江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由
徳川家康が江戸幕府を開いた以降、徳川幕府の歴代将軍は江戸が政治・経済・文化の中心になるよう努力したに違いないのだが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡したにもかかわらず、その後も大阪がわが国の経済の中心地であり続けたのである。その理由はどこにあったのだろうか。
この問題について徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第19 元禄時代 下巻 世相篇』でこう解説している。
政治上に於いては、一個の大名の城下程の勢力もなかった大阪が、何故に重要の働きを、徳川時代に為しえたかといえば、それは別儀ではない。ただ大阪が、日本全国物資の集散地であったからだ。物資中でも、殊に封建時代に於ける将軍をはじめ、大名どもの生命(いのち)と頼む、米の集散地であったからだ。
徳川氏の封建制度は、米の上に立つたる制度だ。徳川将軍の所得は勿論、その旗本でも、大名でも、また大名の家来たる侍(さむらい)でも、みなその所領の百姓から年貢として米を取り、米を以て生活の基本にした。しかも人は米のみにて生活する能わず、その米を通貨に代え、通貨を以て、自余の需要に供した。その米の処分を為す場所が大阪であった。而してその米の取り捌き人が、大阪商人であった。されば単に米のみについて見ても、大阪商人は、日本における武士の、敢えて総てとは言わぬが、大部分の生命(いのち)の綱を、握りつつあるものと言わねばならぬ。 しかも大阪は単に米の都のみではなかった。その水陸における運輸交通の利を占め、その日本における最も膏饒(こうじょう)にしてかつ富庶なる環境を控え、さらに遠くは朝鮮、支那、海外との関門と接触し、鎖国政策実行後に於いても、長崎と江戸の中間に位するため、あらゆる海外貿易についても、より大なる便宜を専らにした。
『近世日本国民史 第19元禄時代 下巻 世相篇』民友社 昭和11年刊 p.8-9

江戸幕府は当初は浦賀を貿易港にしようと動いたようだが、商業の中心地を江戸に移すことは出来なかった。江戸は武士中心の社会であり、大阪商人からすれば上に無用の束縛をなす武士が少ない方が商売がやりやすかったし、京都に近くまた海外貿易の拠点である長崎からも遠くない大阪を離れたくなかっただろう。
…江戸に於いては商人が武士に叩頭し、大阪にては武士が商人に叩頭す。江戸に於いては、商人の得意先が武士であり、大阪に於いては、武士の得意先が商人であった。かくのごとくして江戸が武士の都である如く、大阪は商人の都であった。而していわゆる上方の文化なるものは、この大阪の富と、京都の歴史との、化合的産物と言わねばなるまい。
同上書 p.9-10
莫大な富を蓄積した大阪商人淀屋
大阪が米の集散地となったとは豊臣時代からのことだが、豊臣家が滅亡し徳川幕府の直轄地となったのちにさらなる発展を遂げ、米取引で巨額の財を成す者が現われるに至る。
徳富蘇峰の前掲書に『堂島旧記』が引用されており、淀屋のことが記されている。
…淀屋與右衛門という有福の者ありて、寛永正保の頃より、西国諸侯方積登せし米穀を引請け、売捌代銀を取立て国へ送り、江戸屋敷への仕向等の世話をもって業とす。則ち町人の蔵元なり。寛文年に至りては、この蔵元を勤むる者数軒に及ぶ。尤も淀屋を第一とす。ここにおいて市中米商する者、多分この淀屋に集まり買得せしより、自然と米価高下を争い、是より相場の事起これり。[堂島旧記]」
同上書 p.26

淀屋の初代・岡本三郎右衛門常安(じょうあん)は伏見城の造営や淀川の堤防改修工事で采配を振るったのち材木商を営み中之島の開拓を行った人物だが、二代目の淀屋言當(ことまさ)の時代に自身が拓いた中之島に米市を開き、中の島を渡るための淀屋橋を自費で土佐堀川に架けている。

Wikipediaには、こう解説されている。
米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には百三十五棟も立ち並んでいた。また一六二〇年代、全国の米の収穫は約二千七百万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約五百万石が市場で取引きされていた。その四割の約二百万石が大坂で取引きされていたと言われている。
米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていた。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった。この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎(かさい)、四代目の重當(しげまさ)の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。

では、淀屋にどの程度の富が蓄積されていたのだろうか。淀屋四代目の重當の贅沢振りが『元正間記』という書物にこう記されているという。文中の古安(こあん)は、重當のことである。

彼古安が代に奢り過ごして、屋敷を百間四方に構え、家作の美麗はたとえて言うべき様もなし。大書院、小書院は、総体金張付金襖、勝田興則興信が彩色の四季の花鳥なり。庭には泉水立石、唐大和の樹木を植えさせ、夏座敷と名付けて、四間四方四面に雨椽(ぬれえん)を付けて、玻瓈(びいどろ)の障子を立て、天井も同じびいどろにて張詰め、清水を湛え、金魚銀魚を放したるてい、天下の御涼所にても、是にはいかで勝るべき。右のほか数寄屋の構え、金銀を延べたる如く、奥座敷には欄間に四季の草花を彫らせ、雨椽高欄は朱塗りに仕立つ。大名高家の連中方もいかでか及ぶべき。表廻りの手代座敷、料理の間、台所は広大なること、言語に絶え、夫々の役人を定めて、家内は常に市をなしけり。
これにより西三十三か国の大名衆の御用を承り、西国九州の諸大名、淀屋の金借用なきは一人もなしといえり。金銀には諸大名よりの付届(つけとどけ)、家老用人の歴々にも手をつかせ、高位大禄の輩とも膝を組んで威を振るう。…
同上書 p.27-28

闕所処分を受けた淀屋辰五郎
四代目の重當はこのような贅沢三昧を続けたのだが早死にし、元禄十五年(1702年)に息子の淀屋辰五郎が家督を継ぐこととなった。しかしながら辰五郎も親の重當と同様に「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」とされ、宝永二年(1705年)に闕所(けっしょ)、すなわち全財産没収の処分を受けている。

この時に没収された淀屋の財産は驚くべき金額である。Wikipediaによると、
闕所時に没収された財産は、金十二万両、銀十二万五千貫(小判に換算して約二百十四万両)、北浜の家屋一万坪と土地二万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録がある。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀一億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ百兆円)にも上った。
淀屋の財産目録には「諸大名貸付金」「幕府御用金」などもリストアップされており、闕所によりこれらすべてが幕府のものとなり、返済困難に陥っていた諸藩の大名の借金は結果として債務免除になったようである。
それにしても、贅沢が目に余るという理由で淀屋の莫大な全財産を没収するなど、幕府は随分横暴なことをしたものである。重大な罪を犯したわけでもないのに、どう考えても処罰が重すぎるのである。
しかも淀屋辰五郎は十八歳*で家督を継ぎ、闕所処分にされた時はわずか二十一歳前後の青年であった。
*淀屋辰五郎の出生年は貞享元年(1684年)とされているが諸説あり、徳富蘇峰の前掲書では十五歳で家督を継いだとあるので、闕所処分は十八歳ということになる。
淀屋辰五郎が闕所処分を受けた時期は、元禄十六年(1703年)に起きた元禄地震の二年後であることと無関係ではないだろう。この地震は関東大震災よりも大きかったと考えられており、大きな津波が発生して関東を中心に二十万人を上回る死者が出た大地震であった。
江戸幕府や被害の大きかった諸大名や幕府は、この災害復旧のために巨額の支出を余儀なくされることになるのだが、その資金を調達するために幕府が淀屋に目を付けたということではなかったか。大量の金銀を没収する目的もあったのだろうが、巨大化した商家を押さえ込むと同時に、巨額に膨れ上がった借金を帳消しにさせて諸大名の窮迫状況を救うことに主たる意図があったという説が真実であると思う。
この事件の直後から淀屋事件が戯曲化されている。徳富蘇峰は前掲書でこう記している。
宝永二年六月—未だ事件が結了せざる以前—には、錦文流の棠(からなし)大門屋敷の作出で来たり、宝永五六年の頃には、近松門左衛門が、淀鯉出世瀧徳の浄瑠璃出で来たり、宝永7年には、其碩(きせき)の風流曲三味線出で来たり、正徳三年には、西鶴門人圑水(だんすい)が、新永代蔵出で来った。その他にこの事件に関する記事が、種々の書籍に散見している。
同上書 p.43

かくして淀屋の贅沢三昧・放蕩三昧のイメージが人々の間に定着していったのだが、このような情報は、幕府が淀屋を闕所処分したことを正当化するために意図的に広められたプロパガンダではないだろうか。
この問題に関して、「八幡の歴史を探求する会」会員の丹波紀美子さんのレポート『淀屋の歴史をたどる!』に、興味深い資料が紹介されている。
淀屋闕所に関する資料の一つとして注目すべき文書がある。
淀屋闕所ヨリ當年五拾年ニ相成候ニ付、於御堂法事
相勤可申旨被為仰付、従江戸面銀百貫目如斯書付相
添、當所御堂ヘ被仰付。當八月十六日夜限、右法事相勤候事。
其時御堂祐筆是ヲ冩取置候。講中衆内證ヲ以冩置候也要するに、闕所五十年後に、江戸幕府より銀百貫を添えて辰五郎の法事をする様御堂にお達しがあったということである。幕府が淀屋の功績を認めていたことに他ならない。
『淀屋の歴史をたどる』 08号
残念ながらこの引用文書の出典が丹波さんのレポートの中に記されていないのだが、同会の他のレポートから読み解くと、宝暦四年(1755年)八月に津村御堂という寺で淀屋闕所五十年法要が行われた際の寺の記録だと思われる。
闕所処分されたのちの淀屋辰五郎は江戸に潜行し、そして六年後の正徳五年(1715年)に日光東照宮百年祭の恩赦で、初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡(現京都府八幡市)の山林三百石が返還されることとなり、享保元年(1716年)に辰五郎は八幡の地に居を構えたのだが、その翌年にわずか三十三歳の若さで亡くなったという。
再興した大阪淀屋を幕末期に閉じたのはなぜか
しかしながら、淀屋辰五郎の父である四代 淀屋重當(しげとみ)は、闕所処分とされる事を予想し、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾分けをしたとWikipediaに書かれている。

牧田仁右衛門は店を出身地の伯耆国久米郡倉吉に開いて順調に経営規模を拡大していき(後期淀屋)、闕所から五十八年後には五代目の四男が淀屋清兵衛を名乗り、大阪に店を出して淀屋橋を買い戻し、大阪淀屋を再興している。そしてこの大阪淀屋は五代続いて繁栄したという。
しかし話はここでは終わらない。淀屋が幕末になぜか商売をたたんでいるのだ。

物理学者で大阪大学名誉教授の長谷川晃氏が平成二十六年(2014年)に『私の独り言 明治維新を成功させた陰の力—ある大阪豪商と京都の公家の話』という論文を書いておられ、ネットで公開されている。この論文にはこう記されている。
一七〇五年の闕所処分の約百五十年後の幕末の頃の安政六年(1859年)に倉吉淀屋と大坂淀屋の両家は突然店をたたみ、全財産を倒幕の為にと朝廷に献上して姿を消していることだ。これは淀屋の闕所処分の百五十年後の幕府に対するリベンジと呼ばれている。
『私の独り言 明治維新を成功させた陰の力—ある大阪豪商と京都の公家の話』p.18

長谷川氏によると、淀屋がこの時に献上した資金は五百万両以上あり、渡した相手はおそらく岩倉具視で、岩倉は薩長とともにたくみに倒幕に導き、維新政府を軌道に乗せる役割を果たしたと推定しておられる。五百万両という金額は当時の日本のGDPの二割以上で、国家予算の規模を上回る水準であったという。
文久元年(1861年)、岩倉具視は将軍家茂への皇女和宮の降嫁に尽力し、宮中の尊王攘夷派からは佐幕派と見なされ、文久二年(1862年)に蟄居処分を受けて岩倉で貧困生活を余儀なくされることとなる。そして、岩倉は蟄居生活を続けている間に倒幕論に考え方を変えているのだが、長谷川説ではこの時期に岩倉は淀屋に会って資金献上を受け、佐幕派から討幕派に変身したとする。
岩倉の蟄居処分は慶応三年(1867年)十一月まで続いたのだが、なぜ貧乏公家であった岩倉が蟄居処分を受けている最中に討幕の密勅を薩摩藩と長州藩に下し、赦免されると早速慶喜の処分を求め、王政復古大号令を出して新政府の参与となり、その後も強いリーダーシップを発揮することができたのか。
長谷川氏は岩倉蟄居処分を受けていた時期の幕府のマークは甘く、淀屋のような人物や薩長などの討幕派との接触が容易であったとし、また岩倉が淀屋からの巨額の献金をどのように使ったかについて以下のように推測している。
ここでも淀屋の資金が公家達を動かすのに使われたと推測できる。こうした経緯を知った徳川慶喜は突然薩摩征伐の名目に出兵し、烏羽伏見の戦いが始まる。朝廷を中心とする新政府(公家達)は慌てふためき、徳川と薩摩藩の争いは私闘だから新政府は関与しないと言っていたが、新政府の議定となったばかりの岩倉具視は淀屋との約束に基づき、 この案を通している。
数ヶ月前まで蟄居処分を受けていた岩倉がこれほど急速に権力を持つことが出来たのは恐らく淀屋資金を巧みに使って新政府の公家達を動かしたからだと筆者は見ている。
ちなみに孝明天皇の石高は三万石、つまり年収三万両で、後の公家達の石高は一万石にも満たない。もし岩倉が淀屋から五百万両を受けていたとしたら新政府を自由に動かすに事欠かない。新政府が徳川方につくか薩長方につくか、 それとも知らん振りをするかでは従来の公家達であれば知らん振りを選ぶはずである。これを覆して薩長方につかせるには単に新政府の公家達の票を買うだけでは出来ない。軍隊を持たない公家政府を動かすには薩長組が圧倒的な大軍を率いる徳川軍に勝つ保証が必要である。恐らくここで岩倉は淀屋からの資金の一部を薩長軍に与え、同時に頃合いを見て錦の御旗を出すという戦略を持ち出して新政府を説得したのであろう。
実際鳥羽伏見の戦いに際し薩長軍は大坂の三井家に軍資金を依頼し、一万両程度の寄付金を得ている。従ってもし岩倉が淀屋の資金のほんの一部十万両程度の軍資金を既に提供していて、薩長軍が近代兵器を備えている事実を示していたら、新政府を薩長側に立たせることの説得が出来たはずである。蟄居以前は佐幕派であった岩倉があくまでも倒幕にこだわったのは淀屋との約束があったからではないだろうか。
同上論文 p.20
長谷川氏が言うように、もし淀屋の巨額の資金が岩倉具視に流れていたとすれば、蟄居していた時代から明治新政府に於いて岩倉が強いリーダーシップを取れたことが謎ではなくなるのだ。
長谷川氏は次のように纏めておられる。
革命を仕掛けたのは薩長軍ではあるが、クーデターを成功に導き、新政府を打ち立てたのは淀屋の資金を得た岩倉具視である。これが私の新説である。善かれ悪しかれ岩倉具視の名前は幕末史には残っていない。金を出しても名を残さない大阪商人の根性の表れであろう。
同上論文 p.20
残念ながら、淀屋が岩倉具視に献上した資金が五百万両以上あったという話は長谷川氏の仮説にすぎず、裏付けとなる決定的証拠となる史料は何も存在していない。
しかしながら、淀屋が幕末に店をたたんだことは史実であり、巨額の財産を朝廷に献上したことについては別の研究書にも書かれている。たとえば、新山通江著『鴻鵠の系譜 : 淀屋歴代記』にはこう記されている。
淀屋の献金先は、多分、天皇家の菩提寺でもある京都の蘆山寺であったかも知れない。それは、飽くまで推量に過ぎるものではないけれども、全く根拠がなくもない。しかし、今の段階では、それ以上何も言えないのである。
新山通江『鴻鵠の系譜 : 淀屋歴代記』淀屋顕彰会 1980年刊 p.243
新山が献金先として名前を挙げている蘆山寺は皇室とゆかりのある寺で、第百十九代光格天皇の時代に仙洞御所の一部が移築されたほか皇族の陵墓・墓が多数存在している。新山は廬山寺が勤王討幕の拠点であったことや、討幕派であった中山忠伊卿(光格天皇の皇子)が諸国から献金を募っていたこと、蘆山寺の管長から「皇室関係の古い過去帳の何処かに、淀屋の名前があったように思うが…」との発言があったことなどの論拠を書いているが、廬山寺に淀屋が献金した証拠となる資料が発見されているわけではなく、新山説も状況証拠に基づく推理であることに変わりはない。
とは言いながら、明治維新を成し遂げた中心メンバーは岩倉のような貧乏公家と薩長土肥を中心とする下級武士であり、若くて貧しい彼らが倒幕を実現させるだけの莫大な資金をどうやって入手できたのかという肝心な部分については、通史には何も書かれていないのが気になるところだ。
以前このブログで、薩摩藩の偽金鋳造の話や、廻船問屋・白石正一郎が長州藩に献金した話を書いたが、朝廷側に余程多くの資金がなければ、討幕勢力をまとめることは難しかったと思われる。
クーデター資金が外国勢力から出ていたとする説もあるようだが、この説も同様に、根拠となる資料は何も存在しない。いずれにせよ、政権を転覆させるような大事件は証拠となるような資料が残されないことはよくある話であり、そういう場合に何が真実なのかは史実を固めながら説得力のある仮説を立てるしかないであろう。
貧乏公家であった岩倉が、なぜ討幕派、明治新政府の中心人物となることが出来たかを考えると、淀屋の資金が岩倉宛に直接献金されたのか、あるいは別ルートで岩倉に献金されたのか、また献金総額がいくらであったかはともかくとして、討幕と明治新政府誕生のために用いられた可能性はかなり高いと思うのだが、読者のみなさんはどう考えられますか。
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