封建制度を撤廃できる条件が整うまで
前回の歴史ノートで、明治初期において政府に非常なる危機が何度も起きたことを書いた。当時のわが国の最大の問題は、国内各地は昔と同様に多くの大小各藩独立状態にあり、それぞれが兵力を蓄え、中央進出の機を狙っていた藩が存在した一方で、当時の中央政府に兵力がなかった点にある。
政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには、倒幕に貢献した薩摩・長州・土佐の三藩の陸軍と、肥前の海軍の力を頼るしかない。しかしながら薩摩藩の島津久光・西郷隆盛や長州藩の毛利敬親に二度にわたり上京を要請したにもかかわらず、なかなかそれが実現しなかったのである。
ところが、明治三年(1870年)十二月に岩倉具視が勅使となって再び上京を要請すると、薩摩・長州両藩ともついに朝命を奉ずることとなり、西郷隆盛と毛利元徳(もとのり)、土佐藩の板垣退助が明治四年(1871年)二月に東京に入り、三月に薩・長・土三藩の兵を東京に結集させ、御親兵と称して西郷がその総指揮官となり小倉と石巻に鎮台が設置されたのである。
これによって、はじめて朝廷に兵権が収められ、封建制度を撤廃できる態勢が整ったのだが、当初は岩倉具視や三条実美(さんじょう さねとみ)は、それでもまだ、廃藩置県に慎重な姿勢を崩さなかったという。
長州藩の木戸孝允や山縣有朋らは、御親兵を指揮する西郷が反対することを心配していたのだが、七月六日に山縣が西郷の説得に向かうと、意外にも西郷は廃藩置県にすぐに賛成したのである。佐々弘雄著『西郷隆盛伝』には、こう記されている。
山縣が一番難物と思われていた西郷説得係に当たったわけである。ところが西郷は木戸の考えを聞いた。山縣はまず先生のお意見を伺いたしと突っ込んだのに対し、即座に大賛成と明言して却って山縣をして吃驚せしめたという。そこで明治四年七月九日九段上の木戸邸内で薩派の南洲(西郷)、大久保、大山巌、長派の木戸、井上、山形六人秘密に相会し議決したとき、右の「鎮定役は乃公(だいこう:俺様)引き受けた」との決心を示したのである。しかしながら,何分二百七十余藩が数百年来私有して来た領地をとり上げて、一躍郡県制度というのであるから、岩倉はともかくとして三條が躊躇したのも無理からぬ話であった。西郷は久光の強硬反対なのを知っているから、青山の弟従道宅に隠れて召されるのを避けたのである。西郷らは薩長等の兵を徴集して親兵を組織し、二道(東山道[本営石巻]、西海道[本営小倉])に鎮台を置いて反対鎮撫の用意さえしたのである。
(佐々弘雄著『西郷隆盛伝』改造社 昭和11年刊 p.173~174)
このように西郷は、「廃藩置県でもし不平分子が紛争擾乱を起こすようなことがあれば、これを自分の責任で鎮圧する」とまで言ってのけたのである。西郷のこの言葉で、廃藩置県の大改革が一気に進むことになるのである。
廃藩置県実行の困難さ
教科書などでは廃藩置県について「すべての藩知事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県を治めさせた」と簡単に書かれているのだが、何百年も続いた旧藩主による統治を終わらせることは、倒幕よりも困難な大改革であったと言っても過言ではないのだ。この改革の難しさについて伊藤痴遊は『隱れたる事實明治裏面史』で次のように解説している。
廃藩置県の事は、少し見識のある者ならば、誰でも考えていたろうが、さていよいよこれを実行する一段になると、容易に行われないことになってしまうのだ。
(伊藤痴遊 著『隱れたる事實明治裏面史』成光館出版部 大正13年刊 p.271~273)
それは第一にどこの藩主でも、この計画に同意をするものはなかろう。したがって、藩臣の中には極端に反対する者が多く、問題が物になりかかると、打消しの運動が起こる。今朝廷の家来になって、大臣とか参議とか、えらい位に就いている者でも、ツイ昨日までの位置をいえば、藩に於いて、つまらない身分の者であった。それが一朝の風雲に乗じて、現在の位置を得たのであるから、藩主の目からは、やはり昔の足軽であったとか、軽輩であったとかいうことばかり見えて、朝廷がその人々を重んじるほどに、藩主は重く視ていないのである。それには幾分の猜疑心も加わっていたに違いないが。とにかく、藩主と藩臣の関係が、こういう風になっていたから、廃藩置県の議論は容易にしても、これを実行することは頗るむずかしかったのである。
現に、西郷・大久保に対して、島津久光がこういう難題を持ち掛けたことがある。それは西郷と大久保が、参議の職に上って、あるいは正三位であるとか、あるいは従三位であるとか、昨日までの身分に比べれば、驚くほどの出世をした。大概な藩主ならば、これを見て喜ぶ筈であるが、久光は非常に保守的の頑迷な人であったから、西郷や大久保がこの栄位を得るについて、自分へ対して何らの挨拶もせずに御受けをしたのは、君臣の礼を欠いた、けしからぬ所為であるというて、海江田信義に命じて、厳重に談じ付けさせることにした。もし、両人が速やかに恐れ入らなかったならば、その場に於いて斬捨ててこい、という命令を下した。このことは早くも西郷と大久保に知れたので、海江田が上京してからも、大久保は程の好いことを言って、なかなか要領を得た返事をせず、海江田を然るべく操っていた。西郷は海江田に会って、かれこれつまらぬことを聴くのを迷惑に思って、ごく懇意にしていた勝安房(海舟)に海江田の説得方を頼んだ。大久保は何処までも真面目に、海江田を対手に話していたが、西郷は勝を頼んで、海江田を説諭させたところに、一寸面白みがある。
西郷や大久保が島津候の前では頭が上がらなかったのと同様に、木戸も毛利候の前に出れば何の権威もない。そのほかにも明治新政府の要職についたメンバーには下級藩士の家柄の出身者が少なくなかった。それぞれが旧藩主の威力に抗することができないようでは、新政府が国を治めることなど不可能なのだが、特に島津久光のような保守的な人物にとっては、下級藩士であった者が新政府の枢要な地位にいること自体がおもしろくなかったのである。勝海舟が海江田信義を説得した言葉がまた面白い。
朝廷の家来を朝廷がどうえらくしようと、それは朝廷の思し召しにあることで、これにかれこれ言えば、即ち朝廷に逆らうことになる。西郷や大久保が如何に憎いからというても、…官職のことについての故障は、朝廷へ対して畏れ多いことになる。…第一こういうことに、君命だからというて奔走していると、他日になって君が、西郷や大久保と同じような地位に上った時に迷惑するだろうと思うから、マア何も言わずに帰国した方が良かろうと思う。
(同上書 p.273~274)
旧藩主の中にも島津候のような考えを持つものは少なくなかったであろうし、郷里の士族の中にも、西郷や大久保らが新政府の要職に就いていることに不満を持つ者が少なからずいた。そんな状況下で、廃藩置県を断行し封建制度を撤廃する改革を行った場合に、不平士族が各地で反乱を起こすことは十分考えられた。しかしながら、先ほど述べた通り、その反乱の鎮圧を西郷が引き受けたことによって廃藩置県を進める体制が整ったのである。
廃藩置県案は薩長両藩の間に密かに進められ、七月九日に西郷、大久保、木戸、山縣らが木戸邸で案を作成し、その後三条、岩倉、板垣、大隈らの賛成を得ると、七月十四日に政府は在東京の藩知事を皇居に集めて廃藩置県を命じている。
藩は県となって、藩知事は失職し東京への移住が命じられたのだが、当初は藩をそのまま県に読み替えたので府県の数は三府三百二県であった。そして、十月から十一月にかけて第一次府県統合が行われ、三府七十二県となった。
その後県の合併が進められ、明治五年に三府六十九県、明治六年に三府六十県、明治八年には三府五十九県、明治九年には三府三十五県(第二次府県統合)になり、さらに明治十四年には堺県が大阪府に編入されて三府三十四県となっている。
上の画像が明治十二年頃の日本地図だが、結論から言うと、現在の富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県が存在しない。これらの県は、その後復活されることになるのだが、その点については、いくつかの県について別の機会に記すことにしたい。
旧藩債務と藩札の処理
教科書にはほとんどなにも記されていないが、廃藩置県によって旧藩の債務および家禄はすべて新政府の責任となった。各藩とも江戸時代中頃から財政難に陥っており、有力商人からの借入金や領民からの御用金の徴収などで凌いできたのだが、幕末維新期には戊辰戦争の出兵など多額の財政支出を余儀なくされ、多くの藩で貨幣の贋造が行われたりした。
また各藩で出していた藩札は回収して、全国一律の貨幣制度を実現する必要があった。Wikipediaによると藩札の合計は三千九百九万円、藩札を除く藩の債務合計は七千四百十三万円であったという。
藩札の処分の問題はかなり前から準備されていたようだ。伊藤痴遊が著した井上馨の伝記には次のように記されている。
各藩に於いて発行して来た、藩札の処分をしなければならぬという問題は、廃藩置県のことが行われたと同時に、当然起こって来るべき事柄であるから、これについては木戸が井上に指揮して、早くから調査をさせていたのである。王政維新の紛擾の際に、各藩では競って藩札を発行して、ほとんどその発行高がどれ程までに昇っているか、それさえわからぬ位の有様であった。この藩札を新政府が引き上げることは非常な難事ではあるが、廃藩置県のことが実行された後に、藩札の通用を許し置くことはできない。然るに、地方の人民の心を明らかに言えば、新政府に対する信用は更になかったので、却って廃藩置県とはなっても、やはり旧藩主を信用する力が強かったのであるから、相変わらず藩札の通用は認めるが、太政官の金札なるものは、地方へ行くと更に通用が出来ぬという状態になっていたのだ。このことの処理が充分につかなければ、新政府の財政の基礎が建たぬことになる。そこで井上は大英断を以て、この藩札の通用を禁止すると同時に、旧藩主に対して藩札引上げの命令を下したのみならず、従来の藩札を今後に使用する者は、贋札を使用したものと同一の刑罰を行う、というような意味の事も含まれて、盛んに藩札に対する刑罰を加えたのである。これがためには非常な紛擾が起こって、新政府と各藩臣との間に、随分難しい掛け合いもあったのだが、そんなことには無頓着な井上は、例の気性でミシミシ片っ端から処分をつけていく。
(伊藤痴遊 著『井上侯全伝』忠文堂書店 大正7年刊p.281~282)
藩札を引き上げて、まだ信用の乏しい太政官札と交換するということは単なる事務ではなく、藩の通貨発行権を奪う行為でもあり、藩によっては命を狙われることもあったようだ。
伊藤痴遊は同上書で筑前の黒田藩の事例を紹介しているが、同藩を担当した大江卓は命がけで藩札処分を断行し、抵抗した大参事の首を刎ねて引き揚げてきたという。
このような次第で各藩の藩札処分が行われて、太政官の金札が日本全国に通用するようになったのである。
廃藩置県の大改革が平穏無事に行われたのは何故か
『維新史 第五巻』によると、英公使であったパークスは廃藩置県が行われたことについて「ヨーロッパにおいてかかる大革新を行わんとすれば、これがために数年間の戦乱を惹起するであろう。貴国の挙は全く神慮であって、能く人力の及ぶところではない」と激賞して止まなかったという。
封建制度を撤廃させる廃藩置県のような大改革が、平穏無事に行われた理由はどこにあるのだろうか。
Wikipediaでは、①士族の大部分が近代統一国家建設を支持していたこと、②旧藩主階級を身分的かつ経済的に厚遇し、東京に移住させて藩士たちと切り離したことで、改革への抵抗を抑えられたこと、③版籍奉還により、旧藩主が藩知事の任命権を天皇に奉還していたことも、論理的に藩主の抵抗を難しくしたことを挙げているのだが、この理由だと版籍奉還から二年もかかったことが説明できない。
歴史家の白柳秀湖は『定版明治大正国民史』で、藩の財政難を理由に挙げているが、こちらの説明の方が説得力がある。
幕府及び諸大名の財政難は、古い土地経済が新しい貨幣経済のために尅(こく)されていく自然の現象で、一時の弥縫や、緊縮をもってどうすることもできる性質のものではなかった。安永・天明以後、各藩が窮余の策として施行した減俸令が、俸禄以外に収入の途のない下士階級を駆って非常な苦境におとしいれ、それがかれらの思想を極端に左傾させた…。しかも幕末時局の切迫につれて、国用はますます多端を加えるばかりであった。蔵元や掛屋からする金融の途は、とくの昔に途絶えてしまった。再三の減俸令は、鼻血も出ぬ程に家来をいじめつけてしまった。
(白柳秀湖 著『定版明治大正国民史. 維新改革編』千倉書房 昭和15年刊 p.389~391)
万策尽きて各藩は紙幣を乱発した。安政開国以後は横浜や長崎で国産を抵当に外商から金を借入れた。最後の策としては維新のどさくさに紛れて盛んに公定貨幣(二分銀)を贋造した。その三つの祟りが明治二・三年頃から一度に各藩に迫って来た。
藩札と太政官札(天札)との間には甚だしい打歩が生ずる。物価は騰貴する。金融は梗塞(こうそく)する。人民は大挙して藩札引換の為に藩庁に押し寄せる。外商は恐ろしい権幕で藩債の償還を迫るという有様で、明治四年頃までには、各藩が全く絶体絶命の窮地に陥っている。なかんづく土佐藩の如きは、後藤象二郎の財政計画が、あまりにも放漫を極めたために、その騒ぎが殊に甚だしかった。
明治四年の廃藩置県が、世界の歴史に類例を見ぬほど平穏無事に行われたのは、各藩が藩札の処理と外債の償還とで財政上絶体絶命の窮地に陥っていたところへ、大蔵省が藩札も、外債も一切引き受けてやるということになったから、各藩は渡りに船とばかり、ばたばたとその封建的特権を投げ出してしまったわけである。
調べると、明治四年の廃藩置県が行われる前に、廃藩を自ら申し出ていた藩がいくつか存在する。明治二年には吉井藩と狭山藩、三年には盛岡藩、長岡藩、四年には多度津藩、丸亀藩、龍岡藩、大溝藩、津和野藩より廃藩の申し出があり、新たに県が置かれたり他県に併合されたりしている。
中には津和野藩のように、封建制度を撤廃し郡県制度を実施すべきとして廃藩を奏請した藩もあったが、他は財政上の理由による廃藩の奏請であった。明治四年にもなると、多くの藩の財政が傾いていて、封建制度が崩壊する寸前にあったことを知るべきである。
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