土佐藩が大政奉還建白書を幕府に提出するまで
慶応三年八月二十日(1867/09/17)に土佐藩は、将軍徳川慶喜に大政奉還を建白することを決定し、後藤象二郎は九月一日(9/28)に土佐の浦戸を出発して四日(10/01)に京都に到着している。しかしながら当時の京都の形勢は、土佐藩の大政奉還の提案に薩摩藩が同調して薩土盟約を結んだ六月の状況とは著しく変化し、岩倉具視及び薩摩・長州両藩による討幕計画が着々と進展していたのである。
九月六日(10/03)には薩摩藩が王政復古遂行のために派遣した一大隊の兵が大坂に到着し、のちに勅許を得て京都に向かわせている。一方、幕府は京都の警戒を厳重にし、反幕派の動きを抑えようとしていた。
こんな情勢下で、西郷隆盛らは後藤の話に耳を貸さなかったという。『維新史. 第4巻』にはこう解説されている。
象二郎が上京後、薩州藩士小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)と会見したる際、吉之助は象二郎に向かって、かねて貴藩の大政奉還建白の議に同意したるも、その後における京師の形勢は大いに変化し、所詮建白等を以て時局を打開すべき時にあらず、さればこれに関する貴藩との盟約を廃し、弊藩にあっては来る二十日までに挙兵討幕を実行するに決したりと告げ、象二郎の弁論もその効を奏しなかったのである。
(『維新史. 第4巻』維新史料編纂事務局 昭和16年 p.730)
後藤は西郷に挙兵の時期を延ばすことを求めたが拒否され、その後土佐藩単独で建白書を提出しようとも考えたが、やはり薩摩藩の了解を取っておこうとした。しかしながら西郷らの抵抗を受けたために話が進まず、後藤が小松帯刀を説得して薩摩藩から建白書提出についての了解を得たのは十月二日(10/28)のことであった。
一方後藤は、幕府の若年寄格永井尚志に対する根回しを済ませており、薩摩藩の了解を得た翌日の十月三日(10/29)に老中板倉勝静を訪ねて土佐藩の建白書を提出している。
慶喜は徳川家を相続した頃から大政奉還を考えていた
徳川慶喜が自らの経験を渋沢栄一らに語った記録『昔夢会(せきむかい)筆記』に、大政奉還についての慶喜の感想が述べられている箇所がある。そこには慶喜には、徳川家を相続した頃から幕府の政権を奉還することを考えがあったと書かれている。
予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃(相続した頃)よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。
土州の後藤象二郎、福岡藤次等が松平容堂(山内豊重)の書を持ち来りて政権奉還を勧めし時、予はこれかねての志を遂ぐべき好機会なりと考えければ、板倉・永井等を召してその旨を告げしに、二人も「今は余儀なき次第なり。然か思し召さるる上は決行せらるる方よろしからん」と申す。予また「本来いえば、祖宗三百年に近き政権を奉還することになれば、譜代大名以下旗本をも召して衆議を尽くすべきなれども、さありてはいたずらに紛擾を招くのみにて、議の一決せんことを望むべからざれば、むしろまず事を決して、しかる後知らしむるに如かざるべし」といいしに、三人またこれに同じたれば、後藤・福岡はもちろん、薩州の小松帯刀をはじめ、諸藩の重役を召してこの由申し聞けたるに、後藤・小松等は「未曽有の御英断、真に感服に耐えず」といえり。
(渋沢栄一編『昔夢会筆記』東洋文庫 p.17)
大政奉還上表文提出と慶喜の描いていた政治体制
このように後藤の提出した建白書はすぐに慶喜の賛同を得ることができ、十月十四日(11/09)に慶喜は朝廷に上表文を提出している。その原文と読み下し、および現代語訳が『小さな資料室』というサイトに公開されているが、この文章を読むと、慶喜は単純に政権を投げ出したのではないことが明らかである。
最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。
大政奉還上表文 現代語訳(『小さな資料室』より)
このように、慶喜の『大政奉還上表文』には、半年後に新政府が公布した『五箇条の御誓文』に近い内容が書かれており、政権を返還して新しい政治体制が誕生した後も、慶喜自身が引き続き政務を担う意思を持っていたことがわかるのである。
鈴木荘一氏の『開国の真実』によると、慶喜は土佐藩の建白を受ける前から、大政奉還とその後の政治体制について検討していたという。
大政奉還一ヶ月前の慶応三年(1867年)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である。
イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えたのである。
(『開国の真実』p.308-309)
イギリスの外交官アーネスト・サトウは、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐することを予想していたのだが、徳川慶喜は、徳川家が政権を返上して一大名となり、大名の合議制で平和的に政治体制を変革し、そのリーダーとなることを選択したのである。
歴史にifは禁物ではあるが、もし、慶喜が大政奉還ではなく討幕勢力を征伐することを選択していたとしたらどうなっていたであろうか。
恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まった可能性が高かったと思うのだが、本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。
第二次長州征伐で多くの幕兵を失った徳川慶喜は、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたとも言えるのではないか。
慶喜は大政奉還後も主導権を取れると考えていた
しかしながら、慶喜が大政奉還後も「政治上の指導者」であり続けるためには、公議政体に移行した後も政権を掌握できなければならない。その点について、慶喜はそれが可能であると考えていたことは外国公使に宛てた政権奉還弁明書を読めばわかる。この全文は徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第64』に出ている。
大君に於いては、条約中の事は、一句一言を残さず履行(おこな)い、約信を全うするの栄名を得たれば、その招きに応じ来会する大小名の会議に於いて、外国事情を弁論する時は、その公平の意に聳従せざるもの無かるべし。殊に指顧饗応する大小名、旗本、全国の十が八九分なるは、挙論するに及ばざる事なり。
徳富蘇峰『近世日本国民史. 第64』
もともと慶喜は武力以外の政治的手腕には自信を持っていたと考えてよい。例えば兵庫開港問題において、慶喜は四藩会議で彼の意見を通し、朝廷の勅許を獲得した実績があったのである。万機公論に決するとしても、二百六十余の大名の八~九割は幕府的存在であり、薩長がいくら頑張っても、数の上では幕府支持が大半で負けるはずがないと読んでいたのである。慶喜が譜代や旗本にも諮らずに大政奉還を独断で決めたことや、これまで幕府を支援して来たフランスを説得できたのは、慶喜側に充分な勝算があると踏んでいたからだと思われる。
一方朝廷には、大政奉還を奏上されても何の準備もできておらず、政権を運営するにも経験がなく人材にも乏しかった。またこの時期の朝廷は、親幕府派である二条斉敬(にじょう なりゆき:慶喜の従兄)が摂政に就任しており、賀陽宮朝彦親王ら親幕府派の上級公家が主導権を握っていて、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)が慶喜主導になる可能性が高かった。実際のところ、朝廷からは大政奉還の上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会が召集されるまでとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。まさに慶喜の想定していた通りに進んでいたのである。
討幕の密勅
一方討幕派は、慶喜の動きをただ拱手傍観していたわけではなかった。慶喜が朝廷に大政奉還上表を提出した十月十四日に、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡されている。この密勅には過激なことが書かれていた。Wikipediaにその現代語訳がでているが、明治天皇が革命のためのテロ実行を命じている内容になっている。
お前たち臣下は、私の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが私の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。
この密勅は、佐幕派の摂政二条斉敬らを回避して作成され、天皇御璽の押印もなく、天皇が承認したことを示す「可」の文字もなく、偽勅の疑いが濃厚である。またこの密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の誅戮を命ずる勅書も出されていたという。
しかしながら、慶喜の速やかな大政奉還が朝廷に受け入れられたことにより、討幕の実行は延期となり、薩摩・長州・芸州の三藩は計画を練り直すこととなる。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
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