笠置寺(かさぎでら)は京都府の南東部にある標高二百八十九メートルの笠置山の山上にある寺で、この寺の境内の修行場をめぐるのが面白いと聞いていたので、先日チャレンジして来た。結構楽しかったので、今回は笠置寺の歴史を交えながら修業場のレポートをすることとしたい。
最初に寺へのアクセスについて一言書いておきたいのだが、笠置寺のホームページには「車でお越しの場合、カーナビ設定は『かさぎゴルフ倶楽部』での設定が便利」と書いてある意味が分からず私の車のカーナビの指示通りに山上の駐車場を目指し、笠木山添線から登山口で折れて笠置山に登る道に入ってしまった。この道はかなり細く、カーブが多くて、対向車が来るとすれ違うのに苦労することになるのであまりお勧めできるルートではない。369号線経由にしろ163号線経由にしろ、登山口からの山道は避けて、『かさぎゴルフ倶楽部』を通って、山上駐車場を目指す方が運転が楽である。
上の画像は笠置寺の山門で、門を潜ると左に本坊があり、鐘楼がある。
鐘楼はかなり新しい建物だが、梵鐘はかなり古く「解脱鐘(げだつがね)」と呼ばれていて国の重要文化財に指定されている。下に六ケ所の切り込みがあるのだが、このような鐘はわが国に二つしかないのだそうだ。
底面には銘文が刻まれいて、建久七年(1196年)に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)によって造られたことが記されている。ちなみに重源は源平の合戦で焼け落ちた東大寺の復興に尽力した僧である。
鐘楼の脇に収蔵庫があり、『笠置寺縁起絵巻』や仏像、経塚などを観ることが出来る。その先に鎮守社の春日明神社と椿本護王宮がありその右に修行場めぐりの入り口がある。ここから先は少々危険な場所もあるので、決して革靴やサンダルやヒールなどでは行くべきではない。
上の画像は寺のパンフレットの山内図だが、一周約八百メートルとはいえ結構アップダウンがあり、何度か休憩したとしても、所要時間は一時間も見て置けば十分だと思う。花崗岩の巨石が点在し、登ったり下ったり、巨岩の間を潜ったりしながらたまに視界が開けて雄大な景色を楽しむことが出来る。
最初のポイントは正月堂。天平勝宝四年(752年)に東大寺の実忠和尚によって建立されたお堂を起源とするそうだ。実忠和尚は東大寺の「お水取り」の創始者とされる人物だが、寺のパンフレットによると「東大寺には二月堂・三月堂・四月堂と現存しますが、正月堂は笠置山にあり、関西に「春を告げる」お水取りの発祥とされています」と書かれている。
この正月堂の御本尊が、左にある弥勒摩崖仏で、この摩崖仏は光背の高さだけでも十二.五メートルで、岩の高さは十五メートルもある。仏の姿は、礼拝堂の三度の火災によりわからなくなってしまったのだが、正月堂や収蔵庫に復元された仏の姿を観ることが出来る。またこの弥勒摩崖仏の前に弥生時代の有樋式石剣が発見されたのだという。笠置寺のホームページによると、「笠置山の信仰の歴史は古く、弥生時代には巨石を神と崇拝する『磐座(いわくら)信仰』の聖地となりました。」とあり、仏教伝来よりもかなり前からこの巨石に囲まれた空間が聖地として信仰されていたようである。
また隣の十三重石塔は鎌倉時代末期から室町時代に建立されたもので、国指定重要文化財である。
正月堂の周囲には多くの巨岩があるのだが、うまく撮れなかったので正月同方面から十三重石塔を撮ってみた。左奥の巨岩は笠置石と呼ばれていて笠置の地名の由来となっている。
天智天皇の第一皇子である大友皇子が馬もろとも巨石の上から落ちそうになったのを山の神に救いを求めて難を逃れたのだが、皇子は恩返しの為に後日訪れる目標として笠を置いたとの言い伝えがある。平安時代末期に成立した『今昔物語』巻第十一によると、その後大友皇子はこの場所を訪ねて巨岩に弥勒大摩崖仏を刻もうとしたが力及ばず、「天人これを哀び助けて、忽ちに此の像を刻み彫り奉る」とあり、それ以来この地を笠置寺と呼ぶようになったと書かれているのだが、このような話を知らなくとも、驚くような大きさの巨岩がいくつも並んでいる空間に誰しも圧倒されてしまうだろう。
正月堂を過ぎて千手窟(せんじゅくつ)に向かう。千手窟は「笠置の龍穴(りゅうけつ)」とも呼ばれ、社の奥は洞窟のようになっているという。
笠置寺住職の説明動画によると、東大寺の大仏殿建立の際に用いた木材は、伊賀や信楽あたりから木津川を通って奈良まで運ぶことになっていたのだが、木津川の水量が少ないとせっかくの木材が川底の石にぶつかって折れたり削られたりして台無しになってしまう。そこで水かさを増すために、この場所で東大寺の良弁和尚が千手の秘法による雨乞いを行ったという。
千手窟のすぐ先に虚空蔵磨崖仏がある。さきほどの千手窟の写真にも右の方に写っているのだが、狭い道に足場を組んでこのような巨大な仏像を刻むことは容易ではないことは誰でもわかる。作成年次は奈良時代とも平安時代ともいわれている。
次は胎内くぐりだ。ここが笠置山修行場の入口である。ほとんどの修行場の入口には滝があって、そこで身を清めてから修行場に入るのだが、笠置山には滝がないためにこの岩で囲まれた空間をくぐり抜けることで身を清めるのだそうだ。昔は自然の石が上に乗っかっていたのだが、安政地震で天井岩が落下し、以後は切り石の天井となっている。
上の画像は太鼓石。岩の下をくぐる際に、丸く岩がはがれている部分の右肩を叩くと太鼓のようにポンポンと音がする。
次はゆるぎ石。この石の説明するには笠置山で後醍醐天皇型と鎌倉幕府軍が戦った話を知る必要があるので、少しわが国のその時代の歴史を振り返っておこう。
鎌倉時代後期において、皇位継承をめぐり持明院統と大覚寺統との間で紛議が起こり、文保元年(1317年)に幕府の調停によって持明院統と大覚寺統が交代で皇位を継承することが決定された(文保の和談)。その翌年に持明院統の花園天皇の譲位により大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)が践祚(せんそ)*したのだが、後醍醐天皇は自身の直系の子孫に皇位が継承されることを望み、そのために障害になるであろう幕府の打倒を企てるようになる。*践祚:天皇の御位につくこと
正中元年(1324年)に天皇の倒幕計画が発覚し、側近の日野資朝が流罪に処せられた(正中の変)。その後元徳三年(1331年)にも倒幕計画が発覚し、幕府は天皇の側近を捕縛しただけでなく、天皇を捕えようと御所を包囲した。後醍醐天皇は側近とともに京を脱出し、奈良東大寺を経て鷲峰山金胎寺に移り、その後笠置山に至って、ここで兵を集めたという。兵の数では幕府側が圧倒していたのだが、笠置山は天然の要害ということもあり戦いは約一ケ月に及んでいる。最後は嵐の夜に幕府側が火を放ち、天皇側は総崩れとなって笠置寺は全山焼け落ち、天皇や側近らは捕らえられて六波羅に送られた。この戦いを笠置山の戦いというのだが、現地の案内板などでは元弘の乱と記されていた。元弘の乱は元徳三年(1331年)から元弘三年(1333年)にわたる後醍醐天皇の勢力と幕府との戦いを総称するもので、笠置山の戦いは元弘の乱のいくつかの戦いの中の一つと理解すると良い。
話をゆるぎ石に戻そう。この石は、迫ってくる幕府軍に対する武器としてここに運ばれたが用いられなかったと案内板には書かれていた。人の力で動かせるので「ゆるぎ石」と言われているのだから、簡単に動かせると思って私もチャレンジしてみたのだが全く動かなかった。住職の動画を見ていると力を入れるポイントがあるようで、それを外さなければ、容易に石が動くようだ。
このあたりの景観は素晴らしいものがあるが、秋から冬にかけての朝に木津川の川霧がかかって、一面雲海になることがあるという。住職の動画の最後に雲海の写真が出ているが、今度来るときは是非雲海を観たいものである。
次は平等石。危険なので今は石の中の割れ目を塞がれてしまっているが、昔は割れ目のトンネルを通り、岩の周りを周回して修業したのだそうだ。ここもゆるぎ石と同様の絶景を楽しむことが出来る場所である。
二の丸跡を過ぎて貝吹岩(かいふきいわ)に到着。笠置山の戦いで味方に合図を送ったり味方を鼓舞するために、ここで法螺貝が吹かれたと伝えられている。
貝吹岩からは山から西側の眺望が楽しめるのだが、真ん中に流れる川は木津川で晴天時には遠くに生駒山が見えるのだそうだ。ここから夕陽を楽しんだり、季節と天候条件にもよるが雲海も楽しめるスポットである。
貝吹岩のすぐ近くに後醍醐天皇の行在所跡がある。
階段を上ると行在所のあった部分が石で囲まれていて入れないようになっていた。すぐ横に後醍醐天皇が笠置寺で詠まれた和歌を刻んだ石碑があった。
「うかりける 身を秋風に さそわれて 思わぬ山の もみじをぞ見る」
幕府軍に捕らえられた後醍醐天皇は三種の神器を持明院統の光厳天皇に譲渡した後、元弘二年(1332年)に隠岐島に流されるのだが、翌年には隠岐島を脱出し、幕府から離反した足利尊氏が六波羅探題を攻撃し、新田義貞が鎌倉を攻撃して幕府を滅亡させている。光厳天皇は廃位されて、後醍醐天皇による建武の新政が開始されるという流れだ。
笠置寺のホームページによると、寺は「以後、室町時代に少々の復興をみたが、江戸中期より荒廃。ついに明治初期に無住の寺となった。明治9年、丈英和尚狐狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興に尽くすこと20年、ようやく今日の山容となったのである。」と書かれている。しかしながら、『都名所図会』巻五に笠置寺の事が書かれていて、境内図も描かれている。寺は荒れてはいたが、摩崖仏や笠置山頂の絶景を訪ねる観光客はそれなりにいたということなのだろう。
後醍醐天皇が笠置寺で過ごされたのは西暦でいうと1331年9月29日から10月30日なので、紅葉の盛りを観られたわけではないだろう。昔からこの寺の紅葉が有名であったかどうかはわからないが、後醍醐天皇が笠置寺で詠まれた歌が、昭和時代になってこの寺のもみじを有名にしたことは確かである。寺のパンフレットによると、元弘の乱から六百年を記念して、宝蔵坊の跡地に約八十本のもみじが植樹されたというのだが、元弘の乱から六百年というと昭和6年頃に植樹されたのだろうか。今は「もみじ公園」と呼ばれて、笠置町の紅葉の名所として多くの観光客が訪れるそうだ。ネットでは素晴らしい紅葉の写真を観ることが出来るが、寺のホームページにも美しい紅葉の写真が出ているので確認していただければと思う。
もみじ公園を過ぎると大師堂があり、石仏弘法大師(室町期)が奉安されている。天平勝宝四年(752年)に東大寺の実忠和尚によって建立された正月堂はこの場所にあったのだが、笠置山の戦いで焼失した以降復興されず、明治三十年(1897年)に関西鉄道(現JR関西線)が開通した際、現笠置駅にあった大師堂をここに移築したという。
大師堂を過ぎると元の修行場めぐりの入口に戻るのだが、とにかく楽しかった。歴史の好きな人はなおさらだが、歴史好きでない人も、巨石や摩崖仏や山頂付近の絶景のほかスリリングな場所もいくつかあって結構楽しめるのではないかと思う。私も自分の体力や運動能力維持のためにこれからも時々この寺を訪れることとしたい。
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