『日露和親条約』締結後閣老から出された無理難題と、ロシア使節の帰国問題

開国前後

ロシアが領事を置く条件について

 前回の「歴史ノート」で、安政二年十二月二十一日(1855/2/7)に『日露和親条約』が調印されたことを書いたが、この条約文は二十四日に江戸に到着し、これを読んだ老中首座阿部正弘は第六条の条文を認めなかったのである。この第六条とはロシアの領事を置くことに関するもので条文では「もし止むを得ざる事ある時は、ロシア政府より箱館・下田の内一港に、官吏を差し置くべし」となっていた。阿部はこれを読んで勘定奉行の松平河内守近直を呼び詰問したという。

阿部正弘

 此の条の後患を遺すや知るべし。凡そ応接に臨機の処置あるは勿論と雖も、これ等大事件に至っては、一応政府へ伺うべき筈なり。足下承知の如く、今春アメリカとの神奈川条約すでに誤れり。然れども彼 (『日米和親条約』) は猶曖昧として、後日談判の余地なきにあらず。是 (『日露和親条約』) は明々に官吏を置くを許す。応接掛のうちにも、左衛門尉(川路聖謨)の如きは、才幹傑出の士なるに、この件を論争せずして此に及ぶは遺憾の至りならずや。何分にも是は速やかに取り戻したし。使節未だ伊豆を退帆せざるに及び、改めて応接すべき旨、申遣わすべしと。河内守拝諾して退き、即夜、左衛門尉に飛報伝達す。(懐旧記事)

(『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』p.192~193)
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 嘉永七年三月三日(1854/3/31)アメリカと締結した『日米和親条約』においては和文では「両国政府が必要と認めた場合は、本条約調印より18ヵ月経過後に、米国政府は下田に領事を置くことが出来る」という内容だったのだが、この内容だと日本が必要と認めなければ米国がいつまでたっても領事を置くことが出来ないことになる。しかしながら、以前このブログでも書いた通り、『日米和親条約』は領事に関する第十一条の条文が、英文と和文とで内容が異なっていたのである。英文の原文は以下のようなものであった。

 There shall be appointed, by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty, provided that either of the two Governments deem such arrangement necessary.

 英文を意訳すると「両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18ヵ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる」とあり、18ヵ月が経過すればアメリカ単独の判断で領事を置くことが出来るとなっていたのだ。

 ところが、老中の阿部正弘の頭の中には和文の条文しか頭になかったと思われる。『日露和親条約』では、ロシア側が必要と認めれば領事を置くことが出来ることが明記されているのを見て、談判のやり直しを命じたわけである。

川路聖謨

 川路聖謨は二月二十四日に戸田(へだ)村に向かい、プチャーチンと会見している。川路も『日米和親条約』の十一条はおそらく和文でしか理解していなかったであろう。また、プチャーチンが理解しているのは英文の条文だけであったと考えられる。そのために、プチャーチンと川路の会話はかみ合っていない。

プチャーチン

 プチャーチンは、『日米和親条約』によりアメリカはほどなく条約締結から18ヶ月の期限が今年到来し、もうすぐ領事を置くことであろう。ならば、ロシアも来年以降領事を置けるという内容はアメリカの条文とほぼ同趣旨の内容になっていると主張した。川路は領事を置く場合は談判を行うこととしたいと説明したのだが埒が明かず、ついにプチャーチンに対して情に訴える作戦に出た。

 さらに聞き承り申さず候ては、拙者政府へ対し申し訳もこれなく、実に生死にもかかわり候次第におちいり候。然る上は、右等の事は筑後守(水野忠徳)へ引き渡し、以来一切拙者取り扱い申すまじく候。

(同上書 p.243)

 川路を高く評価していたプチャーチンは、彼が幕府との板挟みになっているのを同情し、条文を変えることには同意出来ないが、後日以下のような書状を川路に提出している。

 貴国政府の不満にて、御前様の御迷惑を欲せずして、私事本国政府に得と示談いたし、ロシア官吏、下田あるいは箱館渡来以前に一人差し越し、日本政府より官吏差置き方に付、委任の人に談判いたすべし。もし日本に置いて、その時まで未だに外国の管理を差置かざればなり。

(同上書 p.249)
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 このようにプチャーチンは、川路の面目を立てるために領事を送る前にその談判のために一人の委員を派遣すると伝えてきた。川路の日記には「安心せり」と簡単に書かれているが、老中からの理不尽な要請に応じてくれたプチャーチンに深く感謝したことであろう。

ロシア使節の帰国問題

 前回の「歴史ノート」で、プチャーチンが乗っていたディアナ号が安政東海地震の津波で大破し、修繕のために戸田港に向かう途中に強い風と高波により浸水が始まり、航行不能となり、曳航している途中に沈没してしまったことを書いた。幕府は代船の建造を決定し60人乗りの「ヘダ号」を完成させるのだが、この規模の船では全員を帰国させることは到底不可能であり、プチャーチンにとっては、五百名近い使節全員をいかにして帰国させるかは大問題であった。

 当時ロシアはクリミア戦争の最中でロシアは代わりの軍艦を送り込む余裕は乏しく、どこかの国の船を借りざるを得ない。しかしながら、もし帰国途上で敵国であるイギリスやフランスの軍艦と遭遇すれば攻撃を受ける恐れがあった。安全に帰国するためには第三国の船に乗り、インド洋経由し地中海に抜ける航路は避けて、沿海州から陸路で帰国するルートをとるしかなかったのである。

 たまたま安政二年一月二十七日(1855/3/15)に下田港にアメリカの捕鯨船が入港して来た。プチャーチンはその日は戸田村にいたが、部下たちは乗船していたアメリカ人を下田の玉泉寺で歓待し、翌日に戻ってきたプチャーチンは米船を訪問して彼らの帰国の協力を依頼したという。

 ところが下田の幕吏は、ロシア人がアメリカ人を玉泉寺に宿泊させたことを条約違反として問題とした。この問題はプチャーチンと川路聖謨との談判においても話題となったが、結局このアメリカの船は二月二十五日にロシアの乗組員の一部である百五十九人を載せてカムチャッカ半島のペトロパブロフスクに向かって出航していったという。老中阿部正弘は、江戸幕府に何の相談もなく玉泉寺にアメリカ人を宿泊させ、さらにロシア人の一部が、挨拶をすることもなくアメリカ船に乗って帰国の途に就いたことについて、ここのようなことをやるような国は信用できないと激怒している。

徳川斉昭の対ロシア強硬論

 『日露和親条約』は無事に締結されたのだが、当時幕府の外交顧問であった徳川斉昭は、ロシアの軍艦が沈没して窮地に陥ったのを見て、老中阿部正弘に宛てて二度にわたり、ロシア人の鏖殺(おうさつ:皆殺し)を勧告したことが徳富蘇峰の前掲書に出ている。

 阿部はそのようなことがロシア本国にもし知られたら復讐の兵をわが国に差し向けることになり、他国からも日本は卑怯な国だと認識されロシアに加勢することもありうる。無益の殺生をして神国の名を汚し、諸外国を相手に無謀な戦の原因を作るようなことはすべきでないと反論した。さらに斉昭は、彼らを鏖殺しても秘密にしておけば本国に知られる心配はないと述べたのだが、阿部は五百人ものロシア人を殺めてしまえば、その秘密を保持することは難しいと説得している。

徳川斉昭

 攘夷論の論客であった徳川斉昭は、条約締結後もいろんな強硬な意見を述べては川路らを悩ませた。たとえばキリスト教の布教は国禁であるので、布教者は死刑とすることを取り決めよと主張した。

一 天主教(キリスト教)の儀、わが国の大禁たること定めて承知にこれ有るべく候。この度三港を開き(下田、箱館、長崎)欠乏の品を弁じ、定めの通り遊歩いたし候上は、此方の民心行違い、聊(いささか)たりとも、天主教を受け候ものこれ有り候得ば、勿論ながら旧法の通り、早速死刑に申しつけ候

『近世日本国民史. 第33 日露英蘭条約締結篇』p.271
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魯西亜使節応接図 早稲田大学図書館蔵

 斉昭はほかにも、難破船ではない船が三港(箱館、下田、長崎)に近寄れば打払うこともありうることを知らしめよと述べているが、委員はそのような要望をロシア使節と談判しなければならなかった。

 川路聖謨らは、プチャーチンと閣老との間に立って談判の取りまとめに何度も苦労させられたことは同情せざるを得ない。プチャーチンも条約締結後に『日米和親条約』にも書かれていないことについて議題に上がることを不愉快に思ったことであろう。そもそもプチャーチンはキリスト教のことなどを談判する委任を受けておらず、条約を締結した以上は新しい条項についての談判は改めて本国の委任を受けて行うべきものであることを述べているが、極めて当然のことだと思う。

プチャーチンとロシア使節団の帰国

 その後戸田港において建造していた「ヘダ号」がようやく完成し、プチャーチンはこれに搭乗して帰国することになった。安政二年三月十六日(1855/5/2)付の老中宛の書状にこう書いている。

懇切に日本政府に謝すべきは、実にわが「フレガット」(ディアナ号のこと)を失いたる後、ロシアのために助給せる事件にあり。我輩久しく此地に逗留せる間、すべて請い求める諸件を許容せしところの恩恤(おんじゅつ:恵み哀れむこと)は、実に我輩の緊切なる願望を充たしめるに足るべし。日本人とロシア人との関係は、漸次にいよいよ親密に進むべきは、疑いを容れざる所なるを以て、日本政府の斯く礼儀ある斡旋を、我が政府に知報するは、我が愉快なる務めとすべし。但し日本政府かくのごとき仁恩あること幾多なるやを明徴するに当たりては、自然にこの一事に説き及ばさざることを得ざる所なり。

(同上書 p.293~294)
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ヘダ号

 プチャーチンら六十名のロシア人を載せた船(ヘダ号)は三月十八日(5/4)に戸田港を出航したのだが、途中でフランス船二隻を発見したので、再び戸田港に戻ってきた。そして二十二日(5/8)に今度は四十八人を乗せて再び出航し、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクを目指して去っていった。五月二十一日にペトロパブロフスクに入港したが、すでに英仏連合軍は撃退されていたのでさらに航海を続け、宗谷海峡を通って六月二十日にニコラエフスクに辿り着き、十一月にペテルブルグに無事帰還を果たしている。

 一方下田には、しばらくロシア人二百七十八名が残留していたという。幕府で更に一隻の船を造る動きもあったが、たまたま五月二十一日に米国商船ゲレター号が下田港に入港し、ロシア士官のプーシキンが船長と交渉し、この船でロシア人全員を本国に送還させたいとの希望を伝えたところ了解を得た。下田奉行の許可を得たのち、残りのロシア人全員を搭乗させて戸田港を出航したが、運悪く北上する途中でイギリス船に拿捕され、全員が捕虜になったと記録されている。

ロシア政府からの感謝状とプチャーチンの娘オリガの日本訪問

 プチャーチンは幕府の対応に感謝していることを本国にも何度も伝えていた。ロシア帝国の首相ネッセルローデから二度にわたり幕府に感謝状が届いている。第一回目の感謝状を紹介したい。

 下田の鎮台、我が欽差全権、ならびに我が破壊せしフレガット船の船卒への待遇甚だ親切にして、我が海客等に、諸般の要具を授けし事を知る。かくの如き待遇は、ロシア政府に対して、日本政府の信実なる情の証とす。而して是をもって我が恩恵ある帝家の意に従い、日本の総政府及びその全国の政府へ、我が政府の名目にて、好意の謝儀を述べることを、最も快き挙とす。

(同上書 p.303)
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 ロシアは国を挙げて日本のロシア使節団に対する待遇に感謝したことがわかる。江戸幕府の外交力は、閣老の実力はともかくとして、談判に関わったメンバーはなかなかの人物であったようだ。

 Wikipediaによると「プチャーチンも報告書の中で、川路について『鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物』と評している」と高い評価をしたという。

エフィム・プチャーチン - Wikipedia

 戸田(へだ)村は、今は沼津市に編入されているが、戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館(沼津市戸田2710-1)の造船資料室にプチャーチンに関する資料が展示されているという。沼津市のホームページにこんな記述がある。

オリガ・プチャーチナ

 明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れました。オリガは、関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学しました。後にオリガの永眠に際し、遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されました。

 昭和44(1969)年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設するにあたり、当時のソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けました。さらに翌45(1970)年には、大阪万博が開催され、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが、閉会後戸田村に贈られ、現在も当博物館に展示しています。

造船資料室
静岡県沼津市の公式ウェブサイトです。市民のみなさま向けや事業者のみなさま向けの情報、市政情報、観光情報などを提供しています。

 戸田村の人々は、沈みそうになったディアナ号を曳航に力を貸し、沈没後は乗組員の救出に懸命に協力し世話をしてくれた。さらに戸田の船大工は代わりの船まで作ってくれた。プチャーチンは帰国後も、この恩を生涯忘れることがなかったのだろう。

 わが国にはロシアとは良い話があまり伝えられていないのだが、帝政ロシア時代の日露交流の歴史は、もっと広く知られて良いのではないだろうか。

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 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
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