幕末に大量の隠れキリシタンが長崎で出現した経緯と幕府の対応

キリスト教問題

浦上崩れ一番~三番

 江戸幕府はキリスト教禁止を国策とし、五人組や宗門改制度や檀家制度を整備して、武士・町民・農民の身分を問わず信仰する宗教を調査し、さらに誰もがどこかの寺の檀家となることを義務付けられてから二百年以上の年数が経過しており、ほとんどの地域でキリスト教徒はいなくなったものと考えられていた。しかしながら一部の地域では、キリスト教の信徒組織が残されていて、何世代にもわたり密かに信仰が行われていたのだが、そのことが幕末に明るみに出て大問題となっている。

 かつては幕府の直轄領であった、肥前国彼杵郡浦上村において、過去四度にわたりキリシタンが摘発されたことがあり、総称して「浦上崩れ」と呼ばれているのだが、寛政二年(1790年)の浦上一番崩れ、天保十三年の浦上二番崩れは、いずれも何人かが調べられたものの誰もがキリシタンであることを認めず、証拠不十分のまま釈放されている。しかし安政三年(1856年)の浦上三番崩れでは、元信徒による密告があったことから、大規模な取り調べが行われたという。

 山本秀煌 著『近世日本基督教史』によると、次のように記されている。

 嫌疑者として捕縛せられしもの八十名の多数に達し、そのうち五十名は直ちに放免せられしも、残余の三十人は監獄に投ぜられ、ついで検挙されし数名の嫌疑者と共に、厳重なる審問を受け、拷問の呵責に堪えずして、多くは牢死したり。この検挙は背信者の密告により起こりしものなるが故に、政府も彼らを目明として切支丹の内情を探ることを得、古製の仏具・書籍・経文等の屋根裏または土中に匿蔵しありし物を発見し、数多の証拠物件を挙げたりしが、故意かはたまた無意識か、その心情は知り難きも、幕府の役人はこれをキリシタン衆とみなさず、一種の異教徒として取扱いたるが如く、時の長崎奉行はこれらの異徒の財産を没収し、追放の刑に処せんとせしも、幕府これを許さず、万延元年に至り、遂にみな自宅療養の恩典に接し放免せられたりき

(山本秀煌 著『近世日本基督教史』洛陽堂 大正11年刊 p.569~570)

 Wikipediaには浦上三番崩れのこの取調べで吉蔵以下幹部のほとんどが獄死もしくは殺害されたとあるが、一般の信徒に対しては深くは追及されず、「長崎奉行はこの件を、「村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかった」ことによって生じた「異宗事件」として処理を行い、事件を矮小化し、キリシタンの存在を公式には認めなかった」と書かれている。もし公式に認めてしまうと、今までの取締りが甘かったことを認めてしまうことになり、長崎奉行にとっては都合が悪かったのかもしれない。

浦上三番崩れ - Wikipedia

 しかしながら、慶応三年(1867年)に起きた浦上四番崩れでは、大量の信徒が捕縛され拷問を受けたのだが、それからまもなく江戸幕府が瓦解し、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民が流罪となっている。ところが、この処分を諸外国は許さなかったのである。この浦上四番崩れがどういう経緯で起こったかについて振り返っておこう。

隠れキリシタンの発見

 江戸幕府は、安政五年(1858年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアと修好通商条約を締結し、神奈川・長崎・神戸など五港の開港と外国人の居留を認め、居留地内における外国人の信仰の自由を認めている。
 そこで、外国人宣教師が我が国に渡来するようになったのだが、なかでもフランス人宣教師はなんとかして日本で伝道の緒を得ようと、沖縄で日本語を習得したのち文久三年(1863年)に長崎に入り、天主堂の建設に取り掛かった。慶応元年(1865年)の二月に天主堂(現在の大浦天主堂、正式名は日本二十六聖殉教者聖堂)が完成し、それからほぼ一か月たった三月十七日(陰暦二月十二日)のことである。

ベルナルド・ポチヂャン (『切支丹の復活 前編』p.375)

 山本秀煌 著『近世日本基督教史』に、この宣教師ベルナルド・ポチヂャンが司教ジラルにこの日の出来事を書き送った書翰の大意が記されているので引用させていただくことにする。

 …本日正午十二時頃の事なりき。聖堂見物に来りし十四五名連れの男女あり。彼らは通常の見物人と事変り何か様子ありげに見えたれば、余は直ぐに聖堂の門戸を開き彼らを奥へ伴い、高台の下に進み市に彼らは後より従い来りぬ。余は聖堂の落成以来毎日このところにおいて祈祷をなし来たりしが、今日は彼らのために特別天主の御恵みを祈り、暫時跪(ひざまず)いて後立ちあがりし折り、四十有余歳と見ゆる一婦人、余の傍らに来り。胸に手を当て我らは尊師と同じ心なりと言いしかば、余は驚き怪しみ御身らは何地のひとなるやと尋ねしに、彼らは答えて、我々は長崎の町外なる浦上村の者なるが、我らの住む村には尊師と同じ心のもの多くありて、平生サンタ・マリア様を頼み奉りぬ。サンタ・マリア様の聖像は何所にあるやと。余はこれを聞きて再び驚きかつ喜び、さては昔時の信者の子孫なるか天主の恩み有難しと、深く心に謝し奉り、やがてマリアの聖像の飾りある高台の下へ彼らを導きぬ。この聖像は司教閣下が仏国より携え来たりしものなり。かくて彼らは聖像の下へ来るや、すぐに跪きて祈念しつつありし様子なりしが、喜びにたえずやありけん。突然声をあげていかにもサンタマリア様なり。見よ見よ手に耶蘇を抱き給うぞと、互いに叫び合いぬ。… 

(山本秀煌 著『近世日本基督教史』洛陽堂 大正11年刊 p.588~589)

 この日は別の日本人見学者が来たために、宣教師は彼らから詳しく話を聞くことは出来なかったが、その後夜陰を利用して秘かに何度か彼らと会見する機会を持ち、長崎の隠れキリシタンの全貌が次第に明らかになっていく。
 宣教師の報告によると、信者の数は二万とも五万とも言い、浦上村だけではなく長崎湾口の島々より外海・平戸・五島・天草の一部及び久留米付近の今村地方、生月島に信者がいるとのことである。彼らは再び自由に信仰ができる日が来ることを信じていた。というのは、寛永時代の先祖から「七代の後に至らば黒船来りて汝らを救わん。その時汝らは公然キリシタンの唄を唱え得べし」という予言があるとのことであった。

創建当時の大浦天主堂

 その後、浦上村だけではなく、この話を聞いた隠れキリシタンの人々が遠方から舟をこいで夜間にやって来るようになり、宣教師もまた彼らの住む島などに、人目を避けながら行くことが増えるようになっていったという。

浦上の隠れキリシタンの大量捕縛

 このような動きがあることはいつしか長崎奉行の知るところとなったのだが、当時の幕府は国内外ともに多くの問題を抱えており、外交問題に発展するような事態はなんとしてでも避けなければならず、しばらくは大目に見ていたという。しかしながら、ある村人の葬儀の時に問題が爆発してしまう。
姉崎正治 著『切支丹禁制の終末』にはこう解説されている。

 信徒が、アニマ(霊魂)の救いのために最も気にかけていたのは、たとえやり直しをするにしても、一度は仏僧の引導で葬式をしてきたということであるが、宣教師は勿論それを禁じた。そこで慶応三年三月に、三八という者の母が死に、それを旦那寺に告げずに自分だけで埋葬したので、庄屋が事件を取り調べた。信者たちは大胆に信仰を主張し、今後とも仏僧の引導を受けないと言い張る。庄屋はこれを代官に報告せざるを得ず、代官高木作右衛門は信徒を呼び出して訓解してみたが何の効もない。そこでことは奉行所の処分に移らざるを得なくなった

(姉崎正治 著『切支丹禁制の終末』同文館 大正15年刊 p.21~22)

 信徒たちが宣教師と出会ってからすでに二年が経過し、彼らは奉行所の言うことよりも、宣教師の指導を重んじるようになっていた。慶応三年(1867年)三月に三八の母の死亡のあと、たまたま信徒の葬儀が三月から六月の間に七件も相次いだにもかかわらず、いずれも寺の僧侶が呼ばれなかったことから、禁教令を破っていることが誰の目にも明らかとなる。それまでは外交問題となることを憚って手を下さなかったのだが、さすがの長崎奉行も看過することができなくなった。

 まず浦上の信徒調査を実施し、七百名以上いることがわかり、まずその主だったものと、無断で葬式をした者を捕まえることとなった。七月十四日(旧暦六月十三日)の深夜に幕吏が急襲をかけ、高木仙右衛門ら信徒六十八人を一斉に捕縛している。

外交問題化したキリスト教信徒の大量捕縛

 しかしこの措置に長崎在留の外国人は、人道に外れる行いであると激高した。宣教師等の愁訴があり、十五日にはフランス、十六日にはポルトガルからの抗議があった。『切支丹禁制の終末』にはこう解説されている。

 奉行は、現在の国法を行わないようでは、社会の綱紀がゆるみ、そのために外国関係もかえって乱階を生ずるという答えをした。しかし岡士(コンシュル)らは公使へ報告せざるを得ないことを指摘し、いやしくも国交を結びながら、その交際国の宗門を邪教とするのは不穏当で、軍艦でも差し向けることにならないとも限らず、その前に早く処分をすました方が良かろうと勧告を続けた。当時長崎に来ていた米国公使も抗議を出したというが、日本側の記録にはない。それに対して奉行はなかなか強硬意見で、国内のことは外国の干渉を受くべからずとの考え。したがって教徒に対しては厳刑すべしとの見込みを、報告と言うよりも老中に要求し、暗に公使の談判には応ずべからずとの意見を出している。「この上、軍艦公使等、この地に渡来致し、差し詰め談判これあり、いかように難題申しかけ候とも、一切取り合い申さざるつもり御座候」とまで力んでいる。しかしそれも空で、問題は外交と、いな開国の機運と切り離すことは出来なくなったのである。

(同上書 p.35)
徳川慶喜

 宣教師らの強い要請を受け、フランス公使ロッシュはこの件で将軍・徳川慶喜と面会している。渋沢栄一の『徳川慶喜公伝. 四』にはこう記録されている。

 この結果、囚人は説諭を加えたる上にて放還し、ロッシュは長崎の副領事レック、宣教師の主張ペッティジョンに訓令して、爾来仏人が日本人を誘い、国法を犯さしむる行為をなすことを禁止せり。然るに(慶喜)公は再考し給わく「囚人を赦免するは已むを得ざる事ながら、さりとて彼らは全く国家の在任にあらずとはいいがたし。今そのまま放免せば、将来国法違反の者に対して威信立ち難かるべく、かつまたこれが為に人心の沸騰を来し、如何なる大事を惹き起こさんも知るべからず」とて、さらに板倉伊賀守に命じロッシュと交渉せしむ。伊賀守は八月五日下坂し、ロッシュと会見してその同意を求め、かつ公の直書を仏国皇帝へ遣さるべき由を伝えたるに、ロッシュは欧州諸国に於いては信仰の自由を許せること、またかかる事の欧州へ聞こえなば、必ず非難の起こるべきことを告げたり。伊賀守反復国情を陳弁し、六十余人の教徒を村預けに処せんと言えるに、ロッシュも遂にこれを諒し、爾後の取り締まりを厳にし、隣村との往来を禁じ、宣教師もまた人民との交を絶たば後害なからん。しからば仏国政府は条約に従い、宣教師の決して貴国人民と交際せざるよう厳命すべし。畢竟浦上一村を大なる牢舎と見做さば可ならん」と提議せしかば、伊賀守は帰京復命せり。

(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝. 四』竜門社 大正7年刊 p.40~41)
フランス公使・ロッシュ

 この時もしロッシュが強行に幕府に抗議し教徒の解放を強く迫って、もし幕府がそれを呑んでいたとしたら、国民に対する幕府の威信は地に落ちるであろうし、逆に幕府が総てを拒絶していたら、外交上不測の事態が起きてもおかしくなかった。双方にとって不満の残る決着であったが、問題を一旦収めるためにはやむを得ないと双方が了解した苦肉の策であったのだ。

決着しないまま新政府に持ち越された浦上のキリシタン問題の処理

 しかしながら長崎奉行は、せめて棄教させてから出獄を認めようと考え、仏僧に説諭させるなどいろいろ試みたが失敗し、最後は改心証文を書かせて出獄させ、その後巡視を続けることとした。ところが、改心書を提出した教徒らはその後改心を覆して元の信仰に戻り、いずれフランスが庇護してくれることを信じて公然と村民を煽動する者が現れたのである。
 また、今後教徒の家族の葬儀の時に仏僧を呼ばないことが罪になるかどうかについては依然決着していなかったのだが、幕府は何も決めないまま瓦解してしまい、浦上のキリシタンの諸問題をどう決着させるかは、そのまま新政府に持ち越されることとなるのである。

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