戦場で拉致されて売られていった人々

飢餓と戦争

『大坂夏の陣図屏風』に描かれた乱取り

 藤木久志著『飢餓と戦争の戦国を行く』の冒頭に「七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな」ということわざが紹介されている。相次ぐ飢饉も餓死者が大量に出て大変なものだが、一度の戦争に遇うと、七度の飢餓に遇うよりも悲惨であるという意味である。前回の記事にも書いたが、戦場になると耕地が刈り取られ、家々は放火され、食糧や財物だけでなく家族までもが奪われていったのだからたまらない。

『大坂夏の陣図屏風』

 上の画像は大阪城天守閣に保管されている『大坂夏の陣図屏風』の左半分の一部だが、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かっている様子が克明に描かれている。

 偽首を取ろうとする者や、略奪をする者、女性や子供を捕まえる者などいろんな場面が描かれているのだが、この乱取りについてイエズス会の宣教師が記した報告書の一節が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第12 家康時代 中巻 大阪役』に引用されている。

 敗走者及び追撃の武器の音、戦勝者の無礼なる叫び、婦女の高き叫喚、小児の絶望の涕泣、街上に血の河流るる状、火に焼かれ、鉄砲に傷つけられたるものの発する呻き声。及び広場、または街路を狂者の如く急ぎ、敵及び炎より遁るる光景は、ただに戦敗者にのみならず、戦勝者にても、一片人情を存する者にとりては、恐るべき観物なりき

(徳富蘇峰著『近世日本国民史. 第12 家康時代 中巻 大阪役』昭和10年刊 民友社 p.548)

 また醍醐寺の座主であった義演の日記には
「五月十日。将軍昨日伏見城へ御入云々。女童部共(おんなわらべども)取(とらえ)て陣衆帰る。浅間敷(あさましき)。」と記されているという。

各地で行われていた奴隷狩りとその目的

 大坂夏の陣ほどの規模ではなかったにせよ、同様のことが戦国時代に戦場となった各地で行われていた記録が残されている。食料や家財道具などを奪だけでなく、身代金を得るために村人をも攫っていったという。藤木久志氏の『戦国の村を行く』に、こう解説されている。

 甲州(山梨県)の戦国の年代記『妙法寺記』がその事情に詳しく、天文十五年(1546)、武田信玄の軍に襲われた、戦場の村のありさまを、こう書いています。

男女生捕りに成され候て、ことごとく甲州へ引越し申し候、さるほどに、二貫、三貫、五貫、十貫にても、身類(親類)ある人は承け(買い戻し)申し候。」

 相模(神奈川県)の戦場の村で、男女が武田軍に生け捕られ、みな甲州へ連行された。しかし、親類のある裕福なものは、二~十貫文ほどの身代金で武田軍から買い戻されていた、というのです。…中略…

 ともかくも、大金を出せば生捕りは返してやるというのですが、もし貧しくて身代金を払えない人々は、どうなったのでしょうか。北関東の戦場には、こんな衝撃の証言があります。…越後の上杉謙信(長尾景虎)が北関東に遠征して、常陸の小田氏治の城(茨城県つくば市)を攻め落とした時のことだった、といいます。

「小田開城、景虎より、御意をもって、春中、人を売買事、二十銭、三十二(銭)程致し候

 城主が降参し落城(開城)すると、戦いに敗れ敵軍に占領された小田城下は、たちまち奴隷市場に一変し、大名の上杉謙信が自ら差配して、人の売り買いをはじめた。奴隷の値段は二十~三十銭ほどしていた、というのです。

 このように戦場の村や町では、軍隊による公然たる奴隷狩りが行われ、戦場に出入りする人買い商人たちとの間に、奴隷の売り買いがされていたのです。こうした戦国時代の戦場の奴隷狩りの被害は、…私が調べたところでは、ほとんど全国の戦場に及んでいました。

 いったん村が戦場になれば、家々は略奪されたあげく放火され、村が焼き払われます。それは苅田と呼ばれた敵の兵士たちの作荒らしとともに、おそらく避けようもなかったでしょう。しかし、村人の身になれば、略奪・放火・殺害は戦争の常、などとはいってられません。何もしなければ、食料や家財を奪われ、切り殺され、奴隷にされてしまいます

(藤木久志著『戦国の村を行く』朝日選書 p.24~26)

 戦国時代の通貨単位である「貫」と「銭」との関係は、「一貫」=銭千枚=千文で、「一文(銭)」の現在価値については50円だとか500円だとか諸説があるが、いずれにせよずいぶん安い値段で人間が奴隷として売られていたことになる。

島原半島に連行されたのち外国に売られていった豊後の人々

 しかしながら、本州や四国で奴隷として売られた場合は、生きていれば家族と再会できる可能性があったのだが、九州の場合はそうとは限らず、多くの日本人が海外に売られていったのである。この問題については以前このブログでも書いているのだが、奴隷に売られていった経緯について、当時の記録をいくつか紹介しよう。

 天正十四年(1586年)に薩摩軍による豊後侵攻が始まったのだが、ルイス・フロイスは次のように記している。

 薩摩軍は、万事が思惑どおりに運ぶのを見て、通過する南郡の地、その他のところを焼き払い、打ち壊し蹂躙し始めた。彼らが通過した後には、満足なものは何一つ残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、薩摩勢が実におびただしい数の人質、とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。これらの人質に対して、彼らは異常なばかりの残虐行為をあえてした。

(『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編Ⅲ』中公文庫 p.175)
大友宗麟像(瑞峯院所蔵)Wikipediaより

 大友宗麟が大坂城で秀吉に謁見して支援を懇願し、天正十五年(1587年)になって、大友氏が滅亡直前のところで豊臣秀長率いる十万の豊臣軍が到着し、さらに秀吉も十万の兵を率いて九州平定に向かい、四月に島津軍を降伏させたのだが、長い間の戦いで豊後の人々は悲惨な状態に陥っていた。フロイスは1588年の豊後の状況を次のように述べている。

 豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の三つのうちいずれかに属していた

 その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。

(同上書 p.266)

 飢餓で苦しんだ人々も悲惨だが、島津軍に捕虜にされた人々の運命も悲惨なものであった。フロイスは次のように述べている。

 薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった

(同上書 p.268)

 島原や三会の港に連れていかれたということは、買ったのはポルトガル商人であったと考えて良い。

秀吉の怒りと「伴天連追放令」

 九州の奴隷売買と伴天連追放令では、豊後の人々は売られてどこにいったのであろうか。九州平定に成功した豊臣秀吉は、九州で多くの日本人が海外に奴隷として売られていることを知って激怒し、天正十五年(1587年)七月二十四日に、イエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

 予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう

(『完訳フロイス日本史4 豊臣秀吉編Ⅰ』中公文庫 p.208)
豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵 Wikipediaより)

 この太閤の質問に対するコエリョの回答もフロイスが記録に残している。

 …この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。

(同上書 p.210~211)

 と、日本人奴隷の国外輸出は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。また、「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

 翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

 そこでコエリョが答えた内容は

 キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。

(同上書 p.215)

 そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。

 秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである

 秀吉が「伴天連追放令」を出した理由は日本人奴隷輸出の問題だけではないのだが、キリスト教宣教師が来日して以来わが国でどのような問題が起こり、秀吉の「伴天連追放」以後はどう動いたか、日本人奴隷は海外でどのように使われたか、なぜスペイン・ポルトガルが異教徒の国々を侵略し、異教徒を奴隷としたか、キリスト教の宣教師たちは本国とどのような戦略でわが国を狙っていたかなどについては拙著で詳しく書いたので、参考にして頂ければありがたい。

戦前は広く知られていた史実が戦後の長きにわたりタブーとされてきた

 以前このブログでも紹介したが、日本人が奴隷として大量に輸出されていた話は、戦前には少年少女向けに書かれた豊臣秀吉の伝記などにも書かれていたのだが、この伝記はGHQによって焚書処分されてしまっている。

 また、戦前には日本人奴隷についての詳しい研究書がいくつか存在していたのだが、戦後の日本史研究ではこの分野は長きにわたりタブーとされてきてマスコミで採り上げられるようなことはなく、ルイス・フロイスなど当時の記録も、日本人奴隷にかかわる部分が採り上げられることはほとんどなかったのではないだろうか。

 最近になってようやくこの問題に触れる書籍が出版されるようになってきたのだが、イエズス会等の宣教師が本国と連携して何をしようとしていたかを知らずして、なぜ秀吉や徳川幕府がキリスト教の禁教令を出し、徳川幕府が海外貿易の相手国をオランダ・中国に絞り込み、貿易港を長崎の出島に限定して出入国を厳しく規制したかを正しく理解できるとは思えない。

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