文保寺
前回記事で丹波市の桜を紹介させていただいたが、常照寺から丹波篠山市に向かう。丹波篠山市の寺社では高蔵寺が桜の名所として有名だが、枝垂れ桜の開花が遅かったのでパスして文保寺(ぶんぽうじ:丹波篠山市味間南1093)に向かう。
文保寺のホームページによると、この寺は大化元年(645年)に法道仙人によって開かれ、当初は長流寺と称されていたとある。天暦の乱(947年)で堂宇が焼失して以後寺は荒廃したが、正和年間(1312~1317年)に慈覚大師作と伝わる千手観世音菩薩を安置して再興し、文保年間(1317~1319年)に宝鏡寺の宮門跡一品親王真筆の勅額を下賜されて以降「文保寺」と称するようになったという。
しかしながら天正年間(1573~1592年)に明智光秀の丹波攻めに遭い、再び全山が焼失したのだが、江戸時代の中頃に復興したと伝わっている。
上の画像は天正末期に建立された楼門(仁王門)で、丹波篠山市の文化財に指定されている。なお、楼門内の阿形像と吽形像の仁王像も市の有形文化財指定を受けている。
この寺は、高蔵寺、大国寺とともに「丹波篠山もみじ三山」の一つであり紅葉の方がはるかに有名だが、桜は楼門周辺と、参道にある子院のいくつかで楽しむことが出来る。
参道は結構長く、途中で二村神社がありいくつかの子院がある。本堂はその奥に存在する。
本堂には見事な装飾彫刻を観ることが出来る。いずれも前回記事で紹介させていただいた六代目中井権次正貞が彫ったもので、本堂の外部だけでなく、内部にも彫刻があるのだそうだ。残念ながら内部は非公開である。
広い境内にはさまざまな植物が自生していて、参道を歩きながらもいろんな花を楽しむことが出来る。この黄色い花はみつまたではないだろうか。
宇土観音 弘誓寺
次に訪れたのは宇土観音 弘誓寺(うどかんのん ぐぜいじ:丹波篠山市宇土611)。
寺のホームページによると、この寺は白雉年間(650~654年)に法道仙人が草創し、はじめは天地山極楽寺と称したという。文保寺も法道仙人が開創した寺と伝わっているが、「兵庫県立博物館」のコラムによると、兵庫県下には法道仙人が開いたとされる寺が百十以上もあるそうなので、寺伝をそのまま鵜呑みにはできないと思うが、古い寺であることは確かなようである。
かつては槇が峰一帯に多くの僧坊が軒を連ねて「槇が峰千軒坊」と伝えられる仏教繁昌の聖地であったそうだが、寿永三年(1184年)の源平の争乱で極楽寺は焼失したとされている。しかしながら、御本尊の聖観世音菩薩は難を逃れることができ、直ちに庵を結んでその後も信仰は途絶えることがなかったという。
その後、中興開山亀翁松鶴大阿闇梨によって中興され、また、文明五年(1473)玉山良石禅師が来られ、 伝法開山として伽藍を再建し、清滝山弘誓寺と改めたと伝えられる。
美しい多宝塔だが、建築年代などは調べても判らなかった。文化財指定を受けていないので、それほど古いものではなさそうだ。
この寺も秋の紅葉が有名で、樹齢五百年とも八百年ともいわれる大銀杏が色づく頃には、大勢の観光客が訪れるという。秋にも訪れてみたい寺の一つである。
篠山城跡
宇土観音から国史跡に指定されている篠山城跡(丹波篠山市北新町2)に向かう。ここには何度か来ているのだが、桜の季節ははじめてだ。
篠山城は慶長十四(1609年)に松平康重が徳川家康の命により築いた平山城で、この城は山陽道の要衝である篠山盆地に、大坂城や西国大名ににらみをきかせるために建てられたとされる。
普請の総奉行に池田輝政が任じられ、縄張りは藤堂高虎が当たり、突貫工事によりわずか一年足らずで完成したという。
初代城主は家康の実子といわれる松平康重で、松平三家八代と青山家六代といずも徳川譜代の有力大名に引き継がれ、二百六十年余にわたり篠山藩五万石の政治経済文化の拠点としてその役割を果たして来た。
篠山城には天守閣がない。築城時には天守閣建築の計画がありながら途中で中止され、代わって天守台南東隅に隅櫓が建てられたのだそうだ。上の画像は明治初年、北堀の東側から見た篠山城の景観だが、明治維新後の廃城令により城の取り壊しが始まり、地元の人々の尽力により大書院だけが残されて、その後小学校や女学校、公会堂などに利用されてきたという。
残念なことに大書院は昭和十九年(1944年)1月に焼失してしまい、平成十二年(2000年)に復元再建されている。中に入ると、江戸時代の篠山城の歴史がわかる資料やパネルが展示されているほか、上段の間、次之間、葡萄之間等が復元されている。
上の画像は大書院で最も格式の高い上段の間だが、当時の雰囲気を再現させるために、江戸時代初期の狩野派の屏風絵が転用されている。
篠山城の本丸跡に青山神社がある。この神社は明治十三年(1880年)に旧藩主である青山家の旧恩を追慕する者が集まり、城中本丸跡に青山家の神霊を祀るために神社を創ることが決定して講が、明治十五年(1882年)にこの神社が建てられた。
創建された時のご祭神は旧藩主青山家の遠祖である青山忠俊であったが、忠俊は篠山藩とは直接の接点がなかったことから、昭和五年(1930年)になって第四代の篠山藩主であった青山忠裕が合祀されたという。
青山家は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄であり、中でも忠裕は文化元年(1804年)以降三十年以上幕府の老中職を務め、その功績として篠山藩は五万石から六万石に加増されている。また藩主としては、農民が副業として冬季に出稼ぎをすることを認めたり、藩領の王地山に京焼の陶工を招いて窯を開かせるなど善政を行ったことで知られ、青山家中興の藩主と言われている人物である。拝殿の左に青山忠裕の銅像がある。
篠山城跡の外濠は桜並木となっている。まだ樹齢は若そうだが、あと数年もすればもっと美しくなるだろう。
上の画像は河原町妻入(つまいり)商家群。篠山城跡の南外濠に接する道を東に進むと、河原町の交差点から約六百メートルにわたり、篠山の伝統的な家並みが続いている。三年前に電柱が撤去されて、景観が随分よくなった。
建物の入口が建物の「妻側」にあるか「平側」にあるかで、「妻入」、「平入」と呼ぶのだが、「妻側」か「平側」かは、屋根の一番高い所を渡す材である棟木と入口との位置関係で決まる。建物の形状が四角形だとすると、建物の入口が棟木と直角の方向になる側を「妻側」と呼び、棟木と平行となる側を「平入」と呼ぶ。したがって「妻入」の建物の入口が道路に面していれば、各建物の棟木はそれぞれ道路に垂直にならなければならないのだが、「河原町妻入商家群」といいながら実際には平入の建物も結構存在している。どちらかというと、平入の建物の方が大きな構えで、時代的にも新しい印象を受けた。妻入群のところどころに平入が混じりながらも、全体として美しい伝統的な家並みが残されていることは嬉しいことである。
すべての建物が商いをしているわけでもなく、住みやすいように改築したい住人も過去に少なからずいたことだろう。この伝統的景観を残すことに長きにわたり地域の人々の様々な苦労があったと思いながら歩いていると、数軒に「NIPPONIA」という暖簾がかかっていることに途中で気が付いた。調べると、篠山市の歴史ある建造物をリノベーションして、分散型ホテルとして再生されたもののようである。フロントと宿泊棟を別にして、ホテルを運営するというのは素晴らしい発想だと思う。城下町全体をホテルと考えて宿泊棟を分散すれば、古いものを古いままで美しく残すことが可能になる。一度このような宿に泊まるのも面白そうだ。
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