むかし幕末から明治維新までの歴史を学んだ際に、若い世代が国事に没頭して徳川幕府を倒したことに驚き、彼らの活動資金がどこからでていたのかについて疑問を感じた人は少なくないだろう。昔は薩摩や長州の活動資金がどこから出ていたかについて書かれてる書物や資料の情報を探すことは容易ではなかったが、今ではネットで調べると様々な情報を入手することが可能になっている。
薩摩藩の錬金術

阿達義雄氏の論文「薩摩藩密鋳天保通宝の数量」が新潟青陵大学リポジトリでネット公開されているが、この論文には驚くべきことが書かれている。文中の市来四郎は島津斉彬の側近であった人物である。
『市来四郎君自叙伝』において、特に留意すべきは、市来が日夜精励して、一日の天保通宝の鋳造高凡そ4,000両~5000両、1月にして凡そ12万両を越え、彼が掌務中の凡そ三年間に、薩英戦争後僅か30日間休業しただけで、天保通宝290余万両を鋳造し、戦前の入費、或いは神瀬砲台建築費用、各所砲台修復の費用だけではなく、薩英戦の際に兵火に罹った者の救助費に及ぶまで、悉く天保通宝を以て充当して、薩摩藩の今までの蓄積は、そのまま戊辰戦争の軍費として補充することが出来るようにさせた点であろう。
「薩摩藩密鋳天保通宝の数量」p.4
薩英戦争で薩摩藩は死者五名、重軽症者十三名を出し、三隻の汽船や陸上の砲台等、民家、士族屋敷、寺院などが破壊された上に英国に十万ドルの償金を支払ったのだが、薩摩の損害額は総額で二百五十万両であったという。言うまでもなく薩摩には天保通宝を鋳造するような権限はないのだが、驚くべきことに市来の自叙伝には、薩摩が薩英戦争の損害額以上の密鋳を行っていたことが書かれているのである。
しかしながら天保通宝を密鋳するには大量の銅が必要になる。薩摩がいかにして銅を手に入れたかについては、市来の自叙伝に出ていで、同上の論文に慶応元年(1865年)の記録が引用されている。
市来の自叙伝の〈三十八歳、慶応元年〉の条(「史談会速記録」第132)を見ると、
「当時、予は会計専務鋳銭に従事し、軍事補充に努力す。財政困乏に際し、内に在りて軍費の支出を計るべき旨を命ぜられたり。
鋳銭の原料は当時多くは梵鐘仏具を専用せり。」
とあり、これは天保通宝密鋳に特に関係深い一節として注意されるところである。
「薩摩藩密鋳天保通宝の数量」p.5
毀鐘鋳砲の勅諚が出たのちに島津斉彬が大砲などに鋳換えるために寺の梵鐘を藩庁に集めるように命じていたのだが、安政五年(1858年)に斉彬が他界したため寺の大量の梵鐘が藩庁に集まったままになっていた。市来らはそれを天保通宝の密鋳に用いたことを書いているのである。
貨幣の密鋳は薩摩藩だけでなく、盛岡藩や仙台藩、水戸藩など十以上の藩で行われたことが知られていており、長州藩でも行われたという説がある。古銭研究者が「曳尾銭」と呼ぶ、「通」のしんにょうの先が伸びている特徴のある天保銭が山口中心に発見されているのだそうだが、密造の規模は薩摩には大きく届かないようだ。では長州藩は、倒幕を実現するための資金を主にどういう方法で手に入れたのだろうか。
長州藩の資金源

長州藩には下関、三田尻(防府市)、室積(光市)、上関、萩など北前船の寄港した港が多数存在し、なかでも下関は日本海、瀬戸内海、九州の各航路の結節地である重要な港で大変賑い、四百軒もの問屋が軒を連ねていたという。
近松門左衛門の『博多小女郎波枕』には当時の下関をこう記している。
「長門の秋の夕暮れは、歌に詠むてふ門司が関、下の関とも名に高き、西国一の大湊、北に朝鮮釜山海、西に長崎薩摩潟、唐土阿蘭陀の代物を朝な夕なに引き受けて、千艘出づれば入船も、日に千貫萬貫目、小判走れば銀が飛ぶ、金色世界もかくやらん。」

近松の表現には誇大な部分が少なからずあるとは思うが、下関は日本海、瀬戸内海、九州からの船が行きかう重要な港であり、「西国一の大湊」であったことに間違いはない。下関の船主や廻船問屋が他の北前船寄港地と同様に巨額の利益を得ていたことは確実なのだが、残念ながら下関には船主集落や豪商の邸宅は残されていない。しかしながら、北前船で得た利益を惜しみなく勤王の志士に援助した人物が少なからずいて、なかでも廻船問屋・小倉屋の白石正一郎という人物は有名である。
昭和十五年に出版された安藤徳器著『維新外史』には次のように記されている。文中の「白石資風」は「白石正一郎」のことである。
…地理的には九州四国対馬への関門であり、経済的には北廻船や越荷方の漁利を独占した良港――諸国の船舶商佔の出入りは志士密謀の策源地となり、脾肉の嘆を鬱散する幕末の歓楽境となった。就中勤王の侠商白石正一郎、大庭廉作等が、家産を蕩尽して草莽憂国の士を庇護したことは有名な話である。
いま、白石資風日記を繙くと、『西郷月照滞在以来正一郎家内中ノ配慮混雑筆紙ニ尽シ難ク』とか、『平野次郎ヲ新地春風楼ニ潜伏サスル』『薩ノ大久保一蔵君上下四人来駕急ニ上京也』と見え、其の往来した志士の人名は、優に百余名に上って居る。
安藤徳器 著『維新外史』日本公論社 昭和15年刊 p.161
白石正一郎が薩長土の志士たちを繋げていった
白石が面倒をみたのは長州藩士だけではなく薩摩藩士や土佐藩士も同様で、白石がこういう金の使い方をすることで、薩長土の志士達がつながっていったのである。
同上書にはこう解説されている。文中の「馬関」とは「下関」のことである。
維新の元勲が置酒徴逐の間に策動した所、かの大西郷と木戸を握手させた、坂本龍馬の薩長連合も亦馬関に於てであった。…
かく志士を庇護した反面に於て、彼等御用商人が資金運用を諮り、一種の利権問題の含まれていたことは今日の政商と異ならぬ。
白石資風日記文久二年十二月二日の條に『昼前大国船三艘ニテ廉作帰リ来ル。森山新蔵殿及波江野休左衛門(波江野ハカゴ島下町の商人廉直ノ者ニテ森山ハ素大久保利通等ノ使役スルモノナリ。当時町老寄ニテ産物商ノモノナリ。営業酒店又ハ古着商)用達金二萬四千五百両持チ帰ル。右ノ内三千金当家ヘ拝借被仰付二萬金ハ米置入之御手洗ノオ手当千五百両ハ早船十艘御造立御手当成。』とか、三年正月十七日の條に『長州様ヨリ千五百金御カシ渡可被仰候段御書付頂戴』などあるを見ても察知するに足りやう。
同上書 p.163~164
このように『白石資風日記』には薩摩藩や長州藩に大金を渡したことが書かれているが、この資金は攘夷を実行するためのものであったと思われる。

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は文久三年(1863)五月に攘夷の実行を約束し、それにもとづき長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して通告なしに砲撃を加えた。その報復として、半月後にアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡に碇泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的な打撃を与えている。(下関事件)
その翌日に高杉晋作が白石正一郎を訪ね、その二日後に、外国艦隊からの防備のために奇兵隊が結成され、正一郎も弟の廉作もそれに参加し、白石邸に本拠地が置かれることになったという。
長州藩は新たな砲台を設置して海峡封鎖を続行したが、翌年にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を徹底的に砲撃し、砲台は占拠され破壊されてしまう。(四国連合艦隊下関砲撃事件)
その後長州藩は武力での攘夷を放棄し藩論を倒幕に転換させていく。同様に薩摩藩も次第に反幕府の姿勢を強め、両藩ともに軍事力充実の為にイギリスに接近していった。
一方幕府はフランスの指導による軍事改革を進め、慶応元年(1865年)に第二次長州征伐が宣言され、薩摩藩にも出兵要請が出されたのだが、坂本龍馬などの仲介により慶応二年(1866年)一月に薩長同盟が締結されたことから、薩摩は出兵しなかった。最新兵器で武装した長州藩の奇兵隊などは各地で幕府軍を打ち破り、このため幕府は、将軍家茂の病死をきっかけとして戦闘を中止した。

奇兵隊は武士のみならず農民や町民でも、志があれば参加できる民兵組織であり、この兵士たちの装備や生活支援の為に正一郎はかなりの私費を投じたのである。しかしながら、奇兵隊の隊員は次第に膨れ上がり、その資金負担は本業の資金繰りにも影響を与えることとなる。
慶応元年(1865)の正一郎の日記には白石の借金について噂がたっていたことが記されている。
(十一月)十四日…林半七君曰ク、当家借財四五百金ニテ当分間ヲワタシ不申哉ト申聞候得共、夫ニテハ所詮間ニ合不申。然ルニ当節又々幕情勢相迫候由ニ承候。オノレ勘考スルニ、君上有テノ事ニ付、先々当分カリ主ヨリ責来不申様被仰付度。追討ノ一挙平穏ニ相成候上、此家屋敷御買上相成候様御周旋被成下度。夫迄ハ先ツ見合可申ト返答ニオヨブ。
『維新日乗纂輯 第1 白石正一郎日記.黒沢覚蔵覚書』日本史協会 大正14年刊 p.109
白石正一郎の巨額の借財があったにせよ、白石宅には入れ代わり立ち代わり志士たちが訪れては宿泊や酒席などの世話になっている。
慶応二年(1866)の日記にはこう記されている。
二月一日奇隊ヨリ惣官山縣君其外遠乗シテ来ル。井上聞多君、伊藤春介君、野村靖之助ナド芸妓召連来リ暫ラク大サワギ
*山縣君(山縣有朋)、井上聞多(井上馨)、伊藤春介(伊藤博文)、野村靖之(野村靖)
同上書 p.111

井上や伊藤らの遊興費は外国商人からも出ていたようだ。前掲の『維新外史』によると、『萩の落葉』という当時の風聞書に、このような記録があるという。
…伊藤春助外夷より大金を貰ひ受け、稲荷町新地において湯水の如く遣捨て、其上妓婦両人受出し且又内々馬関を交易場に開港之唱有之候に付、奇兵隊其外慷慨の志士憤発誅戮可致哉。何れ大変不遠中に発し可申右等之趣に付、前條之町触有之候哉と申居候事」
『維新外史』p.172
しかしながら、『維新外史』を読み進むと、長州志士たちの活動費や遊興費の多くは、藩が支出した銃艦購入費や洋行費から流用されたことが書かれている。
…高杉が独断に於て英商グラバより購入したオテント(丙寅丸)の三萬六千二百五十両の船価は、洋行費として千五百両の支給から手付を打つと称して費消したのであった。井上が要路に弁解した書中『谷氏(晋作変名)御勘渡金千五百両の處返納仕候様中来リ、然ル處崎陽ニテ遠行之仕度相調且舷買入雑費ニテ金モ遣ヒ候様子、然ル處大不平ニテ云々』と見える。
同上書 p.176~177
長州藩の銃艦購入費や洋行費は、白石正一郎ら勤王の商人のほか、豪農など民間の有力者が攘夷軍用金として藩に献納したものなのだが、ほかにも長州藩には関ケ原の戦い以降蓄積されて来た巨額の資金が存在したという。軍事機密費が存分に仕えたからこそ、長州の志士たちは豪遊することが可能であったのだが、これだけ無駄な支出をしても、維新後に長州藩の資金が百万両以上残り、七十万両を朝廷に献上したのだそうだ。
明治維新後の白石正一郎
その後江戸幕府が滅亡して明治の時代となるのだが、平和な時代が訪れると武力の重要度が低下することは言うまでもない。
正一郎が面倒を見てきた奇兵隊は無用の長物となり、明治二年十一月に山口藩知事毛利元徳は、奇兵隊を含む長州諸隊五千余名のうち三千余名を論功行賞も無く解雇し、各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職してしまった。解雇された元奇兵隊員ら約千八百人がこれを不服として山口県庁を取り囲む騒動となる。(脱退騒動) 。
木戸孝允が明治政府の鎮圧軍を率いて脱退軍を撃退し、奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍したという。
正一郎は「革命のパトロン」として維新を支えたのだが、明治維新以降は長州閥の中心人物が栄達する一方、政府は彼を冷遇したようだ。その主な理由の一つは、奇兵隊を弾圧しようとした明治政府の方針に納得できず、彼が元奇兵隊員たちの面倒をみていたことにあるのだと思う。
政治に関与しすぎた正一郎はついに小倉屋を倒産させてしまうのだが、新しき世を夢見て志士たちを支援し続けた正一郎にとっては、明治維新後に面白くないことが続いていたのではないだろうか。

明治以降の正一郎の日記には僅かの記録しか残されていないのだが、読み進んでいくと、明治十年(1877)に赤間神宮の宮司に就任したことが書かれている。赤間神宮は、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで入水して果てた安徳天皇ゆかりの神社であり、奇兵隊の隊士が増加し白石邸が手狭となってからは、奇兵隊の本拠地となった場所でもある。そして彼の日記には、翌年に赤間神宮の祭りに県令らと酒肴の席を設けたことが書かれた後は何も書かれていないようなのだ。

下関の海に生き、尊王の志が人一倍強かった正一郎は、自分が支援してきた奇兵隊の思い出が詰まった赤間神宮の宮司に明治十年(1887年)になることができたのだが、その三年後の明治十三年(1880)に彼は六十九歳の人生を終えている。
晩年の正一郎を写したと伝わる写真がWikipediaに出ているが、人に囲まれて中央で喜んでいる白髪の老人がその白石だといわれている。Grokに聴くと、この写真は地元史料などでも登場するので信憑性が高いと思われ、「宮司在任中に撮影されたものと推定されます」とのことだが、写真中央にいる白石は満面の笑みを浮かべて幸せそうに写っている。
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