神戸事件責任者処刑の六日後に起きた、土佐藩兵によるフランス兵殺傷事件~~堺事件

明治初年の外国人殺傷事件

土佐藩が堺の統治を行っていたのはなぜか

 前回の「歴史ノート」で神戸事件の事を書いたが、滝善三郎が兵庫の永福寺で壮烈な割腹を遂げた日からわずか六日後に、今度は和泉国の堺で土佐藩兵とフランス人とのトラブルが発生し、十一名の若いフランス人が銃殺あるいは海に落ちて溺死する事件(堺事件)が起きている。

 そもそも、なぜ堺に多数の土佐藩兵がいたのかと誰でも思う。この点については堺が明治維新前は幕府の直轄地であり、大坂町奉行の支配下にあったことを知る必要がある。

 『摘要堺市史』の解説がわかりやすい。

 幕府直轄地としての堺は、大政奉還に先立って慶応三年八月に奉行所が廃止され、一旦大坂奉行所の所管となった。その中に同年十月幕府は政権を朝廷に返上して、ここに明治維新の聖代を迎えたが、しかしこの変革に際し、堺もその余波を受け、駐在の幕吏は逃亡し、伏見、鳥羽の敗兵市内に潜入する者多く、一時は無警察状態となった。この人心兢々の際に起こった北郷の出火は、二町四方ほどの延焼で沈下したが、風説は風説を生んで放火の説高く市民は極度に狼狽した。しかし、薩摩兵士の警戒によって、人心漸く安定し、続いて土佐藩兵後退して民政を兼知した

(堺市 編『摘要堺市史』昭和六年刊 p.117~118)

 慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、一月七日に大坂城開城で大坂町奉行が事実上崩壊し、大坂、兵庫、堺といった幕府直轄地の幕吏は職を棄てて逃げたために一時無政府状態となり、治安を回復させるために朝廷は、大坂を薩摩藩に、兵庫を長州藩に、堺を土佐藩に取締らせることにしたのである。

 土佐藩は慶応四年一月に箕浦猪之吉率いる六番隊を送り込み、二月八日に西村佐平治率いる八番隊を送り、糸屋町の与力屋敷、同心屋敷に陣所を置いて藩兵が日夜市中を警備するようになり、さらに民政も任されたので櫛屋町の元総会所に軍監府をおいて、堺の秩序は次第に回復していったという。

事件の発端

嘉永改正堺大絵図(嘉永4年,1851年制作) 大和川にかかる橋が大和橋で堺の入り口

 二月十五日のことである。摂津の天保山沖に停泊したフランスの軍艦から下船したフランス人が堺に向かうとの情報が入った。軍監の杉紀平太は、条約によって外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止されており、例外的に学問研究や療養目的の場合に認められることがあってもその場合は内地旅行の免状が必要であると認識していて、もし堺の入り口である大和橋を渡ろうとするフランス人がいたら、内地旅行の免状がなければ堺に入れない方針で、土佐藩兵二隊を大和橋に派遣し警戒を命じている。案の定フランス人二名(神戸の副領事ヴィヨー、軍艦ヴェヌス号のロア司令官)が宇和島藩の役人や通訳と共に橋を渡ろうとしたのだが、免状を持っていなかったので追い返している。

 しかしながらその日の夕方になって、小舟二艘に乗って堺に到着していた二十二人のフランス水兵の何人かが上陸したことで大騒ぎとなった。

 彼らが上陸したのち、堺でどのような行動をしたかについては諸説があり、明治二十六年刊の佐々木甲象著『泉州堺烈挙始末』には「市中を横行し社寺に立ち込み霊前を汚し、宝器をつまみ出し、人家に押し入りて物品を略奪し、婦女をとらえて姦せんとする(p.7)」などと書かれているが、ここまでの事があったかどうかは当時の記録では確認できない。

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 森鴎外の小説『堺事件』は『泉州堺烈挙始末』を参考にしており、フランス水兵の乱暴狼藉があったとしている。(p.11)

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堺事件,ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868) Wikipediaより

 事件の起きた翌日に土佐藩兵の隊長の箕浦猪之吉、西村佐平次が連名で作成した新政府への届出書が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 〔第69冊〕』p.27~28に全文が引用されている。それによると、フランス水兵は上陸後「猥りに婦女子らを驚怖せしめ、或いは社閣を曼りに穢し候段、一々言語に絶し候」との住民の苦情を受けて土佐藩兵が出動し、彼らに帰艦するように伝えたが言葉が通じず、捕まえようとすると、水兵は土佐藩の隊旗を奪って逃亡しようとしたため、土佐藩兵側は咄嗟に発砲。港に向かうと十人以上が小型船に乗り移り船を出そうとしており、逃がすわけにはいかぬと銃撃したことが記されている。

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 銃撃した土佐藩兵の中には、銃声を聞いて現場に駆け付けて発砲した者もいたようだ。『堺市史. 第3巻 本編第三』に、こんな記述がある。

 横田辰五郎の手記によると、仏兵の上陸と菊谷、隊伍も整えず大慌てに湊へ駆けつけたらしく、遅ればせの者は途中で発砲を聞いて、何事ともしらずに狙撃し、海中に浮きつ沈みつしているもの迄にも銃を向けたと記している。

(堺市 編『堺市史. 第3巻 本編第三』昭和五年刊 p.774~775)

 日本側の記録では、フランス人が乱暴狼藉したとする記録が多いのだが、なぜフランス兵が堺に来たかという重要な点について触れていないものが多い。イギリス外交官A.B.ミットフォードは著書にこう記している。

A.B.ミットフォード

 3月8日(慶応四年二月十五日)にフランスの軍艦ヴェニュースとデュプレックスの二隻が、大坂湾で水深の測量作業をしていたが、艦長のデュ・プチ・トゥアールは作業を続行するつもりで、堺の港へ汽艇(ランチ)を小さなボートと一緒に向かわせたのである。その港は外国貿易のために暫定的に開かれた小さな港で、そこの当局者は、これらのボートが携わっている作業の事を知らされているはずであった。

 午後五時頃、ランチの乗組員二人が上陸の許可を願い出たが、その頃までは陸地の人々も友好的な態度を示していたし、今までにも外国人が上陸したことがあったのである。彼らがランチからほんの数歩出た所で、一人の武士が埠頭の反対側に行くように手まねで合図した。そこで彼らはおよそ二十ほどの武装した兵士に囲まれ、その兵士たちは彼らを捕えて縛り上げようとした。二人のうち一人は振り切って逃げ、もう一人は海の中に飛び込んだ。すると兵士たちはランチに銃撃を浴びせて、乗組員全部が死んだと思われるまで撃ちまくったのである。ランチの乗組員はピストルしか持っていなかったが、それも事故を恐れて戸棚にしまい込まれていたのだった。ボートに乗っていた水兵は武器を持たず、ボートの士官は銃声を聞くや否や、ランチの救援に急いだが、小銃の猛火を浴びて、水兵の一人が負傷した。ランチの全員が殺されたと思って、彼は母船に舵を向けて漕ぎ戻り、すぐに事件を報告した。殺戮はすさまじいものだった。撃たれなかった者も、鉄の鉤のついた棒で撃ち殺されたのである。

(A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』講談社学術文庫 p.143~144)

 ミットフォードの記録はプロシアの代理公使の記録を参考にして書かれたものだが、ここにはフランス水兵が迷惑行為を働いたという記録はない。また、ミットフォードは堺について「今までにも外国人が上陸したことがあった」と書いているが、3月11日(二月十八日)付でフランス公使ロッシュが外務大臣に宛てた報告では「堺は大坂から約12km離れた海岸のかなり大きな町で、大坂のように出入りの困難はありません。この港町の出入りと遊歩の自由は、最近日本政府と締結された協約によって約定されています」と書いている。もしロッシュの主張が正しければ、軍監の杉紀平太が、内地旅行の免状のない外国人を堺に入れるなという命令そのものが誤りであったことになる。

 大和橋の通行を許可されなかったヴィヨー副領事、ロア司令官はやむなく大坂方面に引き返したが、彼らは堺を見学後堺港から船で神戸に戻る予定であった。堺の港には午後三時に二人を神戸に送るべく汽艇(ランチ)を待機させていたのだが、いつまで待っても二人が現れない。何人かの水兵を上陸させて近隣を探させていたのだが、あいにく土佐藩兵に捕まりそうになり、逃げて汽艇にもどろうとする水兵に土佐藩兵が咄嗟に発砲し、11名のフランスの若者の命を奪ってしまったということになる。

 土佐藩はフランス水兵の挑発があったと主張し、フランス側は挑発もしていないのに水兵は一方的に射殺されたと主張したのだが、この事件について土佐藩の山内容堂が、十九日(3月12日)に土佐藩邸にいたミットフォードに対し、フランス公使に伝えてほしいと伝えた言葉を知ると、どちらの主張が真実に近いかが見えてくる。

山内容堂(Wikipediaより)

 正確な情報をまだ得ておりませんが、私(山内容堂)の知る限りにおいては、堺の事件は罪を犯したものであり、正当化の余地はないと考えられます。今回の事件は、私の全く与り知らぬことでした。私の唯一つの願いは、外国人と友好的な関係を結びたいということだったのです。私の部下が起こした暴力行為に対して私は深く恥じ入っております。天皇が我が国を開化しようとする御方針を、私の部下が妨げたことを思うと、私の心が痛みます。私は日本全体ではなく、土佐藩だけが、この事件の責任を問われることを願うものです。…

(『英国外交官の見た幕末維新』p.151~152)

 この事件に関しては諸外国も激怒し、新政府の重大な外交問題となったことは言うまでもない。

フランス公使の要求

ロッシュ公使

 十六日に死体の引き渡しが行われると、十九日にフランス公使ロッシュは各国公使と協議の末、新政府に対して厳重な抗議を申し込んできた。それは五か条からなるものであるがかなり重たいものであった。

 第一ヶ条

 堺において、土佐の人、兵隊指揮せし士官両人、並び仏人を殺害せし者残らず

 この書面京師へ届きしのち三日の内、暴行に及びし場所において、日本の官員ならびに仏国海軍兵隊の眼前において、首を打斬候こと

 第二ヶ条

 殺害に逢いし士官ならびに水夫の家族など婦女の為として、十五万ドルを土佐侯より差し出し、これを仏国政府へ相納むべきこと。

 第三ヶ条

 親王の内、朝廷の外国事務第一等の執政たる人、仏国兵隊の指揮官へ、その政府より詫辞を申入れるためウェヌス船中に来り申すべきこと。

 第四ヶ条

 土佐侯自分ウェヌス船中に来たり、堺表において、自国人、仏人に対し暴行に及びしこと、如何にも気の毒に存じ候。就いては宜しく寛恕せられたく候との趣を、自分申し述べられ候こと

 尤も之がため、土佐の城下近辺に右船を相廻べく候こと。

 第五ヶ条

 以来土佐の者、兵器を帯び、外国人の為開きたる港を通行し、または爰に滞留することを厳しく禁ずること

(『近世日本国民史. 〔第69冊〕』p.39~40)

 そして、同日にイギリス公使パークスも、フランス公使の申立て書を承認せよとの勧告書を提出したほか、アメリカ弁理公使ハルケンベルグ、プロシア代理公使フォン・ブラントよりも同様の勧告書が届き、二月二十日にはイタリア公使からも勧告書が送られている。

 事件当時京都の土佐藩邸にいたミットフォードは、パークスからこの事件を手紙で知らされ、そこには「フランス公使の要求が受諾されないと、すぐに交戦状態になるかもしれない」(『英国外交官の見た幕末維新』p.150)と書かれていたという。フランスは、新政府との戦争になることも辞さない姿勢であったのである。

 当時、各国の軍艦は神戸事件の絡みで和泉国・摂津国の間にあり、明治新政府の主力軍は戊辰戦争のために関東にあった。もし戦端が開かれれば、新政府の敗北は火を見るより明らかであった。

 新政府は、外国相手には戦えないので、基本的にフランス公使の要求を呑むしかなかった。しかしながら隊士全員の処刑という要求だけは人数が多すぎるのでなんとか絞ろうと努力した

土佐藩の苦悩

 このような経緯により、二十名の土佐藩兵の死罪が決定した。しかしながら、誰を死罪にするかを決めることは容易なことではなかった。いかなる軍隊も兵卒は隊長の命によって動くものであり、兵卒にまで死罪を申し付けてしまっては、以後は上官の命令を徹底させることは難しくなってしまうのだが、今回は兵卒も切腹させるしかない。では、土佐藩はどうやってその二十名を選んだのであろうか。

寺石正路 著『維新土佐歴史』には、こう解説されている。

 容堂老公は非常に心痛し、家老深尾鼎・監察古南五郎衛門を名代として、大阪長堀の邸に使わして事の由を宣告した。深尾は一同に対して容堂公の言を述べて退いた。

 この時自ら名乗り出て罪に服さんとしているものは両隊長始め兵卒ら二十九名である。小南は仏国の要求に従い二十名を決定せんことを衆に計った。遂に稲荷宮の社内に於いて抽選することとなった両隊長および両小頭の四名は既に死刑と決定しているから抽選の事はない。他の二十五名は各籤をひいた。黒籤を取り当てて死刑と定まったは十六名である。

 小南は一同に申し聞かせて言うに「各国人の面前にて自裁することゆえ、諸士は日本魂の精華を発揮せよ。後事は程よく取計らん」と小頭以下はいずれも身分賤しき足軽であったが、今回特別の詮議をもって士分の格式を仰せつけられる事となった。足軽にとっては一期の光栄である。

(寺石正路 著『維新土佐歴史』富士越書店 大正6年刊 p.192)
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 小南が藩士たちに容堂公の言葉を伝えたとあるが、容堂公の御沙汰書が前掲の『近世日本国民史. 〔第69冊〕』p.67に出ている。「皇国の御為と存じ込み」「皇国の士気各国に相顕し候様、覚悟あるべく候」とあり、徳富蘇峰は「如何にも彼らの死を、国家のために、余儀なく犠牲とするものとの深き洞察と、大なる同情とが、文字の中に隠躍している。これではたとい死すべき理由は無しとしても、死もまた悔ゆるものなはと諦らむべき理由が、新たに発見せらるる心地を、彼等十六人に与えたものと察せられる」と評価している。

土佐藩兵の切腹

妙国寺

 土佐藩士二十名の切腹は二月二十三日に妙国寺(堺市堺区材木町東)で行われ、フランスからはデュ・プチ・トゥアール艦長と約二十人のフランス水兵が立ち会うこととなった。この様子をA.B.ミットフォードは艦長から直接聞いて前掲書にこう記している。

 最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地を汚した忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで――これは殺されたフランス人の数であったが――フランス人たちは耐えきれなくなってデュ・プチ・トゥアール艦長が残り九名を助命するように頼んだ。彼は、この場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。

(『英国外交官の見た幕末維新』 p.153~154)

 あまりの凄惨さに、立ち会っていたデュ・プチ・トゥアール艦長が残り九人の処刑の中止を要請し、その後二十四日に山階宮晃親王が、二十五日には藩主山内豊範がフランス公使に謝罪し、後に賠償金も支払われてこの事件は一件落着となった。

 残された九人は土佐に流刑となったが、明治天皇が十一月に即位された時に恩赦で無罪放免となったという。

 妙国寺の割腹した土佐十一烈士の遺品があり境内には石碑が建てられているが、遺骸は妙国寺の北向いにある宝殊院に葬られている。

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