西光寺~~隠れた紅葉の名所
南丹市は平成18年(2006年)に船井郡園部町、八木町、日吉町、北桑田郡美山町が合併して生まれた市で、京都府中部の丹波地方の南に位置している。寺や神社に貴重な文化財も多数残されているのだが、観光地としてはあまり知られておらず、行ったことが無いところや紅葉の綺麗そうな場所などをピックアップして先日訪問してきた。
最初に訪れたのは西光寺(さいこうじ:南丹市八木町美里中石谷9)。この寺は真言宗大覚寺派の寺院で、東大寺を開創した高僧良弁によって天平勝宝8年(756年)に創建されたと伝わっている。
紅葉の名所として『京都府観光ガイド』の「紅葉だより」に出ているが、訪れた日(2020/11/10)は色づき初めで、今月の下旬ごろが見ごろになるのではないだろうか。
阿弥陀堂(本堂)に向かう石段の紅葉が進めば素晴らしい光景になるのと思うのだが、少し訪れるのが早かったようだ。
阿弥陀堂は文化元年(1804年)に建造されたもので、虹梁や木鼻には龍や鶴などの彫刻が施されていて、南丹市の指定文化財となっている。この彫刻は、北近畿一円に素晴らしい彫刻を残した宮大工、中井権次一統の第五代正忠が制作したことがWikipediaに出ており、堂内の欄間の龍の彫刻の写真が掲載されている。
中井権次一統の作品に関する情報は、Facebookの「中井権次顕彰会」で発信されているので興味のある方は覗かれることをお勧めしたい。
話を西光寺に戻そう。この寺で毎年八月二十日の夜、西光寺六斎念仏が行われるのだそうだが、本尊を背に座る三人が鉦を打ち、それに向かい合って立つ十人が太鼓を打つのだという。この行事は京都府の無形文化財に登録されていて、YoutubeでT Yさんが動画をアップされているが、過疎化・高齢化の進む地域で伝統文化を承継することには大変なご苦労があることだと思う。
生身(いきみ)天満宮~~日本最古の天満宮
次に訪れたのは生身天満宮(南丹市園部町美園町1-67)。この神社は「日本最古の天満宮」と呼ばれているのだが、その理由について神社のHPにはこう記されている。
生身天満宮が鎮座する園部の地は、菅原氏代々の知行所であったため小麦山(現園部公園)に菅原道真公の邸殿があり、度々ここに来られていました。後に生身天満宮の始祖となる武部左衛門尉治定(後に武部源蔵と改めました)は、当時の園部の代官で、菅原道真公をお迎えする立場として交流がありました。
延喜元年(901年)二月、菅原道真公は、藤原時平らの策略により、太宰権師(長官)として筑前太宰府へ左遷を命ぜられます。これを聞いた武部源蔵は、都の東寺まで左遷途上の菅原道真公の後を追います。東寺正殿で対面を果たし、悲痛なお別れを申し上げた時、菅原道真公より御形見として、松風の御硯に添えて御歌を賜り、同時に密かに八男慶能君養育の内命を受けました。託され引き受けた武部源蔵は、慶能君を連れて園部へ戻ります。そこでつぶさに苦労を重ねて慶能君をかくまい育てながら、ひたすらに菅原道真公の無事の御帰洛を待ち侘びることとなります。
同延喜元年(901年)の春、日夜菅原道真公への敬慕の情が切なる余り、また慶能君のご愁嘆を慰めるため、武部源蔵自ら菅原道真公の御木像を刻みました。そして小麦山邸内にひそかに祠を建てて生祠(いきほこら)と称し、御木像を奉齋し菅原道真公と仰ぎました。時々の五穀を供えて幼君と共に日夜礼拝してご安泰を祈り、深く崇敬の誠を尽くしました。
しかしその甲斐なく二年の後延喜三年(903年)二月二十五日、無念にも菅原道真公は太宰府で薨じられたので、この生祠を霊廟と改め神忌を務めました。その後、天暦九年(956年)に慶能君及び恩顧の人々や里人らと図り、かねての霊廟を神社と改め千年の時を越えて現在に至ります。
もともとこの神社は、菅原家の知行所があった小麦山にあったのだが、元和五年に小出吉親公が小麦山に築城することが決まり、現在の場所に遷座されたのだそうだ。以降藩主の崇敬を受け、藩費による御幸行列が行われ、今も十月の第三日曜日に齋行されているという。ちなみに、この神社の宮司さんはこの神社を建てた武部源蔵の三十八代目の子孫にあたる方なのだそうだ。
本殿は江戸時代前期の建築によるもので、回廊とともに京都府の指定文化財になっている。
九品寺(くほんじ)~~国指定重要文化財の大門を残しながら寂れてしまった寺
次の目的地は九品寺(くほんじ:南丹市園部町船坂大門47-1)。
京都府のサイトで「南丹市の神社・仏閣」というページがあり、九品寺について次のように解説されている。
弘仁元年(810年)に弘法大師の開基と伝えらら、承暦三年(1079年)に白河天皇によって開山されました。戦国時代に衰微しましたが、元和九年(1623)に園部藩主小出吉次の援助によって再興しました。しかし明治の神仏分離は九品寺にも荒廃をもたらし、第二次世界大戦後には仁王門を残すのみとなりました。残った仁王門は鎌倉後期の建築で、重要文化財に指定されています。
上の画像が国指定重要文化財の大門で内部の仁王像は南丹市の指定文化財である。京都府のサイトや、現地の案内板には「仁王門のみが残った」と解説されているのだが、実際には古い本堂の建物などが残されている。
この寺は真言宗御室派で弘仁元年(810年)に空海によって創建されたと伝えられ。その後白河法皇の帰依を得て伽藍の造営が行われ、白河法皇の皇子覚行法親王が入寺したという由緒ある寺なのだが、Wikipediaによるとこの寺の本尊であった木造千手観音立像(国重文)は京都市西京区の正法寺に安置されていて、木造不動明王立像(平安時代後期)、木造十一面観音立像(室町時代)はいずれもニューヨークのメトロポリタン美術館の所蔵とある。
この寺の参道らしき道を進むと小さな山門のようなものがあり、柱に「白河天皇勅願道場」「白河天皇御廟塔所」「覚行法親王御陵所」と書かれている。中を覗くと、普通の住宅のような建物と、かなり傷んだ鐘楼が見える。
さらに進むと石造の観音像があり、さらに奥に行くと、長い石段が続く高台に、かつて本尊等の仏像が安置されていたであろう建物が姿を現わす。「観音堂」と書かれていたが、今も法事などで利用しておられるかどうかはよくわからない。ある程度の掃除などは定期的になされているようだが、すっかり寂れてしまっている。
参道の左には白河天皇第二皇子の覚行法親王の御陵があり、宮内庁が管理している宝篋印塔がある。
「船坂観音霊場」と書かれた石碑もあり、左折したその奥にも何かがあるようなのだが時間が無いのでカットした。ネットで調べると、この寺の境内の建物をくまなく探索された方のレポートが出ている。これを読むと、この奥を進むと多くの観音像が建てられているようだ。
なぜ、由緒があり貴重な文化財を保有していた寺がこんなに寂れてしまったのだろうか。京都府のサイトでは明治初期の「神仏分離」を主な原因であると書いてあるのだが、大正四年に出版された『船井郡誌』では九品寺について「弘仁元年弘法大師の開基にかかり、白河天皇七堂を建立し給えり。のち永正年間兵火にかかり、堂宇灰燼に帰せしが、仏像数基幸に免るるを得たり。今国宝に編入せられたり。」(船井郡教育会 編『船井郡誌』大正4年p.161)と書かれており、神仏分離の後も木造千手観音立像や木造不動明王立像(平安時代後期)、木造十一面観音立像(室町時代)は長らく守られて来たことになる。とすると、貴重な仏像はそれ以後に売却されたということになる。
では何のために売却したのだろうか。寺の改修のために資金が必要であったのだろうか。
境内を散策しながら「白河天皇勅願九品寺 弘法大師八十八か所霊場」と彫られた比較的新しい石碑のほかに立派な観音の石像があることに違和感を覚えたのだが、帰宅後ネットで調べると、「船坂観音霊場」の入り口の石板に「(昭和天皇の回復を祈願して)…九品寺聖域に八十八ヵ所霊場を草設し御皇室と国民の幸せ、並に世界平和祈願の道場とするに至った」と彫られており、「船坂観音霊場」の道沿いに多くの仏像があることがわかった。
住職の志は立派ではあるが、そのための八十八体の仏像の製作費やお堂の建設費用などがどうやって捻出したのだろうか。この住職の決断が寺の財政を圧迫し、さらに寺を寂れさせた原因になってはいないだろうか。
龍穏寺(りゅうおんじ)~~隠れた紅葉名所
拝観と言うよりも探検気分で境内を散策した九品寺から、次の目的地である龍穏寺(南丹市園部町仁江甲溝畑1)に向かう。永正六年(1509年)に創建され、園部藩の家老の菩提寺として栄えた曹洞宗の寺院だが、南丹市の隠れた紅葉名所として知られるようになり、ネットで「龍穏寺 紅葉 園部」をキーワードに画像検索すると、この寺の素晴らしい紅葉の画像が数多くヒットする。
上の画像は山門の近くだが、この付近の紅葉の色づきがもっと広がるのにはもう少しかかりそうだ。
参道の紅葉はわずかに色づき始めたところだが、この参道が赤いカーペットのようになるのは、11月の下旬に入ってからではないだろうか。
摩気(まけ)神社~~丹波佐吉の狛犬
次に向かったのは摩気神社(南丹市園部町竹井宮ノ谷3)。
現地の案内板には、当社の由来についてこう記されている。
摩気神社は「延喜式」神明帳にその名がみえ、船井郡の明神大社と記されている。摩気郷十一ヵ村の総社とされ、本殿は、北を向いて建てられている。永暦三年(1079年)白河天皇が当社に御幸された折、社殿一円修造の上、「船井第一摩気大社」の勅願を賜わったと伝えられる。江戸時代には園部藩主小出氏の累代の祈願所となった。宝暦十一年(1761年)に火災に遭ったが、その六年後には、藩主小出英持によって本殿・摂社等が再建された。
鳥居をくぐると立派な神門があるが、この門は文化五年(1808年)の建築で、京都府の登録文化財である。
神門を抜けると立派な拝殿があり、奥に本殿と東摂社、西摂社がみえる。北向きに建てられているからであろう、拝殿の屋根などが苔むしているのが何とも風情がある。
拝殿の前にある左右の狛犬は、幕末の名石工・丹波佐吉が刻んだものである。電動器具のない時代にどうしてこんなに細かい加工ができたのかと思う。佐吉の最高傑作とされる狛犬は柏原八幡神社にある狛犬で、丹波市指定文化財となっているが、この狛犬については旧ブログでレポートしたので参考にしていただきたい。
上の画像は本殿で、左に東摂社、右に西摂社がある。いずれも明和四年(1767年)に再建されたもので、一間社の社殿としては京都府下においても最大級のものだという。茅葺の覆屋が懸けられているが、覆屋を含めて京都府指定文化財になっている。
神社の裏に出ると一面のススキの原であった。
おなかが空いたので、ネットであらかじめ調べていた「ギャラリーカフェ道の途中」(南丹市園部町口人ヒマキ50番地1)に向かう。築160年の古民家を再生して生まれたお店だが、外見に似合わずモダンな空間があってとても落ち着けて、地元の新鮮な農産物を使ったランチも美味しかった。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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コメント
おはようございます♪
寂れた九品寺(くほんじ)は見るに忍びないです。
隠れた紅葉の名所、龍穏寺(りゅうおんじ)の紅葉は美しいですね。
摩気(まけ)神社
本殿は北向き。苔むした拝殿の屋根は風情を感じますが…‥。
丹波佐吉の狛犬さん、見てみたいです。
いつも観光地、京都の神社仏閣めぐりをしていますが……。
このようなあまり知られていない? ところにも足を運びたいです。
Ounaさん、いつもコメントありがとうございます。とても励みになります。
九品寺は昔一度訪問したことがあるのですが、大門だけが残されていると判断して奥まで進まなかったので行きなおすことにしました。奥の本堂まで結構距離がありました。他の人のブログを見ると本堂の奥にも建物があった様なのですが、大きな寺であったのだと思います。
丹波佐吉の狛犬はとても石で作られたとは思えないほど、滑らかで美しいです。兵庫県の柏原八幡宮の狛犬は必見です。
龍穏寺は、最近の画像がツイッターで投稿されていました。今頃が見頃の様ですね。
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