大門から高野山駐車場へ
丹生都比売神社の参拝を終えていよいよ高野山に向かう。車で30分程度山道を走ると、高野山の総門である大門(国重文)に辿り着く。
この門が建てられたのは永治元年(1141年)で、寛喜二年(1230年)に楼門に改められたとのことだがその後何度か焼失し、今の大門は宝永二年(1705年)に落慶供養が行われたと記録されている。高さ25m・間口21m・奥行は8mあり、和歌山県内最大の楼門で、造営の大檀主は五代将軍・徳川綱吉だという。
大門から数分で霊宝館前駐車場に到着する。高野山の駐車場は多数あり、いずれも無料だが駐車台数は限られており、便利な駐車場から満車になることはやむを得ない。壇上伽藍から金剛峯寺、霊宝館は近いので、車を動かさず徒歩で観光するのが良い。わずかの距離を車で移動することは駐車場待ちで時間をロスする可能性があるので、あまり考えない方が良いだろう。駐車場の詳細は次のURLを参照願いたい。
http://www.koyasan.or.jp/wp-content/uploads/2016/05/10c11685a6748fe416802182e283dac6.pdf
共通内拝券の価格改定と霊宝館
最初に霊宝館に入ったが、少し前に拝観料が大幅に引き上げられていることに驚いた。以前は金剛峯寺、徳川家霊台、大師教会(授戒料)、根本大塔、金堂、霊宝館を巡る共通内拝券が千五百円で購入できたのだが、改定後は共通内拝券が二千五百円となり、霊宝館には別途千三百円が必要で、全部内拝しようとすると合計三千八百円と以前の倍以上かかることになる。新型コロナ感染で観光収入が減った影響とはいえ、拝観料の上げ幅が大きすぎるように思う。高野山は二度目なので、拝観する場所を絞ることにして共通内拝券は購入しないことにした。
霊宝館のHPによると「現在では国宝21件、重要文化財148件、和歌山県指定文化財17件、重要美術品2件、合計182件、約2万8千点弱を収蔵するほか、未指定品になりますと5万点以上を数える収蔵量を誇っています」とあり、逆に言うと、拝観できるところには、建物以外に貴重な文化財は残されていないということになる。個人的には古い仏像などは、博物館のような建物の中ではなく、できれば昔の参拝者と同様に古いお堂の中で拝観したいところなのだが、それが叶わないのは残念である。
霊宝館では令和二年十月三日(土)~十二月六日(日)の期間中『高野山の名宝 皇室と高野山』の特別展が実施されている。今年は、空海の死後八十六年後に「弘法大師」の諡号を醍醐天皇より戴いて千百年にあたることから、高野山に伝わる天皇、皇室にゆかりのある文化財が展示されている。特別展示品のリストは次のURLに出ているが、国宝三点、国重要文化財十三点ある。その中にある鎌倉時代に制作された「弘法大師・丹生・高野両明神像」は、前回の「散策ノート」で書いた丹生都比売神社が、明治維新の神仏分離以前に所有していたものである。
また常設展示だけでも仏像二十三体が国重要文化財で、快慶の四天王立像など見ごたえのある作品が多数ある。また令和二年十一月十六日(月)は「関西文化の日」に協賛し、霊宝館の拝観料が無料になるのだそうだ。
壇上伽藍の諸堂を巡る
壇上は、高野山開山時から中心とされていた地域で、諸堂の集まった所は壇上伽藍と呼ばれ、奥の院とともに高野山の二大聖地である。
上の画像は『紀伊国名所図会』第三編 巻之五に描かれた壇上伽藍の三枚の絵を繋ぎ合わせたものだが、基本的な伽藍配置は今と微妙に異なっていることが分かる。昔は根本大塔の左に灌頂堂という建物が存在したが今は存在しない。また絵図には不動堂が描かれていないが、その理由は後述する。
壇上伽藍の主要な建物を紹介したい。
根本大塔は壇上伽藍の中心的堂塔の一つで、大塔が完成したのは貞観年間(859~877年)の末頃とされているが落雷などで何度か焼失し、現在の大塔は昭和十二年(1937年)に創建時の大きさで再建されたもので、塔内の柱や壁面には日本画家・堂本印象により真言八祖画像が描かれているという。
金堂は高野山全体の本堂で、空海が弘仁十年(819年)に建てた時は講堂と呼んでいたが、寛永期の火災の後二層の銅瓦葺きに再建されて金堂と言われるようになったという。その後も何度か火災に遭い、昭和元年の火災では創建当初のものと伝わる本尊以下六体の仏像も焼失してしまった。現在の建物は昭和七年(1932年)に再建され、本尊の木造薬師如来坐像は彫刻家・高村光雲の制作によるものだという。
上の画像は御社(みやしろ)で国の重要文化財に指定されている。前回の「散策ノート」で紹介したとおり、丹生都比売大神の御子である高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた空海の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ高野山へと導き、空海が高野山を開山したと伝えられており、高野山の開創後は、丹生都比売神(丹生明神)と高野御子神(高野明神)は高野山の鎮守とされたのである。御社の社殿は三つあり一ノ宮は丹生明神・気比明神、二ノ宮は高野明神・厳島明神、総社は十二王子・百二十伴神が祀られている。
西塔(さいとう)は仁和三年(887年)に創建され、現在の塔は天保五年(1834年)に再建されたものである。本尊として高野山内で最古の仏像・大日如来坐像(国重文)があったのだが、今は霊宝館に移されているという。
御影堂は弘法大師の持仏堂として創建され、現在の堂は弘化四年(1847年)に再建されたものである。弘法大師御影を本尊とし、毎年旧暦三月二十日の前夜御逮夜法会のときのみ一般の内陣参拝が許されるという。
不動堂は建久九年(1198年)に創建で、現在の建物は鎌倉時代末期に建てられたものだという。高野山に現存する建物では最古のもので国宝に指定されている。この堂が『紀伊国名所図会』に記載されていないのは、以前は高野山内の一心院谷に存在し、明治四十一年(1908年)に壇上伽藍に移築したことによる。本尊の不動明王(国重文)と運慶作の八大童子像(国宝)はこの堂に安置されていたが、今はいずれも霊宝館に移されているようだ。
壇上伽藍に神仏習合の施設が残された経緯
他にも多くのお堂があるのだが説明は省略させていただいて、ここで重要な問題を考えてみたい。明治新政府は神仏分離令を出し、寺院にある神社的施設を取り除き、神社にある仏教的施設も取り除くことを命じたのだが、なぜ高野山の壇上伽藍に御社が残されたのであろうか。前回の「散策ノート」で書いたとおり、慈尊院は丹生官省符神社と分離され、丹生都比売神社では多宝塔や不動堂などが撤去されていたのである。金剛峯寺はかなり苦労をして御社を残したと思うのだが、何か記録に残されていないかといろいろ調べていると、日野西眞定氏の「高野山神仏分離史料とその解説」という論文がネットで見つかった。それによると、明治二年(1869年)十一月に堺県は金剛峯寺に宛てて「壇上両明神社の御神体改めについての御達」を出し、両明神社(丹生明神・高野明神=現在の御社)に大日像を安置し大日堂と改号して、仏堂の様式に建て替えることなどを命じている。そして明治四年五月に金剛峯寺は、壇上の両明神社を大日堂に変えたことを回答している。その回答の原文の解説に、日野西眞定氏はこう記している。
…本文書により実際に発遣した時の様子が明らかとなった。壇上には丹生、高野の両明神社が並んでいたので、金胎両部の大日像がそれぞれに祀られたと考えられる。なお、高野山蓮華定院添田隆俊師の話によると、近年ひそかに両社を調査したところ、秘仏として、その奥にもう一重観音開きの戸があって、この中に出雲式の宮殿があり、丹生者には女体神像(坐像)、高野社には男体神像(立像)があり、横に両明神の絵像も置いてある。上部には矢、横に太刀もあり、矢には元寇の乱のときこれを奉納した時の武将の名が記してある由である。これが信ぜられるのであれば、この御神体改めも前面の鏡などを引き上げただけで、もう一重奥の分は、そのままにしておかれたという以外はない。
(「高野山神仏分離史料とその解説(一)」密教文化1977巻120号 昭和52年p.37)
このように金剛峯寺は堺県の命令に従って大日如来を祀る仏堂に変えたのだが、丹生都比売神(丹生明神)と高野御子神(高野明神)の神像を堂の奥に残していたのである。高野山の山内にはほかにもいくつかの小さな神社が存在したが、この時に同様に仏堂に変えたという。そして明治十二年に壇上の両大日堂を、両明神社に復帰させ、仏堂に変えていた他の神社も、神社に復帰させている。
しかしながら、これで一件落着とはならなかった。以前このブログで「神社合祀」について書いたとおり、明治末期に政府が推進した「神社合祀」の政策により、和歌山県では8割近い神社が失われたのだが、県は高野山に対しても執拗に「神社合祀」を迫ってきたのである。
金剛峯寺は大正二年に高野山の山内の神社を壇上の両明神社に合祀する認可を得てそれを実行したところ、県側からは神主を置くことを命じてきたという。ところが高野山は開闢以来神主をおいたことが無い。もし、神主を置くことを認めてしまえば、空海以来の神仏習合の伝統が守れなくなってしまう。金剛峯寺は壇上伽藍の両明神社を残すために、どのような方策を採ったのか。日野西 眞定氏の解説にはこう記されている。
そこで、全社を天野社(丹生都比売神社)へ合祀することになった。その代わり、両明神社は、神社明細表から金剛峯寺境内社として同寺の明細帳に書き写された。即ち境内仏堂となったのである。そして、これはあくまで形式上の合祀であり、社司との間にも、一物の品も移さないとの契約書を交わした。即ち県側及び天野社側は名をとり、金剛峯寺側は実をとった。このことは実情を県、郡側は知悉して行っている。両明神社は、その実神社でありながら、名目上は境内仏堂となった。このことのできる精神的基盤には、神仏混交の信仰が生きているからこそであった。
(「高野山神仏分離史料とその解説(二)」密教文化1978巻121号 昭和53年p.66)
かくして壇上の両明神社は仏堂と言う名目で残され、「御社(みやしろ)」と呼ばれるようになって、神仏習合の伝統は守られたのである。そして高野山では、今も高野山の鎮守である丹生明神と高野明神の信仰が大切にされている。
御社の前に山王院という建物がある。これは御社(明神社)の拝殿として建てられたもので、現在の建物は文禄三年(1594年)に再建されたものだという。毎年このお堂で、応永十三年(1406年)から続く竪精(りっせい)や、承安三年(1177年)から続く御最勝講(みさいしょうこう)などの高野山の重要行事が行われるのだが、御社の前にある山王院で行われるのは高野山の鎮守である明神さまを喜ばせる意味があるのだという。
竪精は毎年旧暦の五月三日、御最勝講は旧暦の六月十日の夕刻六時ごろから山王院で行われ、ローソクの灯の中で夕方6時ごろから深夜まで行われ、問答の声が伽藍に響き渡るのだという。一度高野山の宿坊に泊まって、神仏習合の伝統行事を一度見てみたいものである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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コメント
おはようございます♪
拝読いたしました。
急に寒くなってまいりました。
紅葉も一気に進むでしょうか。(^^♪
Ounaさん、読んで頂きありがとうございます。とても励みになります。
10/20に行きましたが、この日は蛇腹道の紅葉が始まっていました。急に寒くなったので、高野山では相当紅葉が進んでいると思われます。
来週以降に丹後や京都市内の紅葉を楽しみに行く予定です。