フランスの指導により軍隊改造に取り組んだ幕府が倒幕派に勝てなかった事情

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第二次長州征伐で幕府軍が苦戦した理由

 前回の「歴史ノート」で、慶応三年五月二十四日(1867/6/26)に徳川慶喜が相当苦労して兵庫開港の勅許を得たことを書いた。それから五か月も経たないうちに慶喜が大政奉還をしているのだが、なぜ慶喜は戦いもせずに、二百六十四年も続いた徳川幕府の政権を返上したのだろうか。学生時代に幕末の歴史を学んだ時に、教科書や参考書をいくら読んでもこの疑問が氷解することはなかった。

1866年、日本への出発前の顧問団 Wikipediaより

 以前このブログで少し触れたが、徳川幕府は、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備しているところであった。フランスの軍事顧問団が横浜に到着して幕府の伝習隊に砲兵、騎兵、歩兵の軍事教練を開始したのは慶応二年十二月九日(1867/1/14)だが、団長のシャノワーヌより幕府陸軍を大規模に改革する提言があり、幕府はその提言に基づいて慶応三年(1867年)九月に大幅な陸軍の組織改造を行い、顧問団を江戸に移して訓練規模を拡大している。

 幕府がこのような軍隊改造に取り組んだのは、慶応二年(1866年)六月より始まった第二次長州征伐で幕府軍が長州藩に苦しめられことにあるのだが、勝てなかった最大の理由は武器性能の格差にあった。今回は少し時代が溯るが、この点について考察することとしたい。

 長州藩は第二次長州征伐が始まる少し前に大量の武器弾薬を密輸している。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている

 長州藩の慶応元年(1865年)五月の武器購入概算は、装条銃千八百挺、剣銃二千挺、金額合計四万六千両という厖大なものである。長州藩が密輸入した小銃等は、下関―上海の直行ルートや、下関―長崎―上海の三角ルートで運ばれ、船がひっきりなしに往復していた。
 下関には上海から入荷した外国品があふれ、上海には下関から輸出された品物が沢山あった。
 長州藩領内の下関は小銃・弾丸・火薬など武器輸入の密貿易の拠点となった
のである。
 密貿易には莫大な利益がともなう。外国商人は危険を冒して下関へ集まってきた。これ等の武器商人のうち、もっとも代表的なのがイギリス商人トマス・グラバーである

(『開国の真実』p.246)

 当時は、大量の外国製武器が中国の上海に集まっていたようなのだが、その事情についてはWikipediaの解説がわかりやすい。

 1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された

エンフィールド銃 - Wikipedia
ミニエー弾 各種 Wikipediaより

 銃の弾丸は昔は球形のものしかなかったのだが、1849年にフランスで椎の実の形状の弾丸(ミニエー弾)が開発され、その後欧米各国でミニエー弾を用いる銃の生産が開始されるようになり、次いで弾丸の飛距離が伸びるように銃身にらせん状の溝(ライフリング)が施されるようになった。ライフリングがあることにより発射された銃弾に回転が加わり、旧式の銃よりも飛距離と命中精度が飛躍的に向上したのである。

ライフリング

 旧式の銃の射程距離は百~三百メートル程度であったのだが、新式の銃の有効射程は、三倍から六倍に伸び、命中精度も殺傷力も高く、薩摩藩がわが国で最初に入手し、次いで長州藩が手に入れたのである。

 アメリカの南北戦争(1861~1865)では62万人もの戦死者が出たそうだが、多数の戦死者が出た原因は破壊力の強い最新鋭の銃が大量に用いられたことによる。終戦後アメリカで用済みとなった大量の武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらにトマス・グラバーによって幕末の薩摩藩や長州藩に持ち込まれたというわけである。

イギリスは『四国共同覚書』によりわが国に対する内政不干渉を約束していた

 ところがイギリスは、第二次長州征伐が始まる前に他の主要国と次のような覚書を交わしていた。

 イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表は会談をもち、慶応元年(1865)5月『四国共同覚書』を作成した。四国共同覚書は長州藩のきたるべき幕長戦争に際し、
 第一 日本の内戦に対する厳正中立。
 第二 絶対不干渉。
 第三 密貿易(開港場以外での貿易)禁止。

を取り決め、わが国に対する内政不干渉を申し合わせた。当然の姿勢と言うべきである。
 四国共同覚書のなかで特に重要な意味をもつのは、第三番目の密貿易禁止条項である。
 というのは、当時の開港場は通商条約が定めたうち長崎、函館、神奈川(横浜)の三港であり、
『通商条約で定められた兵庫については勅許がおりないため…』
いまだ開港されず外交懸案事項となっていた。
だから四国共同覚書がうたった第三項の『密貿易禁止=開港場以外での貿易禁止』とは、イギリスの長州藩に対する下関における小銃等の武器密輸出を禁止したことを意味する
 イギリスが長州藩に心を寄せていることは他の三国に周知の事実だった。
 だから第一項の『日本の内戦に対する厳正中立条項』も、第二項の『絶対不干渉条項』も、イギリスが日本の正統政府であり開国方針を堅持する徳川幕府に敵対する長州藩を支援しないよう、フランス、オランダ、アメリカ三国が牽制したものである。

(鈴木荘一『開国の真実』p.250~251)
トーマス・グラバー

 イギリスが討幕勢力に接近していたことは、フランス、オランダ、アメリカの三国には周知の事実であった。三国はこの覚書を締結することによって、イギリスが長州藩を支援できないように釘をさしたのだが、グラバーは長州藩に武器の調達方法を伝授したのである。

 四国共同覚書による密貿易禁止で最も困ったのは長州藩である。長州藩は、四国共同覚書の密貿易禁止条項により、上海からの武器密輸入の途が閉ざされたからである。

 そこで木戸孝允(当時は桂小五郎)はグラバーに対策を尋ねた。するとグラバーは、

「長州候の船で上海へ行って(小銃等を)買うなら差しつかえない。もし汽船がないなら上海へ一人か二人が密航して汽船を買い、その際、小銃を買い入れて輸送することが出来るから、それについては尽力しましょう」

 と答え、また、

「武器以外の品物を日本船で運送するのはさしつかえないから、どのようにでも世話をする」

 と出貿易の悪知恵を授けた。

 このようにグラバーは木戸孝允に脱法行為を提示し、四国共同覚書を遵守しなかった

(同上書 p.252)

 グラバーは四国共同覚書に違反しただけではなく、日英修好通商条約にも違反している。そもそも通商条約では、幕府以外に武器を輸入することは禁じられており、グラバーは条約にも違反する行為を堂々と行ったのである。にもかかわらずイギリスはこの行為を見逃しているのだ。

資金力の乏しい長州藩が大量の武器を購入できたのは何故か

 このグラバーの行動は一商人の勝手な行動であったとは思えない。グラバー商会は少数の社員しかいない小さな会社であったのだが、資金の乏しい長州藩に大量の武器を融通していたことをどう考えればよいのだろうか。

 幕府による第二次長州征伐の前にこの銃の密輸契約を締結したのが伊藤博文・井上馨なのだが、契約時にグラバーが重要な発言をしたことが、鈴木氏の前掲書に記されている。

 慶応元年(1865)7月、幕府は長州藩の不始末による下関戦争賠償金1回分五十万ドルを長州藩の代わりにイギリスに支払ったのだが、実はこの慶応元年(1865)7月、長崎で妙な密談が行なわれていた。この月、井上馨(当時は井上聞多)と伊藤博文(当時は俊輔)は長崎で密かにグラバーと会見しミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んだ。このときグラバーは井上馨等に対し「百万ドルぐらいの金はいつでも用立てるから、決して心配には及ばない」と申し出た
 一口に百万ドルというが…。百万ドルとは半端な金額ではない。
 百万ドルといえば、幕府がアメリカから購入した強力軍艦「甲鉄」を二隻も買える大金だ。
 当時、社員十五人のグラバー商会にそれだけの資力があっただろうか。グラバー商会の財務内容を洗ってみる必要がある。1866年(慶応2年)6月末のグラバー商会の決算書をみると、ジャーディン・マセソン商会からの債務額が38万ドルに膨れ上がっている。グラバー商会は負債過多の状態にあり、百万ドルもの大金は持っていなかったようだ。
 しからば、グラバーが井上馨等に語った百万ドルの出所は、一体、何処だったのか
 それは今でも謎のままである。
 しかしながら、長州藩の不始末により幕府がイギリスに対し長州藩の代わりに下関戦争賠償金第一回分五十万ドルを支払った慶応元年(1865)7月という同じ時期に、グラバーから長州藩に対し百万ドルの信用供与の話が出たとなると、「イギリスは幕府から召し上げた五十万ドルをグラバーを通じて長州藩に信用供与したのか?」と邪推してみたくなる。
 少なくとも確かなことは、イギリスは「幕府から五十万ドルを召し上げた」という事実と「長州藩に百万ドルの信用供与を申し出た」という事実である。幕府の軍資金と長州藩の軍資金の間に、「行って来いで百五十万ドルのハンディキャップを付ければ…」幕府と長州藩の軍事バランスが逆転するのも当然の事だ

*ゲペール銃:ライフリングのない旧式の銃で、射程距離も短い。

(同上書 p.253-254)

 ジャーディン・マセソン商会という会社は中国でアヘンの密貿易などに従事して三角貿易で莫大な利益を得た貿易商社である。グラバー商会はその長崎代理店として安政六年(1859年)に設立され、グラバーは幕府とも武器の取引はあったが、薩摩藩や長州藩など維持維新を推進した諸藩の武器や軍艦などの調達及び留学生派遣などに大きく関わったとされている。

 普通に考えて、グラバー商会のような小規模な企業が、資金力の乏しい長州藩に百万ドルもの信用を供与することはあり得ないことであるのだが、当時のわが国には新式の銃は普及していなかったので、薩摩藩や長州藩に大量の最新鋭の兵器を装備させて幕府と戦わせれば、連戦戦勝することは確実であった。

 クラバーが薩長二藩に巨額の信用供与をしても、この二藩にはイギリスがバックについているので必ず倒幕に成功し、政権奪取により武器の代金も回収できると考えていたのではないだろうか。イギリスの後ろ盾がなければ、これだけ巨額の信用供与を与えることは考えにくいところである。

 イギリスの伝統的植民地政策は、国内に内紛があれば反政府勢力を支援し、政権転覆後に親英政権を多誕生させて影響力を高めるという手法をとることが多いのだが、グラバー商会はイギリスの尖兵のような役割を与えられていたのではないだろうか。

最新兵器と旧式兵器の戦い

 長州藩が慶応元年にグラバーを通して密輸入した銃はいずれも口径が大きく、殺傷力の極めて高いものだった

 第二次長州征伐では人数では幕府軍が圧倒したのだが、少数の長州軍に勝てなかったのである。兵士の士気の差もあっただろうが武器の性能が桁違いであった

 例えば石州口では紀州藩、浜田藩、津和野藩、福山藩、松江藩、鳥取藩の藩兵からなる幕府軍七千五百人が長州藩大村益次郎指揮下の千余名と戦い、兵の数では圧倒的に優勢でありながら浜田城を陥落され、石見銀山も制圧されてしまっている。

 幕府軍副総督の老中・本荘宗秀は、大坂にいる老中に対し次のように報告している。

 長防御討入については諸大名へ人数を差出し候向きも少人数。少し多き分は農民共が過半にて兵勢甚だもって振わず。鉄砲も幕軍はゲペル甚だ少なく、火縄付の和筒のみ。長州は農民に至るまでゲペル銃を用い必取の英気鋭く、なお薩摩も長州へ心を寄せ、イギリスも長州へ応援致し候様子。この分にては、とてもすみやかに御成功はおぼつかなく

(同上書 p.283-284)

 本荘宗秀は「ゲペール銃」と書いているが、長州藩兵の銃の大半はその銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施され、椎の実型の銃弾を装填する最新鋭のミニエー銃であった。前述したとおり、ミニエー銃は命中精度が高く有効射程が旧式の銃より数倍長いので、長州軍は幕兵の銃が届かない所から、幕兵を狙い撃ちすることが出来たのである。旧来の鉄砲も弓も槍も刀も、新鋭の銃に対しては殆んど役に立たなかったのである

 戦況不利の中に七月二十日(1866/8/29)に将軍家茂が死去し、将軍家を継いだ徳川慶喜が自ら出陣して巻き返すことを宣言したのだが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止した。そこで慶喜は家茂の死を公にして朝廷に休戦の勅命を発してもらい、九月二日(10/10)に宮島にて停戦合意が成立している。

慶喜の軍制改革と大政奉還の後の倒幕派の動き

幕府歩兵の調練風景(1867年、大坂城内)Wikipediaより

 慶喜は、第二次長州征伐の休戦直後に、刀や槍ではなく全員に銃を携行させ、少数精鋭で攻撃力強化をはかる軍制改革を決意し、冒頭に述べたように慶応二年十二月九日(1867/1/14)から、フランスの軍事顧問団による幕府の伝習隊に対する軍事教練を横浜で開始した。そして六月には、陸軍幹部養成のための三兵(歩兵、騎兵、砲兵)士官学校創設を決め、旗本の子弟で十四歳から十九歳までの志願者を募集している。

 かくして慶喜は最新鋭の銃を装備させた一万数千人の近代的陸軍を整備しつつあったのだが、慶喜は討幕派の機先を制して十月十四日(11/9)に大政奉還上表を朝廷に提出している。倒幕派の薩摩・長州・芸州の三藩は再び出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで十二月九日(1868/1/3)に王政復古の大号令を発し、新体制の樹立を宣言。慶喜は十六日(1/10)に六カ国の公使と大坂城で会談を行い、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に十九日(1/13)には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求している。二十二日(1/16)に朝廷は事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認し、この事態に危機感を抱いた薩摩藩が幕府側の強硬派を挑発して、慶応四年一月三日(1868/1/27)に鳥羽・伏見の戦いに突入することになるのだが、旧幕府勢力と奥羽列藩同盟が保有していた銃は、伝習隊のものを除くと、大半が旧式のものであったことを知るべきである。

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