和歌山旅行の初日は和歌の浦周辺の景勝地を巡って来たが、翌日は和歌山城から和歌山市や海南市の古い寺や由緒ある神社などを訪ねて来た。
和歌山城
天正十三年(1585年)に羽柴秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて創建させた城を「和歌山城」と名づけたのだが、当時は「和歌山」という地名は存在せず、築城の地は「岡山」と呼んでいた。なぜ「和歌山城」と名づけたかというと、和歌浦天満宮の案内板には「築城の地である『岡山』に『和歌浦』を合成して『和歌山』城にしたとされ、和歌山という地名は、この時以来のものである」と書かれている。この城は和歌の聖地である和歌の浦にも近く、なかなかいい城名を付けたものだと思う。
秀長は大和郡山を居城としたため桑山重晴が城代を務め、秀長家が途絶えたのち桑山氏が城主となったが、慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いの後、桑山一晴は大和新庄藩に転封となり、軍功を認められた浅野幸長が城主となったが、元和五年(1619年)に浅野家は広島藩に加増転封となり、代わって徳川家康の十男・頼宣が入城し、御三家の紀州徳川家が成立し、大規模な城の改修と城下町の拡張を行っている。
和歌山城は明治四年(1871年)の廃城例により廃城とされ、多くの建造物が解体もしくは移転されたのだが、天守などの十一棟が残されていて昭和十年に国宝に指定されている。しかしながら昭和二十年(1945年)七月九日の和歌山大空襲で天守などの十一棟すべてが焼失してしまった。

上の画像は岡口門で、この建造物は空襲で焼け残り、昭和三十二年(1957年)に国の重要文化財に指定されている。この櫓門は元和七年(1621年)に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建されたものである。

天守は弘化三年(1846年)に落雷で焼失し、嘉永三年(1850年)に再建されたのだが、和歌山大空襲で再び焼失し、現在の天守は昭和三十三年(1958年)に鉄筋コンクリートにより再建されたものである。

和歌山城西之丸庭園(国名勝)は江戸時代に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であった。
藩主が生活している二の丸と庭園とをつなぐ傾斜のある橋は御橋廊下と呼ばれ、藩主が移動するのを気づかれないように壁付になっている。この庭園は紅葉の名所で有名である。

和歌山城は約六百本のソメイヨシノが植えられており、四月上旬には桜まつりが開催されて、日没から夜十一時までライトアップがなされるという。梅の木も数は少ないが植えられていて、西の丸広場などで紅梅や白梅が咲いていた。
日前神宮・國懸神宮

和歌山城から日前宮(和歌山市秋月365)に向かう。
この神社は『延喜式』式内名神大社で、紀伊国一宮である。
日前大神と國懸大神を祭神とし、同一境内に社殿が並んで建てられており、西側が日前神宮、東側が國懸神宮で、両神宮を総称して日前宮と呼ぶのだそうだ。全国に「神宮」と呼ばれるのは二十五社存在するが、「神宮」二社が同じ境内に鎮座しているのは、日前宮しか存在しないという。
社伝によると、神武東征の後の神武天皇二年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述があり、神話にも登場する由緒ある神社である。
創建時は紀伊国名草郡見郷の地に奉祀されたが、崇神天皇五十一年に名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年に現在の地に遷幸されたと伝わっている。

森のような境内の中に日前神宮、國懸神宮の社殿があるのだが、参道の途中からは写真撮影禁止となっている。緑深い参道に入るとまるで別世界で、和歌山市内であるのにあちこちから小鳥のさえずりが聞こえ、山奥に来たかのような錯覚を覚えた。参拝を終えると心が洗われるような不思議な空間である。和歌山に行く予定の方は、是非旅程に入れていただきたい神社であると思う。
紀伊風土記の丘
日前宮から紀伊風土記の丘(和歌山市岩橋1411)に向かう。この施設は国指定特別史跡岩橋千塚古墳群の保全と公開を目的として昭和四十六年に開園された。

岩橋千塚古墳群は五世紀から七世紀にかけて築造された全国屈指の群集墳で、資料館にはここから出土した埴輪や考古資料、和歌山の民俗文化財が展示されている。なかでも、「翼を広げた鳥形埴輪」や「両面人形埴輪」は国の重要文化財に指定されている。

画像は前山A23号墳だが、総面積六十五万平米の園内には約五百基、周辺地域を含むと約九百基の古墳があるという。

画像は旧小早川家住宅(和歌山県指定文化財)。江戸時代後期に建てられた日高川沿いにあった農家を移築したものである。近くには有田川沿いにあった旧谷村家住宅(和歌山県指定文化財)も移築されているほか、竪穴式住宅が復元されている。

時間があれば園内の古墳巡りをしても良かったのだが、一周3kmで約八十分かかると聞いてあきらめ、梅林だけ撮影して引き返した。園内を一周すれば、将軍塚古墳や前山A46号墳など石室内部が見学できる公開古墳や、紀の川方面を一望できるスポットなどもあるのだが、今度訪れる時は見学できるように計画を立てようと思う。

園内にはほかに海南市黒江の漆器問屋であった旧柳川家住宅(国指定重要文化財)が移築されている。また海南市下津町の漁家であった旧谷山家住宅(国指定重要文化財)も移築されている。
伊太祁曽神社
風土記の丘から伊太祁曽神社(和歌山市伊太祁曽558)に向かう。この神社も『延喜式』式内明神大社で紀伊国一宮である。

御鎮座の時期については明らかでないが、社伝によると、古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇十六年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したという。その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座したのだが、和銅六年(713年)に現在地に遷座したと伝えられている。垂仁天皇は第十一代天皇で、考古学上は三世紀後半から四世紀前半頃の大王と推定されている。

祭神は五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命の三神で、いずれもスサノオの子であり木の神として信仰されている神である。同社のリーフレットには五十猛神について次のように解説されている。
五十猛神は、妹神である大屋津姫命・都麻津姫命と共に、日本の国中に木種を播き、最後に現在の和歌山県にお鎮まりなったということです(木の国)。伊太祁曽神社が木の神様を祀る神社として広く知られているのはそのためです。
木の神様を祀る神社である伊太祁曽神社があるから、和歌山を木の国(紀ノ国)と呼ぶようになったようなのだ。

画像は伊太祁曽神社の本殿である。
また境内には三基の円墳が存在し、伊太祁曽神社古墳群と名づけられている。
紀三井寺
伊太祁曽神社から紀三井寺(和歌山市紀三井寺1201)に向かう。この寺の宗教法人としての公称は護国院で山号は紀三井山であり、「紀三井山護国院」と呼ぶのが正しい呼び方なのだが、古くから「紀三井寺」の名前で全国的に知られている。「紀三井寺」という名前は、紀州にある三つの井戸のあるお寺ということで名づけられたと言われており、今も境内には三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)と呼ばれる清水が湧き出しており、この三井水は昭和六十年に環境庁より日本名水百選に選ばれている。
寺伝では奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(770年)に唐僧・為光上人によって開基されたとされている。西国三十三所第二番札所で、桜の名所としてよく知られている。

この寺は名草山の中腹にあり、麓の楼門(国指定重要文化財)から二百三十段ほどの石段を上ると、和歌浦を一望できる境内にたどり着く。

鐘楼は安土桃山時代に建築され国重要文化財に指定されている。六角堂は寛永年間に建立され県指定有形文化財である。

多宝塔は室町時代の建立で国指定重要文化財。

現在の本堂は宝暦九年(1759年)に再建されたもので和歌山県指定有形文化財。本堂の裏手に大光明殿があり中央の厨子内には秘仏本尊の十一面観音像、秘龕仏の千手観音像が安置されていて五十年に一度開扉されるのだが、2020年に公開されたばかりなので鑑賞することは難しそうだ。しかしながら厨子外には、国指定重要文化財の梵天像、十一面観音像、帝釈天増、和歌山県指定文化財である毘沙門天像が常時公開されている。
黒江の町並み
紀三井寺から漆器で有名な海南市黒江に向かう。黒江の漆器は室町時代に始まり、江戸時代には藩の保護を受けて大きく栄えたという。今は埋め立てられているが、かつての川端通りには掘割があり、今の公民館辺りは旧黒江港で、外海から水路を遡って廻船が入ってきていたそうだ。表通りに当たる川端通りには漆器問屋などが軒を並べていたのだそうだが、紀伊風土記の丘に移築されていた旧柳川家住宅も川端通り沿いにあった漆器問屋の一つである。

川端通りに面した紀州漆器伝統産業館(海南市船尾222)があり、二階に漆器づくりの道具や作品などが展示されていて、一階には漆器などが販売されている。

黒江の裏通りには漆器づくりの職人層が居住し、木地屋などは持ち運びに便利な一階に、塗師・絵師は塵の少ない二階に居住するというような職住一体の町並みが形成されていったという。
また黒江はもともと小さな入江であった場所を埋め立てて町を拡張した経緯にあり、出来た宅地の多くが平行四辺形であったという。そのため、道路に対して斜めに建てられた家が今もいくつか残されており、家の前に三角形の空地が出来て家の並びが「のこぎりの歯」のようになっている。

池庄漆器店は創業が明治九年(1876年)。建物は国登録文化財となっている。記念にお椀を購入した。
鈴木屋敷と藤白神社
黒江から藤白神社(海南市藤白466)に向かう。神社に参拝する前に国史跡に指定されている鈴木屋敷(海南市藤白448)を訪ねるのが良い。その理由については後述することとしたい。
平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、熊野古道沿いに参詣途上で奉幣と読経などを行う場所として九十九の王子が熊野修験者によって形成され、特に格式の高い王子は「五体王子」として崇敬され、藤白王子もその一つであった。
藤白鈴木氏は藤代王子旧址である藤白神社の神職を務めた紀伊国の国人領主で、上皇などの熊野参詣の際の接待などを行うとともに、ここを拠点に全国三千三百あるといわれる熊野神社を建立し、熊野信仰を広めたとされ、また全国で二番目に多いと言われる鈴木姓のルーツだとも言われている。

鈴木屋敷はかなり老朽化していたのだが、令和三年~五年に建物と庭園の復元整備工事が行われ一般に公開されるようになった。

一九六九平米の敷地に座敷棟、玄関棟からなる建物と池泉庭園、前庭から構成されている。建物の一部は江戸時代後期に建てられたもので、池泉庭園は室町末期と考えられている。内部には藤白王子に関する資料や鈴木氏に関するパネルや雛人形などが展示されていた。

鈴木屋敷から藤白神社に向かう。神社の創建時期については不詳であるが、景行天皇の代の創建と言われており、主祭神は饒速日命である。

藤白神社の境内には三ヶ所に分かれてクスノキの大木が五本あり、これらのクスノキ群が海南市の指定文化財であり天然記念物になっている。

藤白神社は神社なのだが平安時代末期に造られた熊野三山の本地仏、本宮の阿弥陀如来・速玉の薬師如来・那智の千手観音菩薩、三躯の坐像が祀られている。上の画像は藤白神社の社務所だが、ここで鈴木屋敷のチケットを提示するとその仏像を観賞することが出来る。正確に言うと、鈴木屋敷は「藤白王子跡ミュージアム」の第一展示室であり、第二展示室が藤白王子権現堂でここで貴重な仏像を見ることが出来るのだ。

上の画像は藤白神社の拝殿。奥に本殿があるのだが、神社でありながら本殿も拝殿もなぜか北向きになっている。

ここが藤白王子権現本堂。ここに貴重な仏像が安置されている。社務所の方に鍵を開けていただき、説明をしていただいた。

画像は平安時代末期に制作された熊野三所権現本地仏坐像三躯で、中央が阿弥陀如来、右が薬師如来、左が千手観音菩薩ですべて和歌山県指定有形文化財である。他にも平安時代末期の十一面観音菩薩立像(県指定有形文化財)、鎌倉時代の不動三尊像、毘沙門天像などを観賞でき、写真撮影も許可いただき嬉しかった。
それにしてもこのような重要な仏像が、明治の廃仏毀釈のピークを如何にして乗り越えることが出来たのか。藤白神社は熊野詣の「一の鳥居」として位置づけられ、熊野権現(神仏習合の象徴)信仰の中心地であったことから特別の扱いをされたか、別の場所に移して避難したかの何れかだと思ったのだが、社務所の方は前者の可能性が高いのではないかという意見だった。
記録が残されていないようなのでどういう経緯があったかは想像するしかないが、鈴木氏一族や紀州徳川家、地元民の強い抵抗があったか、安全な場所に隠匿されなければ、これらの仏像を神社境内に仏像を残すことは不可能だったはずだ。
藤白神社の貴重な仏像を権現堂の中でじっくり拝観できることは想定していなかったのだが、鈴木屋敷を訪問しなければ、また社務所で御朱印のお願いをしなければ、藤白神社の参拝を終えたあと仏像を観賞しないまま帰路についていたと思う。鈴木屋敷と藤白神社を旅程に入れたことで、最後に神仏分離がなされる前の神仏習合時代の文化に触れることができて、大満足で和歌山の旅行を終えることが出来た。
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