旗本の貧困生活
菊池寛の『大衆維新史読本』の復刻版が電子書籍の響林社文庫から出ていて、Amazonで購入しKindleで読むことが出来る。この本には江戸幕末から明治維新期に関する興味深い話がいろいろ書かれているのだが、今回はそのなかから、ペリーが来航した頃の旗本の生活が困窮していたことが書かれている部分を紹介させていただく。

引用文の冒頭に出て来る『甲子夜話』というのは、江戸時代後期に肥前国平戸藩第九代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集で、「旗本」というのは、江戸幕府に直接仕えるえる家来のうち、石高が一万石(約千五百トン)未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者をいう。一石というのは、大人一人が一年で食べる米の量であり、一石は約百八十リットル、約百五十キログラムに相当する。
菊池寛はこの本の中で、この頃の旗本の貧困生活の実態についてかなり具体的に記している。
甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕する隙なく、第二に身持堅気になり、仕置も致し能く候』とあるが、これは各藩に於ける下級貧窮の武士の内職をあばいたものである。
ペルリの来た年の井上三郎右衛門の上書にも、旗本の貧困ぶりを叙して、
『旗本困窮仕り候者、五百五十石にても、窮迫仕り候者共、夏の蚊帳調え候儀も行き届かず、冬の夜寒気を凌ぎ候夜具も無之』
という有様で、結局金のある婿養子でも探したほうが良いということになる。その金額は大体きまっており、百石五十両、急養子は百石七八十両から百両という相場である。
この株があるため、金を持っているものは金で株を買って武士になれるわけであり、そのため民間の偉材が武士になれるという拾い物もあるわけだ。伊藤博文なども、この持株の買い手で彼が百姓だったら、恐らくあれだけの仕事は出来なかっただろう。
『大衆維新史読本(上巻)』p.30~31

伊藤博文の名前が出て来るのだが、武士の身分を得たのは博文の父親である。Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「家が貧しかったため、十二歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。
菊池寛によると徳川家の家臣である旗本身分を得るための相場は百石あたり五十両、急ぐ場合は七十両~百両だったというが、公然と武士身分が購入されていたわけではなく、養子縁組の「持参金」として支払われることが多かったと思われる。但し有能な人物の場合は、推挙により武士となったケースが散見される。
武士身分を獲得した著名人
この時代に武士身分を得た人物には著名な人物が結構いる。

新選組組長の近藤勇はWikipediaによると、「武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市野水)に百姓である父・宮川久次郎と母・みよの三男として生まれる。」とあり、嘉永二年(1849年)十月に、剣豪・近藤周助の養子となり、「周助の実家である嶋崎家へ養子入りし、嶋崎勝太と名乗る。その後、嶋崎勇と名乗ったのちに、正式に近藤家と養子縁組し、近藤勇を名乗った。」と複雑な過程を経て武士となり、のちに幕臣となっている。

新選組副長として近藤勇の右腕として組織を支えた土方歳三は、武蔵国多摩郡石田村の豪農・土方義諄の十人兄弟の末っ子として生まれたが、幼くして父母を結核で失い、家督を継いだ次兄夫婦に養育された。その後、天然理心流の剣術道場で近藤勇と出会い、安政六年(1859年)三月に天然理心流に正式入門。文久三年(1863年)以降は新選組で近藤勇と共に京都の治安維持に尽力し、慶応三年(1867年)には幕臣に取り立てられている。

箱館五稜郭に立てこもって明治新政府に最後まで抵抗した旧幕府軍のリーダーである榎本武揚の父の箱田良助は、備後国深安郡湯田村の庄屋の出身で、和算が得意であったことから伊能忠敬測量隊の中心メンバーとなり、『大日本沿海輿地全図』完成に尽力した人物だが、Wikipediaによると、「箱田左太夫(良助から改名)に御家人榎本武兵衛武由から養子の話が舞い込んだ。伊能図完成後の文政五年(1822年)、箱田は榎本武由の娘みつと持参金持ち込み(御家人株五十両分)の結婚して婿養子となり、榎本円兵衛武規に改名、士分となった」とある。武揚は榎本武規の次男である

また、第一国立銀行お東京証券取引所などの設立・経営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一も武蔵国榛沢郡血洗島村の農家の出身で、交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕えることになったという。
盛岡藩で行われた武士身分の売買
能力や実績が認められて武士に身分を得た事例ばかりではない。無名の富裕層(農民・商人・医者など)がこれを利用して武士身分を得ことが出来たようだ。

大島高任は安政四年(1858)にわが国で最初の商用高炉を建造し、鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功し、明治期においても鉱業界の第一人者として活躍して「日本近代製鉄の父」と呼ばれている人物だが、盛岡藩の藩医であった父の大島周意から聞いた話として、盛岡藩の財政は北方警備の出費がかさみ、資金捻出にあたって、藩は身分を買える売禄制度を認可したことが半澤周三著『大島高任』(PHP研究所刊)に書かれている。この本はKindleunlimitedで無料で読むことが出来る。
父の話によれば、この売禄なるものは嘉永元年ころから始まっている。百姓、町人でも十五両で一生苗字帯刀、五十両で御与力格、九十両で御給人、すでに御給人であるものは三十両で御城下支配となれる。無禄の町医者も二十両で御役医格、さらに十両の上乗せで御役医である。
半澤周三著『大島高任』PHP研究所刊 2011刊 Kindle版2569/15562
盛岡藩は天保四年(1833年)以降飢饉が七年も続き、さらに嘉永三年(1850年)には大洪水が追い討ちをかけ、次に幕命により北地警備に莫大な出費を余儀なくされていて、資金不足に陥っていたのでやむを得なかったようだが、東北の諸藩や幕府直轄領で同様な事情で売禄が行われたようだ。
官位が才能や努力ではなく、金銭で買えるようにしてしまっては役人も政治も腐敗していくばかりであることは言うまでもない。
武士身分の価値
ではこの当時、現在価値にしてどの程度のお金があれば武士になることができたのであろうか。
次のURLに戦国末期から江戸幕末までの諸物価の推移がまとめられているが、例えば天保元年(1830)から慶応元年(1865)の三十五年間の間に、米価は二倍程度上昇したが、酒は四倍程度、砂糖は三倍程度、卵は五倍程度、木綿は十倍程度、木炭は六倍程度と生活必需品の価格が米よりもかなり高くなっていたことがわかる。
江戸時代全体を通じて物価・米価・賃金が時期や地域で変動し、特に幕末はインフレ(物価高騰)と金銀比の乱れが激しかったために正確な数字を出す事は難しいのだが、Grokの回答は、「結論として、幕末の一両は現代の五万円~三十万円程度が最もよく使われる大まかな目安範囲です(多くの歴史書や日本銀行の解説でこの幅が示されます)。正確な「いくら」とは言えませんが、十五両なら現代感覚で数百万円~数千万円クラスの価値感だったとイメージすると、当時のインパクトが伝わりやすいと思います。」との回答を得た。
武士困窮の原因
菊池寛は武士の窮乏の原因についてこう解説している。
「それは一言で言うならば、米の経済の破綻なのである。すでに相当に高い程度に発達した貨幣経済の当時にあって、武士は相変わらず領主からその俸禄を米で支給され、これを貨幣に替えてその生活を維持しているわけである。しかも、米はその本質上価額が不定であり、他の物価が高くなる割には、高くならない。その差が全部武家経済の台所を脅かすにいたるのは当然である。
封建社会の中堅ともいうべき武士が、こんな困窮の中に段々と追い込まれるとすれば、その社会が早晩大きな変革を要求するであろうことは、誰の目にも明らかなわけである。
『大衆維新史読本(上巻)』 p.32
だから下級武士が、少しでも支出を減らそうと屋敷に畑を開き鍬を握って野菜などを作ったり、また現金収入を得ようと内職に励んだわけで、それが多くの地域で地元の名産品となっている。

『甲子夜話』に武士の内職仕事として「米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠、小倉の合羽の装束」が紹介されていたが、小田原提灯や大和郡山の金魚、山形天童市の将棋の駒なども有名なところで、幕府の旗本や御家人も、下谷の金魚、御徒町の朝顔、牛込の提灯などの稼ぎで苦しい生活をやりくりしていた。
あるいは金持ちの家から養子をとってその持参金を当てにしたということも多かったようで、その相場までもが存在していたのである。
藩や幕府の財政状況
一方、藩主や将軍の財政状況はどんな状態であったのか。引き続き菊池寛の文章を紹介する。
また武士にこんな不自由をさせている領主や将軍はどんな生活振りかというに、これは台所が大きいだけ、その不足も目に立つわけである。
経済禄に、
『今の世の諸侯は、大も小も皆首をたれて、町人に無心を言い、江戸、京都、大阪そのほか処々の富商をたのんで、その続けばかりにて世を渡る』
とあるが、要するに領内の金持ちに、借金の相談ばかりで、寧日なしである。
安政三年には、御三家の尾張大納言が領内の町人を集めて、直々の金銭を試みるという仕末である。諸侯貧しくして、幕府だけが独り富んでいるわけはない。幕府の財政も、一路その衰亡のコースを辿っている。これを数字でいえば、安政五年に、勘定奉行が大老井伊直弼に報告した財政状態は、文化八年から十年までの歳出入の不足分は金で二十二萬両、米で四萬石もある。それが天保五年から六年になると、赤字が金で五十九萬両にも達している。現代の人間から見るとたった五十九萬両と言うかも知れぬが、当時の幕府の総収入が百十五萬両であるから丁度その半分にあたる。もって幕府の困窮振りも察せられるわけである。
武士階級の貧困化は、直ちに農民の上に掩いかぶさってくる。田祖の取り立ての過酷さとなって現れてくるのである。
徳川幕府の対農民政策のモットーは、家康以来一貫しており、
『郷村の百姓は死なぬように、生きぬように』
『農民は五穀の価を知らざるを良農とす』
『農(のう)は納(のう)なり』
『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』
等々の原則が厳として存在して、その人間的な再程度の要求さえ認められていないのである。脱胎、離村による農村人口の減少、田地の荒廃、そして農民の暴動など、農村の暗黒面はいよいよ封建社会の末期的症状の一つとなって表れてきているのである。
単純なる一揆の外に、天誅組や、水戸天狗党などに、その地方の農民が沢山加わっていたことなど、維新史の展開とともに、われわれの注意を惹(ひ)くものが多い。
同上書 p.32~34
米以外の商品の価格が高騰して最も困るのは、自家消費分を除いた米を換金することで部下の雇用や軍役にかかわる諸経費を支払い、その残りを生活費に回していた武士階級であろう。その影響が回りまわって農民や町人に及ぶことになるわけだが、多くの歴史書は幕府が農民を抑圧したという視点で江戸時代を描いていることに違和感を覚えるのは私ばかりではないであろう。「階級闘争史観」で単純に論じることは、この時代の本質をとらえているとは思えないのだ。

私には菊池寛のこの解説が分かりやすい。
武士や農民の貧窮化に比して、時代の寵児として、経済生活の上に浮かびあがってきたのは、町人階級である。しかしそれだけの筋力を要した商人や高利貸しが、傲然として社会生活の上に立っていたかというと、これがまた四民の最下位に置かれていたのである。農民より低いとされているのである。だから百二十萬両の巨富を得た淀屋辰五郎でさえ、わずかの欠点を指摘されて闕所にされても、文句一つ言えない時代なのである。金力を以て、相当羽振りを利かせているだけに、政治的に無力化されればされるほど、彼ら町人の不平は大きいわけである。
まず嘉永末期の日本は、ざっとこうした状態にあったのである。文字通りの四民困憊である。
どの階級も現状不安であり、現状不満である。行き詰っているのである。
武士の商人化、商人の僭上、それを取り巻いた一般的な下剋上の精神。現在から抜け出ようとする革新思想、復古思想など、かろうじて作られた三百年の封建の殻は、今や内部的に熟れ切って、一撃の下に、崩れ出しそうな時代なのであった。
そこへ、ペルリの率いた黒船が来たのである。かろうじて支えられていた、封建制度の鎖の一筋はたち切られたのである。徐々ではあるが、社会的の地すべりが始まった。断層がそこにも此処にも、不気味な肌をあらわにして来た。
同上書 p.34~35
徳川幕府は幕藩体制の財政基盤として徹底した米本位制度である石高制を実施し、藩の規模から武士の給与に至るまで、すべてが米の生産能力で換算され、それに基づいて年貢が課せられていた。各領主は自家消費分を除いた米を換金して必要なものを購入していたのだが、この制度は諸物価が安定していた時代にはあまり問題が生じなかった。
しかしながら、米の生産量が増え貨幣経済が発達して、米の相場以上に生活必需品の価格が高騰したことから、石高制の矛盾が露呈していくこととなる。
また公家も武士階級と同様な収入構造にあった。
中には和歌や書など学問の家元としての副収入のある者もいたのだが、多くの公家の収入は公家領から得られる年貢に依存していて、下級公家や新しい公家は下級武士並みの収入だったという。幕末の諸物価の高騰は公家の生活を困窮状態に陥らせたことは確実だ。
江戸幕府を倒し明治維新に導いた中心メンバーの多くは下級武士や公家であったのだが、なぜ彼らが討幕運動にのめり込んでいったのかというと、幕末に生活必需品の価格が急騰し、彼らの支給米では厳しい生活に追いやられていたことと無関係だとは思えない。
いつの時代もどこの国でも、普通の人々が普通の努力をして普通の生活を営むことが絶望的になったときに、若い世代を中心に、世の中を変革させようとするエネルギーが蓄積されていくのだと思う。
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