差し上げ奉り候旨、各寺同意し奉り候」の届出があった。鋳潰して鉄砲製造の材料に供せんとしたのである。ついで浄土真宗正龍寺趾に、新設したる鋳造工場に運び、その作業にかかった。その時、「善男善女門前市をなし、金仏等の溶炉に投げられ、焼爛するを瞋目し、閉眼合掌して、念仏称名を唱え、愁歎する者多し。」であったと言われている。
(圭室諦成 著『明治維新廃仏毀釈』昭和14年刊 p.210~211)
しかしながら、富山藩は金沢藩の支藩であり越中国の大部分は金沢藩の所轄で、富山藩管内のみ合寺制を強行して僧徒や人民を苦しめ、隣接する金沢藩では合寺されることはなかったので、国内でかかる不公平があることはおかしいと富山藩庁に苦情が相次いだという。
越中国は真宗の寺院・門徒が多かったことから、東西本願寺より数度にわたり政府に歎願があり、太政官も動いて藩に「穏当の処置」を検討することを命じている。しかしながら、すでに堂宇等はすでに破壊された後であったため、藩は破壊された寺院の再建を漸次認めていくことを約している。
富山藩に限らず北陸地方は昔から真宗が強い地域であるが、富山藩に於いて激しい廃仏毀釈が行われたことが、各地の真宗門徒を刺激することとなるのである。
越前護法大一揆
敦賀県は、明治四年(1871年)十一月の第一次府県統合で、若狭湾沿岸(嶺南地方)と旧越前国(嶺北地方)の南部を管轄するために設置された県だが、明治六年(1873年)一月に足羽県(嶺北地方北部)を編入して現在の福井県とほぼ同じ県域となっている。この地域も浄土真宗の強い地域なのだが、以前このブログでレポートしたように、明治六年に越前護法大一揆が起こっている。
当初明治政府は、神祇省に排仏主義者を集めて強引に寺院の統廃合を推進させてきたのだが、神道を基軸とする民衆教化の限界を悟り、これまでの急進的な神道国教化政策を改めて、明治五年(1872年)に大幅な政府組織変更を行い、神祇省を廃止し新たに教部省を設置し、同省は神道・仏教をはじめ宗教界を動員して、国民教化をはかることとした。浄土真宗の強い敦賀県では、教導職に任命された者の九六パーセントが僧侶であったという。
明治六年(1873年)一月に、元僧侶であった石丸八郎が教部省より教導職として今立郡定友村(今立町)に送り込まれ、この人物が地域寺院の廃合や小教院設置の急務を唱え、各寺院に『三条の教則』*を守るよう誓わせたことが真宗寺院の僧侶・門徒らに波紋をひき起こし、その情報が隣接の大野郡に及ぶと六十五ヶ村が、決して廃仏を行わせないとして立ち上がったのである。
*『三条の教則』:敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を説くこと
この一揆の規模はかなり激しく大規模なものであった。『福井県史』にはこう記されている。
三月五日、福井支庁から派遣された官員や邏卒らの官憲が、竹尾五右衛門ら五人を『護法連判』の主導者として拉致したのを発端として、まず大野郡下で大一揆が勃発する。翌六日には、おもに上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀または焼き打ちし、また農村では、豪農の区・戸長宅を攻撃した。
(『福井県史』第一章第一節五)
門徒らは、「三か条の願書」(一、耶蘇宗拒絶の事 一、真宗説法再興の事 一、学校に洋文を廃する事)を差し出してその回答を要求したが、福井支庁の返事が遅れたために再び一揆勢が集まり、「大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ」という険悪な事態になったという。そのため、福井支庁はいったん「願書」のすべてを認めて、主導者の処刑をしないと確約して事態を収めたが、不穏な空気が続いて十一日に名古屋鎮台に出兵を要請すると、同日に隣接の今立郡で大一揆が勃発し、教導職寺院はじめ豪農商の区戸長居宅や土蔵などが破壊され、十三日には坂井郡下でも農民が各所で蜂起した。
その後鎮台兵が進駐して事態が鎮静化すると、県は一旦容認した一揆側の「願書」の承認を取り消し、一揆参加者の八十余人を捕縛して六人が死罪に処されている。
県全体では、八千四百三十九人が処罰され、竹槍や棒などを持参し一揆に参加した者は三円、何も持参せずに参加した者には二円二十五銭の「贖罪金」が課されることとなり、合計で二万三百九円もの贖罪金が集まったという。
「大石川県」のさらなる混乱
石川県がこのような歴史を持つ富山県と敦賀県と合併したところで、県政がうまくいく理由は何処にもなく混乱が続いていたのだが、明治政府の新たなる施策がさらに混乱に拍車をかけることとなる。「『福井県史』通史編5 近現代一」にはこう記されている。
さらに、石川県政をいっそう矛盾に満ちたものにしたのが、十一年七月の三新法(「郡区町村編制法」・「府県会規則」・「地方税規則」)の制定であった。この最初の統一的地方制度では、住民の地方自治への部分的参加が認められ、地方議会は公選議員により構成された。このことは、地域の政治的経済的要求を提出できる場ができたことを意味し、とくに府県会は中央政府の政策の施行方法や予算案をめぐって知事・県令と鋭く対立することとなる。
公選による石川県議会が明治十二年(1879年)五月に開かれたのだが、越前・加賀・能登・越中の地域的利害が噴出し、地域にとって不可欠な予算案が大幅に削られることが相次いで、県政はさらに混乱したことはやむを得なかった。
明治十四年(1881年)になって福井県および富山県が石川県から分県されることになるのだが、その話は次回に記すことといたしたい。
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