薩長に接近したイギリスは討幕に関与したのか、しなかったのか

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貿易を独占していた幕府の利益はどの程度であったのか

 前回の「歴史ノート」で、条約勅許を認める条件として兵庫開港を中止する旨の上奏文を薩摩藩が天皇に提出したことを書いた。薩摩藩がこのような提案をしたのは、兵庫開港による貿易上の利益を幕府が独占することを阻もうとしたことによるが、そもそも開港することによって幕府はどの程度の関税収入を得ていたのであろうか。

 F.V.ディキンズの『パークス伝』によると、1865年(慶応元年)に日本における輸出入総額は三千二百万ドル以上とあり、さらにこう述べている。

 貿易の大半は英国で、船舶の七分の六も英国であった。関税は横浜だけで四十五万二千三百五ドルにのぼった。この大金のすべてが、長崎と箱館で収められる税金とを合わせて、すべて将軍の金庫に入った。このうまいもうけ口を諸大名、特に南国と西国の大大名*たちは羨望の目で見ていた

*南国と西国の大大名:薩摩藩、長州藩

F.V.ディキンズ『パークス伝 日本駐在の日々』東洋文庫 p.56

 当時は黒船一隻が八万ドルから十五万ドル程度で買えた時代であり、横浜港の関税収入はかなり大きかったと考えて良いだろう。

 薩摩藩と長州藩はそれぞれ薩英戦争、下関戦争を経験し、従来の武器では攘夷が不可能であることを悟り、軍備増強をはかるために欧米からの軍艦や兵器などの導入をすることが必要であることを認識していた。そのためには巨額の資金が必要となるが、藩の収入には限界があり、新田開発から密貿易や贋金づくりまで、それぞれ資金捻出に苦労していたのである。外国貿易が始まって物価が高騰し生活が厳しくなる中で、貿易に関わる利益を幕府が独占していることは彼らにとっては不愉快なことであり、彼らも同様に自由な貿易ができることを望んでいた。一方イギリスは、下関などに新たな貿易港を開くことは条約でも認められている権利であり、幕府がなかなか新しい港を開かないことに強い不満を抱いていた。このような背景から、薩摩藩・長州藩はそれぞれイギリスに接近していくことになるのである。

イギリスが倒幕に関与していた可能性

 前掲の『パークス伝』第四章の冒頭に、興味深いことが書かれている。

 1866年と1867年のすべて、および1868年の大部分の、日本関係の公文書は公表されていない。したがって、パークスの生涯におけるこの期間は、重要であり興味深いものではあるが、公文書による情報はほとんど入手できない。ただ僅かばかりの私信が残っていて、ふつう近代日本史と称する不完全な記述よりも、当時の諸事件を解明するのに、幾分か役立っている。

(同上書 p.57)

 ディキンズがこの本を執筆したのは1894年だが、この時点で明治維新に関わる日本関係の公文書が公表されていなかったということは、イギリスが相当程度明治維新に関与していた可能性を感じざるを得ない。

 ディキンズはこの本で、慶応二年(1866年)七月に将軍家茂が大阪で死去したため、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜が第二次長州征伐を中止させたのちの情勢をこう記している。

 これからは、この国の運命は、まったく天皇派の手中に握られた。この政治革命の、内面的歴史を物語ることはできない。その真実の記述が、今後はたして現れるかどうか、極めて疑わしい。しかし、この革命運動の根底に、幕府を倒そうとする大大名の強い欲望があったことは確かである。彼らは、富と権力において、十藩か十二藩の実力があり、外国貿易の利益の分け前にあずかるためには、幕府が大きな邪魔物となっていた。この大大名の欲望は、徳川家に直接忠誠を誓う譜代大名の容認し得ぬものであった。サー・ハリー・パークスは、サトウ氏やアストン氏など有能な部下がいて、たえず充分な情報を入手していたので、このような大大名の意図をよく知っており、それに基づいて彼の政策を立てたのである。

(同上書 p.58~59)

 この文章を普通に読めば、日本に関するイギリスの公文書が公開されない状態では、真実の歴史記述は難しいと理解するしかないのだが、実際のところイギリスは明治維新にどの程度関与したのであろうか。

 幕府による第二次長州征伐が失敗に終わったのは、慶応二年(1866年)のはじめに薩摩藩と長州藩が討幕のために盟約を結び(薩長同盟)、イギリスから最新鋭の小銃を大量に購入できたことが大きかった。薩長の二藩の同盟を仲介し、武器弾薬類の取引を禁止されていた長州が兵糧米を薩摩に回送することで、薩摩藩名義で武器を調達させたのは土佐藩を脱藩した坂本龍馬なのだが、わずか三十歳の浪人である龍馬が、なぜこのような大仕事をなし遂げることが出来たのだろうか。また、その後薩摩藩・長州藩ともに、大量の最新鋭武器を購入しているのだが、その購入資金をどうやって調達したのかということが、昔からずっと不思議でならなかった。そのシナリオを描いた人物なり組織なりがほかにあったのではないだろうか。

アーネスト・サトウ

 萩原延寿氏が、英外交官・アーネスト・サトウの1861年から1926年までの45冊の日記帳を調べ上げ、サトウの幕末期から明治初期までの活動を描いた『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』という労作がある。この第三巻に、1866年4月16日付のハモンド外務次官よりパークスへの半公信が引用されているが、非常に意味深な内容だ。

 日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。じじつ、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない

(萩原延寿著『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』朝日文庫 p.237~238)

 内紛があれば為政者の反対勢力を裏から支援して政権を転覆させ、新政権樹立後に自国の影響力を強めていくというやりかたは、欧米諸国が植民地統治でよく用いてきた手法なのだが、イギリスは、わが国においても同様な手法で幕府を転覆させようと、見えないところで明治維新に関わっていたのではないだろうか。

アーネスト・サトウの『英国策論』とイギリス外相の公信

 アーネスト・サトウは慶応二年(1866年)四月に、横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・タイムスに『英国策論』を発表している。この小冊子は日本語に翻訳されて、当時の大阪や京都の書店で販売され、広く読まれていたという。「国立国会図書館デジタルコレクションに」その写本がネット公開されているがかなり読みづらく、興味のある方は新字体で全文が紹介されているWikisourceのテキストを読むことをお勧めしたい。

英国策論 - Wikisource

 サトウはパークス公使の片腕であり、イギリス公使館の対日政策立案を行っていた人物だが、この小冊子には概ね次のような内容が記されている。

「現行の条約は将軍と締結したものだが、将軍は日本国の諸侯の長であるにすぎない。日本の元首は天皇であり、天皇の勅許も得られない条約は諸侯の納得を得られておらず、そのために将軍は条約上の義務を履行することも出来ない

 我々が将軍を相手に条約を締結したことは誤りであった。現行条約を廃して、新たに天皇との関係を結ぶようにしなければならない。」

 サトウはこの論文で、天皇を元首とする諸大名による連合政権樹立を唱えたのだが、この主張は幕府政権を否定する長州藩や薩摩藩の主張と同様のものである。

第四代クラレンドン伯爵(Wikipediaより)

 ところがイギリス本国では、1865年10月に首相のパーマストンが死去して外相のラッセルが首相となり、クラレンドン卿が外相に就任した。すると対日方針が急遽変更され、新外相は1866年4月9日 (慶応二年二月二十四日) 付でパークス宛に次のような公信を発している。

 わたしは貴下につぎのことを訓令しなければならない。すなわち、予想される武力衝突にさいしては、どちらの側にもくみせず、どちらの側を支持するとか支持しないという意見の表明も、いっさい差しひかえるよう注意することである。…

 イギリス政府が日本において求めているのは、政治的影響力ではなく、ただ貿易の発展だけである。この貿易の発展という見地から、貴下は適当な機会をとらえ、すべての大名に外国貿易への参加をゆるすことは、国内の平和を維持するうえでのぞましいことであると述べてもかまわない。しかし、貴下は、個々の大名と個別的な取り決めを結ぼうとしてはならない。むしろ、貴下は、大名たちにたいして、天皇および将軍と協力し、国内の不和や外国とのあつれきの原因をとりのぞくような一般的措置を講じるよう、すすめるべきである。…

 いかなる内乱の場合にも、イギリス政府の政策は、中立を保持することである。

(萩原延壽『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄 3』p.203)

 イギリスは、あらたに幕府が開く港の関税収入を従来通り幕府が独占しようとした場合に再び内戦が起きることを懸念し、武闘派のパークスが幕府と長州の紛争に介入することを憂慮していた。クラレンドン外相は早いうちにその歯止めをかけようとしたのだが、当時の公信は船便で送られていたために、パークスの手許に届いたのは1866年6月 (慶応二年五月)であったという。

ハリー・パークス

 鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説しておられる。

 このとき既に駐日公使パークス、通訳官アーネスト・サトウ、武器商人グラバー達は『反幕府・薩長支持』の立場から熱気をはらんで動き始めた後だった。遅かりしクラレンドン公信、という訳だ。歴史の歯車が大きく動き出した後に、今更、中立を指示されても、歯車は急に止まれない。

 パークスはクラレンドン外相の中立指示に対し、逆らわず、そして従わず、半身の姿勢で応じた

 こうして結局、駐日イギリス公使館がアーネスト・サトウの『英国策論』のシナリオどおりの路線を進めたことは、周知のとおりである。

(鈴木荘一著『開国の真実』かんき出版p.274)

英国公使パークスの鹿児島訪問

 そして英国公使パークスは、慶応二年六月十六日(1866/7/27)に鹿児島を訪問し六日間滞在している。そして六月十八日(7/29)に行われた西郷吉之助(隆盛)との会談の内容が、家老の岩下方平(みちひら)に宛てた西郷の書状に残されており、その現代語訳が『遠い崖』に出ている。

西郷隆盛像(エドアルド・キヨッソーネ作の版画)

 西郷はパークスに対し「条約などの外交交渉を朝廷の手で行われるようにする」考えを述べたあと、パークスが「これまでの幕府との交渉経過はどうするのか」と質問したのに対し、次のように返答したと書いている。

 そのさいには、朝廷から五、六藩の諸侯に条約締結などの外交交渉を委ね、兵庫港の関税収入は朝廷に納め、万国に通常の手続きを踏んだ条約を締結したならば、その時はじめて国と国との信義を重んじる関係を取り結ぶことが出来るはずだ。そうなれば、現在のように、幕府役人が賄賂を貪るような不正なやり方とは大いに異なり、諸外国にとっても都合が良かろうし、もちろん日本は条約締結を機に真の開化をとげることができると確信している

(『遠い崖 3』p.314)

 西郷は、政権を事実上薩摩から雄藩連合に移すという考えをパークスに披歴し、さらに兵庫開港問題で幕府を追求するように要請したが、パークスは内政不干渉を主張して慎重な態度をとり、「将軍を大君と称するのは適当ではない。日本のように天皇、将軍が並び居る形は、外国ではけっして見られないことである。いずれ国王が唯一であるという状態に落ち着かせないわけにはいくまい」(同上書p.316)と述べたという。

 二人の会談のあとで、パークスはクラレンドン外相へ宛てて半公信を送っている。二人の会話の詳細は省いているが、鹿児島訪問は上首尾に終わったと述べたあと、兵庫・大坂の開港の問題について、こう報告している。

 かれらは、つぎのことをおそれている。すなわち、兵庫と大坂が、大名たちが参加してつくられた取り決めにしたがって開港されるのでなければ、かれらは現在享受している多くの貿易上の便宜を失うかもしれないこと、そして、大坂は現在彼らにとって自由港であるが、それが将軍の支配下に置かれるようになれば、多くの制限を課せられるであろうこと。

 かれらは、これらの問題について協議するために、大名たちの招集がおこなわれることを切望しており、そして、将軍はこのような会議がひらかれるのを阻止しようとつとめていると、申し立てている。

(『遠い崖 3』p.322~323)

GHQ焚書に記された「英国公使の討幕密計」

 GHQ焚書の中に、『日英外交裏面史』という本がある。この本には、パークスが主要国の公使等に重大な提案を行ったことが記されている。

 英国公使パークスは慶応二年長州より鹿児島、宇和島を歴訪し、帰任後日本の連盟各国公使等に密書を送り、倒幕の秘策を授けてその賛同を求めている

「つらつら方今日本の形勢を窺うに、上は天使、中は政府諸侯、下は万民の言論一致せず、外は鎖港を含み内は開港を唱えている。表は誠実を現わし浦は虎狼の心を抱き、ただ因循に流れ人情に悖り、遂に内患を醸し大軍を率いて上阪した。然るに数か月を経るも長州を征討する色なく、徒らに財貨を糜(ついや)して国用足らず。諸民は困窮せる様観察せられる。これ逸を以て労を討つの好機会だ。この機を逸せず、環海軍艦を置いて糧道を絶ち、咽喉を扼して長藩と同盟の一二藩を欺き、以て内に起たしめたならば、坐して彼を倒すことが出来る。各国同盟して不日兵を発する策は如何にや。」

 これは全くパークスの陰謀である。もしこの秘策が実現したならば、日本は四分五裂して、彼らが飽くなき好餌となったであろう。しかるに『英国公使の秘策は、実に百発百中の図星である。だが幕府の疲弊に乗じてこれを討つのは仁道でない。幕府は外国を遇するに信義を失わず、討幕の名なきを如何にせんや』などと、米、仏、露、蘭の不賛成の意を表し来たり、せっかくパークスが苦肉の秘策も行うところなく、闇から闇へ葬られてしまった。フランスはもとより幕府を援助するもの、アメリカもオランダも積極的ではなかったが幕府の同情者で、中立的位置に立っていたのはロシアのみであった。パークスは、幕府の疲弊せるに乗じ、長藩と同盟の一二藩を欺きこれを打倒しようというのだ。これ彼の陰謀ではなくてなんであろう。もし彼の志のごとく幕府が倒壊して新政府成った暁には、重圧を加えて内政に干渉し、以て利益を壟断せんとするものであろう。

(柴田俊三 著『日英外交裏面史』秀文閣 昭和16年刊 p.82~83)
日英外交裏面史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 以前このブログで書いたが、パークスは公使として来日する前は清国の広州領事であり、1856年10月に清の官憲がイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕したことに抗議してイギリス海軍を動かし広州付近の砲台を占領させてアロー号戦争が始まるきっかけを作った人物である。

 一般的な教科書では討幕勢力とイギリスが接近したことは書いてあるが、当時の幕府や倒幕勢力の対応次第では、わが国も清国と同様に外国勢力に呑み込まれる危険と隣り合わせであったことを知るべきである。

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 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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