大友宗麟による寺社破壊と、島津との戦いののち海外に売られていった豊後の人々

キリスト教布教とその影響
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大友宗麟は布教許可を与えたのちも長らく禅宗に帰依していた

 大友義鎮(よししげ)が父・義鑑(よしあきら)の後を継ぎ、わずか二十歳で豊後の国主となったのは天文十九年(1550年)のことである。その翌年に彼はフランシスコ・ザビエルを府内の城中に引見したという。ザビエルの1552年1月29日の書翰には、こう記されている。

大友宗麟像(瑞峯院所蔵)Wikipediaより

 私がまだ山口にいた時、他の有力な日本の領主が、私の所へ手紙を寄越し、その領主の居る家まで来臨を乞うと言ってきた。これは豊後の領主であった。その領国の港の一つにポルトガル船が着いたし、また個人的にも私と色々の事について話し合いたいから来てくれというのであった。この手紙を見て私は、コスメ・デ・トレス神父とジョアン・フェルナンデス修士とを山口の新信者の中に留め、私は直ちに豊後に向って出発した。一つにはこの領主が果たしてキリスト信仰に傾いているか否かを見極めるためである。また一つには、ポルトガル人に会うためでであった。領主は、私を、至らぬ隈なき歓待を以て迎えた。また新しく渡来したポルトガル人との会談は、私にとって大きな喜びであった。 

(岩波文庫『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄(下)』p.115)

 ザビエルと引見したのち義鎮は直ちに領内での布教を許している。その当時は、以前このブログにも書いた通り、キリスト教は仏教の別派と考えられており、義鎮に限らず多くの領主が安易に布教の許可を与えている。

 その結果、豊後ではキリスト教に帰依するものが増加し、教会や学校や病院なども建てられていったのだが、義鎮本人は禅宗に帰依していて、永禄五年(1562年)に出家して「宗麟」と号している。もちろん宗麟は宣教師から洗礼を受けることを勧められていたのだが、自身が領内でキリスト教の布教を認めてから二十年以上経過してもキリスト教徒になろうとせず、親族も同様であった。にもかかわらず宗麟がキリスト教の布教を許していたのは、外国貿易とその利益を得るためであったようなのである。

 日本基督教会の牧師であり教会史家であった山本秀煌(ひでてる)氏の『西教史談』によると、

 思うに、彼がキリシタンを厚遇したのは、キリシタンと密接の関係ある外国貿易を盛んならしめんが為であったに違いない。当時外国より日本に渡って貿易に従事しておった者はポルトガル人のみであって、その貿易はキリシタンと離れるべからざる関係を有していたがゆえに、外国貿易を奨励するには、どうしてもキリシタン宣教師を厚遇しなくてはならなかったのである。…

 宗麟が、天下に覇たらんとするにあたって、まず必要なるものは軍用金の調達であった。あわせて武器の精鋭なることであった。而してこれを得るには外国貿易を奨励するほかはなかった。これ彼がポルトガル商人を招待し、家臣を海外に派遣し、以て武器を購入した所以(ゆえん)である。彼が大友の主君となってから数年にして、九州の中六ヶ国を掌握するにいたったのは、将士の忠誠与(あずか)って力ありしは無論であるが、またその資金の豊富なることと武器の精鋭とにあったことは、今改めてここに特筆するを要しない。当時国崩しと称した大砲の如きは、おそらく大友氏の専有であって、他にその類がなかったであろう。後年宗麟の居城丹生島(ニブシマ)城が、薩軍の猛撃を受けて落城しなかったのは、ただに要害堅固なりしによりしのみならず、またその国崩しの威力があずかって力のあったのは疑うことが出来ない

(『西教史談』p.87~89大正十五年刊)
西教史談 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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 しかしながら、宗麟が禅宗に帰依していたままであったことから、豊後ではキリスト教の信奉者のほとんどが下等階層の人々となっていて、上流階層の者はこれを信奉することを恥としていたという記録がある。

 徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、イエズス会日本支部長のフランシスコ・カブラルが天正四年(1576年)九月九日付で記した書翰の一節が引用されている。文中の「府内」というのは、大分市中心部の旧称である。

 府内においては、福音は、極めて軽蔑せられ。苟(いやしく)も地位あるものは、たとい心中に於いて、その正善を信ずる者あるにせよ、之を公然認識するを、敢えてするものがない。そは下等社会と伍するを愧(は)じるからだ。されば慈善事業の成功は、悦ぶべきも、福音の弘通には、多大の妨害となっている。

(『近世日本国民史. 第2 織田氏時代 中篇』p.218)
近世日本国民史. 第2 織田氏時代 中篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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大友宗麟がキリスト教に入信する前から始まった日向国の寺社破壊

 イエズス会の宣教師たちは何とかして上流階級の者を入信させようとしていたのだが、彼らにチャンスが訪れるのである。宗麟は嫡男の義統(よしむね)に大友家を継がせるつもりで次男を出家させようとしたのだが、次男は坊主になることを拒否したのである。

 天正四年(1576年)八月十七日付のフランシスコ・カブラルのイエズス会宛の書翰が『異国叢書・続』に掲載されているのを引用する。(『異国叢書』は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも無料で読むことが出来る。このブログでURLを紹介している。)

 国王(宗麟)は…少年が如何にするも僧侶となることを欲せず、之を宥めるもまた脅すも効なきを見て一の手段を思い付きたり。この考えは我らの主デウスが王に授け給いしものと思わるるが、その子をキリシタンとなすことにして、キリシタンとなれば強き心は折れて、兄に服従すべしと信じたるなり。よってその子をキリシタンとなさんと欲する旨を予に告げしめたり

(『異国叢書. 續 豊後篇下巻』p.138~139昭和十一年刊)
異国叢書. 續 豊後篇下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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 かくして宗麟の次男はカブラルにより受洗したのだが、その後大友家の中でキリスト教に帰依するものが続々起こり、宗麟も、嫡男の義統も次第にキリスト教に心が傾いていく。

太平記拾遺四十八:大友侍従義統(落合芳幾作)Wikipediaより

 天正五年(1577年)には薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始し、日向の伊東義祐が島津氏に敗れて大友氏に身を寄せたのだが、天正六年(1578年)に大友宗麟・義統は島津の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために軍を率いて日向への遠征を決定している。この戦いに於いて宗麟も義統も洗礼を受けていなかったが、心は既にキリシタンであった。この時に大友軍は日向の寺社を徹底して破壊している。

 当時日本にいたルイス・フロイスの『日本史』にはこう記されている。

 国主(宗麟)はほとんどつねに病身であったから、必要なだけの健康を保ってかの地(日向)に元気で到着したことを深く喜んだ。彼は、…日向の国に、一つの堅固で、ローマにまでその名を馳せるほどのキリシタン集団を形成する決意でいた。そのため彼は力を尽くしてその完成を期し、たとえヨーロッパの法と習慣を採用した政治がしかれるとしても、現地の習慣がそれに合致できるものにしたいと意図していた。

(中公文庫『完訳フロイス日本史7』p.156)

 かの日向の地において仏僧たちの寺院で行われつつあった破壊はすさまじいものであった。かつて同国において無上の尊敬と名誉を受けていた者は、今では打ち萎れ、その寺院も屋敷も解体され、その偶像は打ち毀たれ、彼ら自身他の地に逃げざるを得ぬか、もしくはそこに留まるならば、かつての収入も信用もなしに過ごさねばならなかった。とりわけ彼らを悲しませたのは、彼の地で神を敬い、仏を拝み、仏僧たちに寄せられていた権威や尊敬の念を保持することは似つかわしくないとして、彼ら自身の手で仏像や寺院を破壊し、それらの材木を、今や建立され始めたキリシタンの教会の建物に使用するために運搬せねばならなかったことである。

(同上書 p.158~159)

 Wikipediaによると、宮崎県北の文化財が大友軍によりことごとく破壊され、この地域の近世以前の一次資料が壊滅的に失われたと記されている。

耳川の戦い - Wikipedia

 その後、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り正式にキリスト教徒となったのだが、耳川の戦いで島津軍に敗れ、多くの重臣を失ってしまい、以降大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていくことになる。

彦山霊仙寺 (現:英彦山神宮)の焼き討ち

 宗麟が破壊したのは日向の寺社だけではなかった。有名な彦山焼討ちについても記しておきたい。

 英彦山は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199mの山で、古くから修験道が盛んで、羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられていた。彦山修験道の大本山であった霊仙寺は、当時僧坊三千余、四十九窟(行場)を有する、西国修験道の一大拠点として栄えていたという。

 大友宗麟は天正四年(1576年)四月に家臣に命じて彦山を攻めさせているが、その時は山の腰を取り囲んだだけで山上には攻めあがらなかったという。しかしながら、宗麟が改宗した後の天正九年(1581年)には、徹底した破壊が行われている

 山本秀煌 著『日本基督教史. 上巻』には次のように記されている。

 天正九年に至り、ついに山上に攻め登り、権現の社頭をはじめ、僧坊、民屋に至るまで、一宇も残さず、焼き払い、偶像、祭器、経巻等一時の煙と化せしぞあわれはかなき事であった。伝え言う、この時二人の山伏高声に呼ばわり、大友宗麟七代までの怨霊とならんと罵りて、腹かき切って猛火の中に飛び入ったということだ。死に臨んでもなお自己の罪悪を反省せず、却って領主を呪詛するが如き、悪僧の怨霊何ほどのことかあらんだ。宗麟たるもの毫もこれを怖れることはなかったが、一山の衆徒の遁走せし者どもが、大友家の敵なる島津、秋月の軍に投じて様々の謡言を放ち、豊府の宗室大臣らは皆異教を奉じ、寺観、祠廟を毀し、神社、仏像を挙げて火中に投ずと唱え、邪宗徒征伐を宣伝して衆心を惑乱せしは、大友家にとりて少なからぬ打撃であったろう

(『日本基督教史. 上巻』p.186~187大正14刊)
日本基督教史. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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 山本秀煌氏は、彦山の焼き討ちに際して大友宗麟を罵って火中に身を投じた僧侶を「悪僧」と書いているのだが、偶像崇拝をタブーとするキリスト教の牧師であった著者にとっては、仏像に礼拝することは誤った行為であり、寺や仏像を破壊することは正しいことであるとの認識があるようだ。その点についてはルイス・フロイスの記録も同じで、彼が寺や仏像の破壊について具体的に詳しく叙述しているのは、それらの破壊行為がキリスト教の教義に照らして正しいことであると信じているからであろう。

宗麟家臣の離反と秀吉の九州平定

 しかしながら、大友宗麟がキリスト教に帰依したことによって、宗麟・義統に対する忠誠心が衰え、これまで大友家を支えてきた家臣達が相次いで離反していった

島津義久像(東京芸術大学大学美術館蔵)Wikipediaより

 そして天正十四年(1586年)に島津義久による豊後侵攻が始まると、大友氏単独では島津軍に対抗できなくなっていた。宗麟は大坂城で豊臣秀吉に謁見し、豊臣傘下になることと引き換えに軍事支援を懇願したのだが、島津軍は筑前に兵を向けて岩屋城を落城させたのち、十二月には戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊に大勝し、その勢いで大友氏の本拠地である豊後府内を攻略にかかっている。臼杵城に籠城していた大友宗麟は、南蛮貿易で手に入れた大砲・国崩しを使って臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せたのだそうだ。

 天正十五年(1587年)になって大友氏が滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる十万の豊臣軍が到着し、さらに秀吉も十万の兵を率いて九州平定に出陣し各地で島津軍に勝利して、三月にようやく島津軍が退却を始め、四月には秀吉軍が島津義久を降伏させている

 大友家は豊後一国と豊前の宇佐半郡が安堵されたのだが、大友宗麟は戦いの終わる前に豊後津久見で五十八歳で病死してしまった。宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたのだが、後に義統が府内の大知寺で改めて宗麟の仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに変えたという。九州平定後秀吉が博多を出発する際に、秀吉が大友義統に対して一通の書状を送り、キリシタン信仰を棄てるようにと命じたという。そして義統は、関白に従うと答えたのだそうだ。義統は素直にキリシタン信仰を捨てて、宗麟の葬儀も仏式にやり直したということなのだろう。

大友義統の棄教と捕虜として売られゆく豊後の人々

 薩摩と豊後との長い争いで、両軍に相当な犠牲者が出たことは言うまでもないが、特に長い間戦場となった豊後の人々は、相当悲惨な状態に陥ったことが、ルイス・フロイスの記録に残されているので引用しておこう。

 豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の三つのうちいずれかに属していた

 その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。主なるデウスはさらに彼らの上に正義の鞭を下そうとなされ、臼杵の村落は前年の薩摩軍の包囲によって城を残すだけですべて焼失してしまったが、その後、豊後の新たな国主(大友義統)は、焼き払われ破壊されたその国を再建しようと全力を尽くした。国主の要請に基づいて、持てる者も持てざる者もその力に応じて再建にいそしんだ結果、[人々の談によれば]豊後の国は当初の規模と外観に劣らぬほどになったという。…そのうちに、かの地から一人の司祭が我らの許に届けてきた通信によると次の事態が発生した。

 本年の一月二日の正午近く、臼杵の主要な街路(ルア)で火災が発生した。火元はある貧しい男の家であった。火災は猛烈な勢いでその街路に燃え拡がり、折からの強風に煽られてほとんどことごとく焼き尽くした。…人々が証言するところによると、この火災は家財を盗もうとした人によって人為的に点火されたものだという。

(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.266)

 一月二日の火事で大友氏の居城である臼杵城も焼け、国主の蔵一つだけが焼け残ったのだそうだが、この日は出陣中であっため消火に駆けつけた人々は少数で、そのことが火災の被害を大きくしてしまったという。

海外に奴隷として売られて行った豊後の捕虜たち

 飢えで苦しんだ人々も悲惨だが、捕虜にされた人々も悲惨な運命を辿ったようだ。フロイスは同上書でこう述べている。

 薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった

(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.268)
港に着いた奴隷船から衰弱した奴隷たちを運び出している様子を描いた
1860年の アメリカの スケッチ画  Wikipediaより  

 島原半島の島原や三会の港に連れていかれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考えて良い。

 また、「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、太閤検地の頃の豊後の石高は418千石で、一石は大人一人が一年間に食べる量を意味している。人口はそれから推定するしかないが三十~四十万人程度だったとして、その一~二割程度がポルトガル商人に買われたとしても、三~八万人程度の数字になる。

 では、ポルトガル人は二束三文で買った豊後の人々をどう扱ったのであろうか。

豊臣秀吉像

 秀吉は多くの日本人が奴隷として海外に売飛ばされている事実を突き止めて、イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョに対し、金を払うからこれらの日本人を連れ戻せと迫ったのだが、コエリョは外国船における日本人売買を禁止しない日本側に問題があると回答したことで秀吉は激怒し、伴天連追放令が出されるのである。このことは拙著に詳しく書いたのでここでは繰り返さない。

 戦前の本には児童書にも伴天連追放令が出された経緯がしっかり書かれている本もあったのだが、戦後はこのような戦勝国にとって都合の悪い史実は日本人が読まないように焚書処分されてしまい、一般的な歴史書やマスコミなどの解説でこのような史実が紹介されることはほとんどない。

 では、海外に売られていった日本人奴隷はどのような生活が待っていたのだろうか。

 日本人の中には太平洋を渡った者や、ヨーロッパにも行った者もいたが、多くは東南アジアやインドに売られていった。

 このブログで日本人町のことを何度か書いたが、東南アジアの日本人町を構成した人々の中には、ポルトガル商人に買われて、南蛮船に乗せられて売られていった奴隷が少なからず存在していたと考えている。

朱印船貿易と東南アジアの日本人
「朱印船貿易と東南アジアの日本人」の記事一覧です。
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 通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
 読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。

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