ペリーには日本が抵抗すれば武力行使を行う権限が与えられていた

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アメリカが日本の開国を望んだ背景

 アメリカがテキサスを併合すると、翌1846年にメキシコとの戦争がはじまってアメリカが勝利し、カリフォルニア、ニューメキシコの宏大な土地を奪い取ることによって、アメリカのフロンティアは太平洋岸にまで達した。たまたまカリフォルニアで砂金が発見されてゴールド・ラッシュが起きて、西へ西へと辺境開拓が進んでいった。

 このブログで以前紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に、戦後のGHQの検閲により全文削除された森恭三氏の論文の一節が引用されている。

 ゴールド・ラッシュ、人口の大量移動は、新大陸横断鉄道の建設を刺激した。何万というシナ人苦力によって築かれたユニオン・パシフィック鉄道が、はじめて大西洋と太平洋をむすんだのは、1869年のことである。(中略)

 米国人にとっては、辺境というものは、いつも西にあったので太平洋岸にいたるまで開拓しつくし、その岸になって、あたらしい辺境を物色するときも、自然、その眼は西にそそがれた。だから、太平洋への関心は、米国として、ある意味では、歴史的因縁といえよう。

 まして対シナ貿易は、クリッパー帆船の昔から、もっとも有利な商売として、シナに至る距離の短縮が至上命題とされるに至ったのも、自然の勢いであった。(森恭三「『辺境』の開拓」、『文芸春秋』第二十四巻第八号、昭和二十一年十月)

( 勝岡寛次 『抹殺された大東亜戦争』p.112)

 この文章は森恭三氏が思い付きで書いたものでないことは、嘉永六年(1853年)に四隻の軍艦で浦賀に来航したペリー提督の『日本遠征記』を読めばわかる。

 合衆国とメキシコとの戦争終結の条約によって、カリフォルニア地方は合衆国に移譲せられた。同地方の太平洋に臨む位置を見て、人々は商業企業の分野が拡大せられたとの考えを抱かざるを得なかった。(中略)

 もし東部アジアと西ヨーロッパの最短の道が(この蒸気船時代に)わが国を横切るならば、わが大陸が、少なくともある程度まで、世界の街道になるに違いないことは十分に明らかであった。そしてわれわれがカリフォルニアを領有して間もなく、同地の産物が金であるということを発見した時、わが国の地理上の位置から暗示されて明白な形となった考えは、かくの如き発見のために、ますます乗り気にさせられたことはこの上もなく当然なことであった。

(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記 1 』p.205~206)

 当時は蒸気船による太平洋航路の確立はされておらず、欧米諸国はアフリカの喜望峰経由でアジアに向かうしかなく、寄港地の多くはイギリスやフランスの領土であった。ペリー自身も東海岸のノーフォーク港から地球の裏側を廻って日本に来航しているのだが、もし安全な太平洋航路が確立すれば距離は大幅に短縮され、運送に関わるコストが激減することは確実であった。しかしそのためには、途中で安全に燃料や飲料水を補給できる港の確保が不可欠であることは言うまでもない。アメリカが、将来シナに進出する足掛かりとして、ハワイ・日本を給炭地として経由する太平洋航路の開拓に向かおうとしたのは当然のことであった。

ペリーの日本遠征目的

ジェイムズ・ビッドル(Wikipediaより)

 アメリカは日本との通商可能性を打診することを目的に、弘化三年(1846年)にアメリカ東インド艦隊司令官のジェイムズ・ビッドルを日本に派遣している。ビッドルは二隻の軍艦を率いて浦賀に来航したが、幕府から通商を拒否されて退散している。ビッドルがこの時に強引なやり方を取らなかったのは、日本人がアメリカに対する不信感を持たないように交渉することを命じられていたからというが、7年後のペリー来航時には、ビッドルの失敗を踏まえて方針が変更されていたようだ。

マシュー・ペリー (Wikipediaより)

 『ペルリ提督日本遠征記』には1852年12月14日付でペリーが北大西洋のポルトガル領・マディラ島碇泊中にミシシッピ船上で認めた海軍卿あての書状の全文が引用されており、そこにはこれから日本に向かうにあたり、どういう方針で臨むかが記されている。重要な部分を引用する。

 予備行動として、わが捕鯨船その他の船舶のために一つ以上の避難港及び給水港を、直ちに獲得せざるべからず。しかもこれは容易に達成し得ることなり。而してもし日本政府が本島内にかかる港を許与することを拒否せば、かつもし軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能わざりせば、わが艦隊は、まず最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料を得るに便利な所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を懐柔し、彼らと友交を結ぶよう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に当然ならん。

(中略)

大英国はすでに東インド及びシナの諸海湾において、最も重要なる地点を占有し居れり。殊にシナの海湾に於いて然り。

 彼らはシンガポールをもって西南の門戸を、他方香港によって東北の門戸を制扼し、ボルネオの東岸ラブアンの島をもって中間地点を支配し、これ等の海洋上に於ける莫大な通商を壟断制御する力を有す…。

 幸いに日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』政府*に手を触れられずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たわるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり

*『併呑』政府:イギリス政府

(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記 1 』 p.224~229)

 ペリーの日本遠征目的は決して武力的侵略ではなかったが、もし日本が拒絶する場合には武力行使を行って、琉球及び小笠原諸島などを占領して海軍の根拠地を作り、シナに至る戦略上の要衝の地をアメリカの手で押さえる方針があったのである。

 GHQ焚書の仲小路彰『太平洋侵略史』にはこう解説されている。

 1852年11月5日――国務省から海軍省に対し次の如き遠征目的が指示された

一、日本諸島において難破したる、あるいは気象のためその港湾に避難せしめられたる北米合衆国海員及びその所有物の保護について恒久的の協定を為すこと。

一、その港湾の幾許かに食料、薪水を得ること。また遭難の際には、その船舶をして再び航海を継続せしめ得べき資料を得ること。なおもしその本土において不可能ならば、少なくもその小なる無人島において貯炭場を設くるの許可を得ること。

一、貨物売却または物品交換のために、北米合衆国の船舶をしてその港湾の幾許に、出入りするの許可を得ること。

ペリーはその目的達成のため、もし日本であくまでも強硬に反対する場合は武力を行使する機能も付与されたのであった。

ペリーが海軍長官より受けた使命書の中に、

「貴官の日本における使命を果たすべく、貴官には多大の独断専行の力を付与せられる」と。

また米国政府の与えたる訓令には

「もし日本が米国の要求に応ぜざる時、貴官は日本に対し、その海岸に漂着せる米国の人民及び船舶を厚遇することを主張し、かつ今後米国の人民に対し、過酷なる処置を為す時には、厳に報復することあるべきを警告すべく、かつ遠隔にして細密なる訓令を為しがたきにより、臨機の処分権を貴官に付与す。すなわちその処置に過失あるも、これを寛大にせん」と。

(仲小路彰『太平洋侵略史 3』国書刊行会 p.4~5)

 このように、ペリーには、アメリカ政府から武力行使の権限が与えられていたのである。

 実際にペリーは相模湾に入ると対戦準備の指示を飛ばしている。

 われわれの船が(相模)湾に近づいた時には提督から信号が発せられて、活動準備のため各甲板は直ちに片づけられ、大砲は所定の位置に据えられて装弾され弾丸も配備された。小銃も用意されて。哨兵及び各員はそれぞれ自分たちの部署についた。要するに何時でも敵と対戦する前になされる一切の準備が行われたのである。

(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記 2 』p.184)
サスケハナ号(Wikipediaより)

 ペリーが搭乗していたサスケハナ号*は2450トンで、ミシシッピ号が1692トン、プリマス号989トン、サラトガ号882トンの軍艦四隻が戦闘できる状態で江戸湾に向かっていったのである。大船の建造を禁止していたわが国においては、約100トン程度のの千石船が最大規模の船舶であり、しかも木造であり、まともに戦える相手ではなかった。

*サスケハナ号:米海軍の蒸気フリゲート艦。上海以降は旗艦はミシシッピ号からサスケハナ号に変更された。

ハワイ、朝鮮半島ではアメリカはどう動いたか

 もし幕府が、ペリーをビッドルと同様に押し返していたらどうなっていたであろうか。

 太平洋航路を確立するうえで重要な他の地域で、アメリカはどのような行動をとったかを確認しておこう。

 まずハワイについてだが、19世紀以降キリスト教宣教師を通じてハワイ王朝への影響力を強めるようになり、カメハメハ二世時代に先住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥させ、ハワイのキリスト教化が進められた。カメハメハ三世の治世の1840年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整ったが、憲法制定後の政府では白人が要職を握るようになっていた。アメリカがハワイを併合したのは1898年だが、その準備を着々と進めていたのである。

 また、日本と支那の中間地点に位置する朝鮮半島については、1866年にアメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が李氏朝鮮との通商を求めて来航したところ、焼討ちに遭い乗組員全員が虐殺される事件があった。1871年にアメリカはジェネラル・シャーマン号事件の謝罪と通商を要求し、アジア艦隊に朝鮮襲撃を命令し、極東艦隊司令長官ロジャースは、5隻の軍艦を引き連れて江華島に現れ、砲撃戦ののち陸戦隊を江華島に上陸させ、草芝鎮と徳津鎮、広城鎮を鎮圧した (辛未洋擾[しんみようじょう]) 。この戦いは米海軍の圧倒的勝利に終わったが、本来の目的である通商は大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国はその後も引き続き鎖国を続けたという。詳しくはWikipediaの解説を参考にしていただきたい。

辛未洋擾 - Wikipedia

 次の文章は『中國評論』の昭和21年6月号に掲載予定であった、石濱知行氏の「中國民主化と米國の役割」という論文だが、ここには辛未洋擾とアメリカの対中国政策について記された以下の部分がすべてGHQの検閲により削除されたことが『抹殺された大東亜戦争』に紹介されている。

 ハワイ及びフィリッピン併合よりも三十年前に朝鮮に着目し朝鮮の江華湾に艦隊を入れて、『四八一門の大砲を有する五要塞を破壊し、五〇の軍旗を奪い、二五〇名の朝鮮兵士を殺し多数の負傷者を出す』(モーズ、支那帝国の国際關係、七頁)ことによってはじめてアジア大陸に延びたアメリカ資本主義は『門戸開放・機会均等』によって列国の対中国政策に割り込み『領土保全。中国独立』政策によって日本帝国主義を廃除し、いまや『中国民主化』のスローガンによって漸く多年の収穫を刈り取らんとしつつある。

( 石濱知行「中國民主化と米國の役割」 のGHQ検閲による削除部分 )

(『抹殺された大東亜戦争』p.116-117)

 このようなアメリカの歴史を知らずして、幕末以降のわが国の歴史を正しく理解できるとは思えないのだが、そういう史実を書いた既刊書の多くはGHQにより焚書処分され、占領期においては論文などの重要部分が検閲によって削除されてしまった。そして、戦後の教科書や通史などでは、欧米列強が世界をいかに侵略してきたかがほとんど記されなくなっている。

オランダから知らされていた欧米列強の動き

 以前このブログで、「オランダ風説書」のことを書いた。江戸幕府は、オランダからアヘン戦争で清朝が敗北したことを知らされて、天保十三年(1842年)に異国船に薪や水の便宜を図る薪水供与令を打ち出している。オランダからの情報がなければ、江戸幕府が文政八年(1825年)に出した異国船打払令を修正することはもっと遅れていたに違いない。

 しかしながらペリーの今回の遠征に関しては、幕府から通商を断られて薪水供与程度で帰ることはありえなかった。幕府が強力に立ち退きを要求した場合は武力行使がありえたのである。このようなアメリカの方針について、オランダはどの程度の情報を江戸幕府に伝えていたのであろうか。

 ペリー来航の前年(1852年)8月に到着した「別段風説書」にはペリーは来航目的や軍艦数を記したうえ、「陸軍及び攻城武器も積込んでいる」との情報を記している。

嘉永六年別段風説書

 しかしこの程度の内容では、江戸幕府がペリーとの交渉方針を決めるには甚だ情報不足である。

 オランダ国王は日米交渉の行方を心配して、ジャガタラの総督に命じて長崎奉行宛に親書を送っている(1852年6月25日付)。

 また、オランダは日本に対してだけでなくアメリカに対しても重要なアクションを起こしているのだが、オランダの動きについては次回の「歴史ノート」に記すことにしたい。

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 ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、昨年(2019年)の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

 無名の著者ゆえ一般の書店で店頭にはあまり置かれていませんが、お取り寄せは全国どこの店舗でも可能です。もちろんネットでも購入ができます。
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