兵庫県赤穂市は三十年ほど前に友人の家族と一緒に旅行して赤穂城跡を訪ねたこと以外はあまり覚えていないのだが、赤穂周辺で行きたい場所がいくつかあったので、旅程を組んで行ってきた。
赤穂城跡と大石神社
最初に赤穂城跡(赤穂市上仮屋1424-1)に向かう。歴史博物館をあとで廻る予定なので、東駐車場を選択した。他に西駐車場、大石神社駐車場があるがいずれも無料である。
赤穂城の主な建物は明治時代に廃棄され、三之丸大手門や大手隅櫓は昭和三十年になって再建されたものである。
大手門をくぐり道なりに進むと、赤穂城の設計を担当した近藤正純の子の源八屋敷とその向かいに大石家長屋門(国史跡)がある。いずれも場内に残された数少ない江戸時代の建築物である。
上の画像は大石家長屋門で、浅野家筆頭家老大石内蔵助の一家三代が居住した屋敷の門である。元禄十四年三月に江戸城の松之大廊下で三代藩主・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだことを伝える早打ちが叩いたのはこの門で、安政三年(1856年)及び昭和五十二年(1977年)に修理が行われたという。大石家の内部は大石神社側から見学することが出来る。
上の画像は大石神社の鳥居だが、参道には四十七義士の像が建てられている。
この神社は明治三十三年に創立が公許され大正元年十一月三日に義士を崇敬追慕する人々によって場内の一角に建てられた。
拝殿の左側に義士宝物殿があり、四十七義士の討ち入り時に用いられた采配や、武具や、大石内蔵助の書状、吉良家の図面など貴重な品々が展示されている。また参道の途中に大石内蔵助の銅像があり、その近くに義士宝物殿別館がありそこにも四十七義士の像が展示されていて、その東側の出口から大石家庭園につながっている。
大石内蔵助が居住していた本邸は江戸時代の後期に焼失してしまったが、大石家庭園は残されていて長屋門と共に国史跡に指定されている。
次に赤穂城の本丸に向かう。
赤穂城は、正保二年(1645年)に常陸国笠間から入封した浅野長直が近藤正純に築城設計を命じ、十三年の歳月を経て寛文六年(1661年)に完成したものだが、天守台は築かれたものの天守閣は作られなかった。
浅野家は三代続いたが、三代藩主・浅野長矩が江戸城で起こした刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となった。
しかしながら明治の廃藩置県後赤穂城は払い下げられて建物は壊され、屋敷地は民有地となり、昭和三年(1928年)には本丸内に赤穂中学(後の赤穂高等学校)が竣工されたという。戦後になって昭和四十六年(1971年)に赤穂城跡が国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されることとなり、昭和五十六年(1981年)に赤穂高等学校は同市の御崎に移転し、以降本丸厩口門、庭園の西仕切門などが復元された。また平成十四年(2002年)には本丸庭園・二之丸庭園が国名勝に指定され、現在も整備が続けられている。
上の画像は本丸門で、その奥に本丸櫓門がある。いずれも明治期の廃城の後に取り壊されていたが、平成になって復元されたという。赤穂城跡は日本百名城にも選出されているのだが、入場無料であるのは有難い。
本丸庭園は発掘調査で検出された遺構を修築し整備がなされたものだが、かつては四季折々の景色が楽しめるように様々な樹木が植えられていたに違いない。一旦破壊された庭の復元は容易ではないとは思うが、庭園部分だけでなく城跡全体に樹木が少なく、芝生が植えられていては日本庭園らしくなく残念である。春には桜、秋には紅葉が楽しめるように整備ができればもっと多くの観光客を呼べるのではないかと思う。
浅野家時代は厩口門、森家時代には台所門と呼ばれていたが、赤穂高等学校として使われていた頃は通用門であったという。平成十三年に門、橋、土塀や石垣が整備されたという。説明ガイドの方は、このような無防備な門の構造はありえないと言っておられたが、こういうことはガイドの説明を聞かないと気が付かないものだ。
上の画像は天守台から見た本丸櫓門だが、三つ前の画像と見比べていただきたい。本丸門を突破して侵入して来た敵は次の櫓門にたどり着くためには、高い石垣と塀に囲まれた空間を右に進むしかなく、その数十メートルの距離を進む間に城兵から、白壁に作られた穴(狭間)から鉄砲や弓で狙い撃ちされることになる。このような仕掛けを「桝形」というのだが、この仕掛けが築城で採用されるのは慶長(1596~1615年)の後期頃なのだそうだ。
平日ではあったが赤穂城跡の観光客はそれほど多くなく、本丸周辺だけでも散策するにはちょうどいい広さでゆったりと観光できた。現在二之丸庭園と城壁復元の工事がなされているのだが、これだけの大きな規模で城跡の整備が現在進行形で行われていることにに驚いた。あと二十年もすれば樹木も成長して、さらに風格を備えるようになるだろう。できれば本丸御殿の復元にも取り組んでほしいものである。
赤穂市立歴史博物館
本丸門を出て二之丸門跡を右折して明石市立歴史博物館に向かう。この博物館は愛称を「塩と義士の館」といい、赤穂の製塩用具や販売関係資料や、赤穂義士に関する資料などが展示されている。上の画像は博物館の背面を撮ったものだが、画面の左に赤穂城跡東駐車場がある。博物館の入場料は大人200円、小中学生100円だが、JAF会員証を提示すれば2割引きとなる。
赤穂は雨が少なく、波穏やかで遠浅の海、塩田に適した砂で形成された地質などの好条件が重なって、弥生時代末期(約千八百年前)から塩づくりが行われていたことが発掘調査で判明しているのだそうだ。
江戸時代に潮の干満差を利用した入浜塩田による製塩法が開発され、赤穂は日本有数の塩の産地となり、その製法は全国に拡がっていった。また赤穂の塩は当時のブランド品であり、坂越の港から塩廻船で諸国に運ばれていったという。
塩づくりに適した赤穂は、海に近い場所では井戸を掘っても海水が混じっていて飲むことが出来なかったため、千種川の上流からきれいな水が流れてくるように上水道を作って井戸にため込んで、人々が飲めるようにした。元和二年(1616年)に完成した赤穂の上水道は侍や町人たちの家一軒一軒の井戸に流れるようにしたというから驚きである。
上の画像は赤穂城大手門桝形内で見つかった木樋で、使用している材は松の一枚板だという。赤穂城内には多くの武士の屋敷が存在したのだが、この上水道のお陰で簡単に飲料水を手にすることが出来たのだそうだ。
海洋科学館と塩づくり体験
入浜塩田と言っても実際に目で見たかったので、次に海洋科学館(赤穂市御崎1891-4)に向かう。料金は歴史博物館と同じで、JAFの割引もある。本館では世界の巨大岩塩の展示や、赤穂近海の魚などを観察できるが、それよりも塩づくりの体験ができる施設や、入浜塩田で鹹水(塩分濃度の高い海水)を作り、鹹水から塩をつくる施設の見学が勉強になった。
塩づくり体験棟では鹹水から塩を作る体験が無料ででき、作った塩は持ち帰ることが出来る。
塩づくりについては下の動画でよく説明されているので参考にされると良い。
スタッフによって注意することが異なるのかもしれないが、私が体験した時は、土鍋の焚いている間はカメラなどを傷める可能性があるので許可が出るまで撮影禁止と言われていた。上の動画では塩が出来て行く過程がよくわかると思う。もちろん海水を煮沸しても塩は出来るのだが、エネルギーコストが高くなるので海水を自然乾燥をさせて塩分濃度の高い鹹水を作ってから製塩する方が結果として安く塩が作れることになる。ちなみに海水の塩分濃度は3%程度だが、鹹水は18~20%で、小さな土鍋で結構な量の塩ができるのに驚いた。
入浜塩田で作られた大量の塩分を含んだ砂を、塩田中央部にある沼井という装置に入れて海水をかけて塩の結晶を洗いとることによって、沼井下穴に溜まった鹹水を採取し、次に鹹水を釜屋の釜に入れて、釜を焚いて水分を飛ばして塩を作るという手順である。忠臣蔵の時代は、このような方法で塩が作られていたことになる。
入浜式塩田による鹹水の製造は数百年続いたのだが、昭和に入ると砂を使わずに竹の小枝を用いるようになったという。海水をポンプで竹の枝から落として乾かす作業を繰り返すことにより鹹水を作る方法で、この流下式枝条架塩田により鹹水の生産効率が大幅に改善されたのだが、昭和四十七年からさらに生産効率の良いイオン交換膜を用いる塩の生産が主流となり、塩田は姿を消していったという。
赤穂市立美術工芸館田淵記念館
次の目的地は赤穂市立美術工芸館田淵記念館だが、この記念館の美術品・古文書類は総て江戸時代前期より塩田、塩問屋、塩廻船、大名貸しを営んできた田淵家から赤穂市に平成六年(1994年)に寄贈されたものである。展示されている美術品は格調の高いものばかりで、塩の生産で赤穂が随分潤ったことがよく分かる。
田淵家は文化文政期(1804~1830年)には約106町歩の塩田を所有し、日本最大の塩田地主になっていて、寛政二年(1790年)以降たびたび藩主(森家)を屋敷に招き、食事や茶でもてなしたという。また田淵家は代々茶の湯に造詣が深く、自宅の庭園で各地の数寄者を集めて茶会を催していたそうだ。
隣の田淵家庭園は国の名勝に指定されていて、毎年十一月の紅葉時期に二日間だけ公開されるのだそうだ。記念館では今年の庭園の公開日情報は知らされていないとのことだったが、二年前に訪れた人のレポートが写真と共に「庭園ガイド」というサイトに出ている。
田淵記念館から宿泊予約した銀波荘はすぐ近くだった。上の画像は旅館から見た夕焼けだが、こんなに美しい夕焼けを見るのは何年ぶりだろうか。この旅館の風呂は絶景で料理も申し分なかった。
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