五榜の掲示
前回の「歴史ノート」で、慶応元年(1865年)に長崎の浦上村で大量の隠れキリシタンがフランスの宣教師により発見され、慶応三年(1867年)になって宣教師による教導が行われていたことが発覚し、六月に六十余人の信徒が捕えられたことを書いた。諸外国からは人道に外れる行いであると相次いで抗議があり、八月にはフランス公使ロッシュが将軍・徳川慶喜に面会を求め、その結果フランス人宣教師は村人への布教を禁止とし、信徒たちは説諭の上出獄させて村預かりとすることとなったのだが、キリスト教が国禁であることについては今までと同じであった。その後将軍徳川慶喜が大政を奉還し、十二月九日には明治天皇より王政復古の大号令が発せられ新政府が成立したのだが、当初の新政府のメンバーの多くは攘夷派であり、新政府のキリスト教対策が緩和されるはずがなかったのである。
明治政府は五箇条の御誓文を出した翌日の慶応四年(1868年)三月十五日、全国各地の高札場に『五榜の掲示』と呼ばれる高札を掲示している。その第三札にはこう記されていた。
「切支丹邪宗門の儀は堅く御制禁たり。若し不審なるものこれ有れば、その筋の役所へ申し出づべし。御褒美下さるべき事。」
この第三札が欧米各国から激しく非難されることになる。いうまでもなくそれらの国々はいずれの国もキリスト教を奉じており、国教を邪教扱いされて外国人が激怒したことは当然のことであろう。
山本秀煌(ひでてる)著『近世日本基督教史』に、各国からの厳しい批判を明治政府が如何に切り抜けたかが記されている。面白いので紹介しておこう。
苦心惨憺・鳩首協議の末、漸(ようや)くにして一つの名案を按出せり。即ち切支丹と邪宗門とを引き分かち、告示中切支丹邪宗門と記せしは切支丹を邪宗門なりと言う意義に非ず、切支丹または邪宗門という意味なりとの曲解的、頓智的の弁解をなしてこの難関を切り抜けたり。…
(山本秀煌著『近世日本基督教史』洛陽堂 大正11年刊p.670~671)
かくて、高札は…書き改めて掲示せられたり。
一 切支丹宗門之は是迄御制禁之通固く可相守事。
一 邪宗門之儀は固く禁止之事。
政府は、明治元年(1868年)十一月二十七日付を以て各国公使に「キリスト教は邪教であるという意味で書いたのではなく、キリスト教あるいは邪宗門はという意味で記したものだ」と苦しい弁解をしてこの難局を乗り越えたのだが、かといって明治政府がキリスト教を禁止する方針を変えたわけではなく、当初は天皇を中心とする祭政一致の旧態に戻ろうと考えていたため、仏教に対してもキリスト教に対しても厳しいものとならざるを得なかったのだ。仏教に対しては、廃仏毀釈を推し進めたことをこのブログで何度も書いてきたので繰り返さないが、長崎・浦上の隠れキリシタンの処分についても、明治政府は相当厳しい態度で臨んでいる。
浦上の隠れキリシタン処分問題と諸外国の干渉
慶応四年(1868年)二月に長崎裁判所総督を命じられた澤宣嘉は大隈重信、井上馨らとともに長崎に着任し、五榜の掲示で新政府のキリスト教の禁止方針を確認すると、国法を犯していることを放置できないとし、浦上の信徒たちを捕えて改宗の説得を試みたのだが、彼らは頑としてそれに応じなかった。
信徒たちの大規模な処刑が行われる計画があるとの風説を耳にした外国領事は、九州総督に激しく抗議し、それに驚いた大久保利通や木戸孝允は長崎裁判所参謀助役として外国人訴訟の処理に当たっていた大隈重信を呼び出し、すでに外交問題化していたこの問題の内閣会議に参加させている。大隈は『大隈侯昔日譚』に、この会議の状況を伝えている。
三條、岩倉、中御門等を始めとし、何れも耶蘇教を厳禁し、その蔓延の道を途絶せんが為には、長崎信者の首魁は死刑に処すべしとの考えを有せしも、各国公使等はこれについて非常に反対し、他の事件の談判よりは一層激烈なる論鋒をもって迫り来り。各国連合の威力を逞しうして、直ちに長崎在獄の信者を解放し、かつ耶蘇教の禁を解くべしとのことを号叫せり。
(大隈重信 著『大隈侯昔日譚』新潮社 大正11年刊 p.224~225)
しかし、ここで外国の圧力に屈するわけにはいかなかった、と大隈は言う。
この時に際してもし外人らの請求を容れ、すでに我が権力を以て捕縛したる五六百の囚虜を許し、併せて耶蘇教に対する国禁を解きたりとせんか、全国の世論は明治政府に向かって如何なる見解を下すに至るべきか。国民の大多数は九州の端より奥羽の極に至るまで耶蘇教排斥の旗を掲げて、大声疾呼し革命の軍を起こすに至るやもはかり知るべからず。明治政府が神戸大阪の開港、開市を許し、各国公使を参内せしめしの所為は、業にすでに各地幾多の敵を加えたるに、今また耶蘇教を許すに至らば、その結果は非常なること疑いなし。反対党は必ず大同団結の必要を感じて幕府と連合すべし。東北はために気炎を吐くべし。
(同上書 p.225~226)
政府内部はもともと耶蘇教の解禁に反対でする者が多数を占めており、彼らを説得することは容易ではない。しかしながら、もし説得できたとしても、政府は今戊辰戦争で旧幕府勢力と戦っている最中であり、ここでさらに世論を敵に回す決断をしてしまえば、反対派が幕府方に付いて、生まれたばかりの政府の屋台骨を揺るがす事態となる可能性が高かった。ここで大隈は一策を建てている。
国法は国家の安寧秩序を維持するところなり。国際法において如何なる諸国と雖も、他国の法律に干渉することを得ず。わが国は古来国法を以て耶蘇教を厳禁したり、この法を犯したるわが国民を捕えてこれを処罰するに、もとより外人の喙を容れるべきところに非ず。公使等は何物ぞ、何の権利に由りて他国の法律内政に干渉をなさんとするものぞ。もしかくの如きことに対して一々外国公使の喙を容れしめば、わが国の独立はまた何処にかある。今かりに彼らの言に従いてかの罪囚を解放せんか、明治政府の威厳は地に落ちるべし。天下は再び乱麻の有様を呈し、外人等は乗じて以てわが国を滅亡するに至る可し如かず。…社会は権利の競争ばなり、わが国にして従来の如く、退譲を主義とする以上は、遂に外交を全うするの時は来らざるべきなり。「一国独立の威厳を示すはこの時にあり。国家の浮沈は唯内閣の決心如何にあるのみ」と。かつ曰く「余の見る所かくの如し。閣議よくこれを決せば不肖自らこの任に当たらん。」
(同上書 p.226~227)
大隈の意見は閣議で採用され、大隈自身が英国パークス公使らを相手に談判することとなった。これは明治新政府にとって、最初の本格的な外交戦であったと言っても過言ではないだろう。
パークス英公使と大隈重信との大論戦
談判は大阪の本願寺別院で開かれ、日本側からは山階宮、岩倉、三條、伊達、小松、城戸、大久保、後藤、井上、伊藤に通訳、書記を加えてほとんど二十人が列席した。
馬場恒吾 著『大隈重信伝』が、その論戦の雰囲気を忠実に、読みやすく伝えているので、長いが引用させていただく。
大隈は静かに談判の口を切って
『自分は現に長崎において、耶蘇教徒を捕縛し、それを糺問して見た物の一人である。だからその事情を知り尽くしている。またそれ故に敢えて自ら進んで、諸君と談判をするのである。諸君はわが政府に向かって、政府が捕えたる日本の耶蘇教徒を許し、併せて耶蘇教の禁を解けと請求されるが、これに対しては我々はただ、わが国今日の事情においてはそれができ難いと答えたい。かつこれを一国の権利の上から考えて見ても、日本の法律によって日本の人民を罰するに、外国の干渉を受くべき理由がない。われわれはこの事に関して諸君と談判する必要はないと思う』とハネつけた。パークスは怒った。手を振り、卓を叩いて、
「それは妄言である。過言である。宗教と道理は世界共通のものだ。この宗教に従うとか、彼の道理を取るとかはその人の自由である。だから文明諸国は皆信仰の自由を認めておる。いま日本では無辜の民を罰する法律を存して、真理を遮断する関門を設ける。これは無秩序の野蛮国でもなすを恥とする。諸君はこれをなして恬(てん)として恥じない。却って他国の好意を一笑に付する。日本の将来知るべきのみだ」と放言した。大隈はただちに
「そのような簡単な道理では我々の見解を動かすに足りない。
自分は多少宗教のことを知っている。宗教の歴史も知っている。耶蘇教は真理を含んでいるに相違ない。ただその歴史は弊害を以て満たされていることを忘れてはならない。ある歴史家は欧州の歴史は戦乱の歴史だという。ある宗教家は欧州の歴史は耶蘇教の歴史だという。この両者の言が正しいとすれば、耶蘇教の歴史は戦乱の歴史だという事になる。耶蘇は我は地に平和をもたらさず、剣を齎すものだと言われた。耶蘇が生まれて以来、ローマ法王時代になって、世間に風波を捲き起こして、欧州の人民を塗炭の苦しみに陥れたのは何者か。古来帝王の中には惨虐の行為があった。だが、帝王の上に立ちて、帝王以上の残虐を行ったものは誰ぞ。土牢、石窟、針の山、血の海、そうした残虐な刑罰で、諸君のいわゆるただ見解を異にするものに臨んだ事実はどうだ。近世になって、欧米にも聊かその弊害が少なくなった。それは人間の心が広くなって、宗教ばかりに心を支配されなくなったからである。
日本の事情は大いに異なっている。日本には神道と仏教が古から勢力を張っている。今我々が耶蘇教の禁を解いて捕縛した信徒を許すときは、全国の神道歯仏教徒が騒動を起こす。およそ争論と言えば、宗教の争論ほど苛烈なものはない。彼らは肉を裂き、骨を噛んでも尚足りないと思う。だからこの争いを起こさずと、我が国内にどんな変動が起きるかもしれない。これは政治家があらかじめ考えなければならぬ事柄である。
長崎事件の如きも政府が好んで手を下したものではない。各地の人民が続々訴えてきて、この処分を要求したからである。我々は内政の必要から、必ず処分と禁制を維持しなければならぬ。諸君の好意は謝するが、以上の如き事情があるから、どうともならない。」パークスは益々怒った。曰く
「諸君は卑怯だ。何事かなそうとすれば、固より弊害も伴う。しかし現在の労を厭うて、事を起こすのを躊躇しておれば、遂に何事も出来ない。諸君は創業維新に際会しているのではないか。どうして従来の弊習を打破して、天空開闊の天地に出ようとしないのだ。
耶蘇教は今日文明諸国に信じられている。その歴史に多少の弊害はあったにしても、その結果が十九世紀の文明になったのである。それは善良と真理だ。善良を敵視するのは悪で、真理を謝絶するのは愚かだ。諸君は眼界を大にすべきだ。いたずらに眼下の事を見て、眼上の事を見ない。それは東洋政治家の通弊だとは言え、実に嘆ずべきことだ。
試みに禁制を解きて数百の信徒を許されよ。諸君の案じられる事はすべて杞憂に属することが判る。然らざれば、自分は日本は必ず滅亡すると断言する。」大隈は笑った。そして
「いたずらに外国人の指揮に従うの日こそ、これが日本の滅亡の時だ。我々は諸君よりは日本の事情を良く知っておる。諸君は簡単に道理の上から、なし得べきことだと言われても、実際は決してそうではない。千年以上前から養われた宗教心は、一朝一夕に空虚になりはしない。我々はこの際わが国民をして紛争の上に紛争を重収せしむるに忍びない。物には相当の相場がある。適当の代価は払いたくない。耶蘇を買うために、多数の生命を損じ、鮮血を流すなどは、我々にはできないことだ。」談判は午前十時から始まって、昼飯を取らずに夕刻まで続いた。そして喧嘩別れのような形で終わった。
(馬場恒吾 著『大隈重信伝』改造社 昭和7年刊 p.63~66)
通訳のアレクサンダー・フォン・シーボルトは、オランダ商館医として来日し鳴滝塾で多くの蘭学者を育てたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、当時は外務省に雇われていたという。大隈重信はシーボルトと面識があるので、談判の後で彼にパークスの様子を聞いたところ、このような返事が返ってきたという。
「パークスも今日の談判には驚いていた。今日本で大隈のようなものと談判したことが無いと言っていた。日本の外交官に対して、少しく尊敬の念を起こしたようだ。パークスは感情家だけれども、道理も判る。だから道理を以て争えば、一時は怒っても、談判を破裂さすようなことはあるまい。ただ宗教のことは注意しないと、公使自身はともかく、各地の宣教師が騒ぎ出すと面倒だ。」
(同上書 p.67)
と言った。内閣諸公はこれを聞いてやや安心した。パークスはまた、日本が長崎の信徒を処分するならば、その時になって、改めて厳談を試みるつもりで一度手を引いた。大隈らもその気分を見て取って、長崎の信徒はそのままにしておいた。これで明治政府は耶蘇教問題の難関を突破することが出来たのである。
調べるとこの時の大隈はわずか三十歳。外交官としては判事の資格があるだけだったのだが、切れ者のイギリス公使・パークス(四十歳)相手に一歩も譲らなかったことは凄いことである。今の政治家や外務官僚に、大隈のような人物が存在するのであれば応援したいのだが、どこかの国に忖度して譲歩を繰り返し、金をバラ撒いて解決させようとする人物が要職についているようでは、相手国からなめられてしまうだけである。大隈の述べている「従来の如く、退譲を主義とする以上は、遂に外交を全うするの時は来らざるべきなり」は、徳川幕府の外交姿勢を批判している文章だが、今のわが国の軟弱外交にもそのままあてはまるような気がする。
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コメント
しばやんさん、こんにちは。いつも楽しくブログを拝見しています。
既知かもしれませんが、戦国時代の伴天連追放について興味深い論文を紹介します。1980年に日本史学者の日本女子大学名誉教授村井早苗氏が書いた、『キリシタン禁制をめぐる天皇と統一権力–統一政権成立過程における』です。
file:///C:/Users/owner/Downloads/KJ00007901559.pdf
1565年に正親町天皇は、「大うすはらい(伴天連追放)」という綸旨(天皇の命令文書)を出して、京都から4年間伴天連が追放されています。秀吉の伴天連追放令の22年前で、当時天皇及び周辺の多くの公家たちはキリシタンに敵対していたそうです。伴天連たちは織田信長の側近の一人であるキリシタンの和田惟政に働きかけて、1569年に伴天連は再び入京します。伴天連追放を正親町天皇に進言した朝山日乗は、大正4年になって正五位を追贈されました。
そして、1614年に江戸幕府によって禁教令が発せられて、宣教師がマカオやフィリピンに追放されると、京都や土佐など西日本の各地で、『伊勢踊り』が大流行したとあります。その際に歌われた歌詞は、「異国の野蛮人が日本を奪いに来た。しかし神の国であるからそれはできないだろう。立ち去れ、立ち去れ」とあります。
また、土佐一宮の記録では歌われた歌詞は、「御伊勢山田の神まつり、むくり、こくりを平らげて、神代、君代の国々の千里の末迄ゆたかにて、老若男女、貴賤、都鄙、栄え栄うるめでたさよ。御伊勢踊りを踊り候てなくさみみれば、国も豊かに、千代も栄えて、めでたさよ」とあります。「むくり」と「こくり」は蒙古と高麗であり、キリスト教の脅威は当時の我が国にとって元寇以来のものだったことが判ります。
自虐史観そのままの反日学者の論文なので、豊臣秀吉に対する評価や上記の史実に対する分析には全く賛同できませんが、当時を理解する上で貴重な記述だと思います。正親町天皇は、寺社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売買する彼ら宣教師の正体を、早い段階から邪悪な勢力と見抜いて追放に尽力しました。そして、江戸時代になって禁教令が出ると、多くの民が皇室の祖神である天照大御神に感謝の踊りを捧げています。これは、孝明天皇や大隈重信に引き継がれる精神に感じられ、素晴らしい歴史と伝統を持つ神国日本を再認識します。
シドニー学院さん、コメントありがとうございます。また興味深い論文を紹介していただき感謝しています。
天皇や公家がキリシタンに敵対していた話や『伊勢踊り』の話は初めて知りました。日本人にとってキリスト教の脅威は元寇と同様であったということは興味深いです。
大隈重信については、御存知かもしれませんが『大隈侯昔日譚』の第五章に浦上の隠れキリシタンの処分問題について述べている部分があります。
「余は先に多少耶蘇教を研究せしを以てその見る所、澤らと異なり。彼は一概に之を邪教視し、蛇蝎視するものなり。余は必ずしも之を悪むにあらず、而してその教義に於いては寧ろ多少の道理を含むを認る者なり。彼等信者が漫に国法を犯したるの点に於いては、遂に黙々に附する能わざるを思えり。」(『大隈侯昔日譚』新潮社版 p.222)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908934/122
とあり、大隈自身はキリスト教に対してはほぼ中立的であったと思われます。しかしながら、国是としてキリスト教を国禁としていることについては、外国からの干渉を受ける理由はないと撥ねつけたのですが、非常に立派な態度だと思います。
私も大隈重信のことをいろいろ調べたくなりました。