長野朗は陸軍の軍人で、辛亥革命後大正元年(1912年)に中国に派遣され、大正八年(1919年)に北京に留学して五・四運動などの動きを目の当たりにし、1924年に帰京後は拓殖大学教授、東亜経済調査局理事、興亜院嘱託などを歴任し、中国や満州に関する研究書を中心に数多くの著書を残している。彼の著作のうち十八点がGHQによって焚書処分されているのだが、この焚書点数は、野依秀市、仲小路彰についで三番目に多い水準にある。

彼の著書には戦後の日本人に知らされてこなかった史実が満載であり、特に移民問題が重要な局面に達しつつあるわが国の現状になんとなく不安を覚えている方には長野の『民族戦』をぜひ読んでいただきたいので、何回かに分けて重要な部分を紹介させていただく。
支那民族の侵略方法
通常の場合、他国を侵略する際には軍隊が出動し武力が用いられるのだが、支那の場合はアメリカのやり方やソ連(現ロシア)とは大いに異なっており、武力戦の勝ち負けと関係なく他国の領土に移住地を拡大していくことで実質的に奪い取っていくのである。
支那民族の発展も数千年来継続して行われ、黄河流域に国を建てた漢民族が、遂に今日の如き広大なる領土と、四億の大人口を擁するまでに発展を遂げたのである。支那民族の東方満州への発展は、日本民族の大陸発展と衝突してここに満洲事変を起したが、続いて起った支那民族の全国的な抗日運動は、 遂に今回の支那事変を勃発せしむるに至った。支那事変は支那側から見れば全く民族戦である。 事変以来の支那新聞を通して見るに、すべて今回の事変を以て民族戦となし、戦争で奮闘したものは民族の英雄として祭り上げられ、民族の独立自由を叫び、民族資本の発展を策する等、すべて、民族一色に塗り潰され、国家という字を殆んど使っていないし、一国一民族の意から、国族という文字は使われている。
これはこの事変に始まったことでなく支那の外部発展はすべて民族的に行われ、領土の一部を占領されても、住民は平気で居住するだけでなく、 占領されながらも発展して行く、 日露戦前数百万人に過ぎなった満州は日露両国の勢力下に三千万に増大し、満州事変後日本の勢力が北支に伸び、今事変(支那事変)で主要な領土を占領されながら、三つの満州人口は四千万に増加した事実を如何に見るか、重慶政府(蒋介石政権)が戦いに敗れながら、民族保存の上から、民力充実に非常な苦心を払っているのは彼等伝統的精神に基づくものである。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.8-10
例えば、満州は清朝を作った満州族の故地であり、かつては漢人は殆んど住んでいなかったのだが、清朝末期の混乱期以降に多くの漢人が移り住むようになって居座り、その後日本が満州帝国を支援してインフラを整えると大量の漢人がなだれ込み、いつしか漢人が住民の大多数を占めるようになり、したたかに国を奪い取ったのである。
支那民族の発達は、米、露二国とは著しく異った方式を有している。米国の発達の方式はドルである。これを保護するために軍艦と飛行機とがある。ロシアの民族発展は銃と剣とが先に立って、植民と商業とが後から来る。それがソ連になってからは組織と宣伝とが加わった。支那の民族発展は鍬だ、人が土を這て行く、政治はその後から来る。米国の発展は表皮を剥ぐのだ。ロシアの発展は肉を啖う。支那のそれは骨の髓に食い込む最も深刻なものである。
支那人の古来の発展は民族的である。国家等には頓着なく、支那民族が発展して行くのだ。血縁相牽き、同郷相求め、村をなし郷をなし町をなす。その統治者の如何は問う所でない。従って支那民族の発展は極めて平和的であるが極めて深刻である。支那人はアメリカ人の如く資本侵略でもなく、ロシア人の如く征服掠奪でもない。土着的である。その土地に土着して農を営み、商工を営み村をなし、 縣をなし、 省をなす。 彼等には武力の背景も必要でない。丸く卷いたフトンを担ぎ徒手空拳にして、如何なる気候の下にも、熱帯にも、寒帯にも乾地にも湿地にも出掛けるし、如何なる業務も厭わず孜々としてやるし、如何なる政治の下にも平気である。
支那人は戦いに勝っても負けても発展する。支那が戦いに勝った場合にはその土地の壮年男子を本国各地に分散して同化し、その後に女と老小だけ残った所に支那人が移住してこれを同化する。戦いに負けた時には、あたかも清朝に征服された時のように、入って来た他民族は多数で同化し、征服国にどんどん移住して行って、満州に於ける如くこれを漢人の居住地化する。即ち負けて勝つのである。そこで支那人の領土観は日本人と大いに異なるものがある。日本人は寸土といえどもなかなかこれを捨てないのは、 猫の額のような川中島を長い間争ったのを見ても分る。
ところが支那人になるとそうでなく、 自分の領土の一部を一時占領されるくらいは何とも思っていない。 外国の金で立派にして返して貰おうくらいに横着に考へている。ただそれが支那人の居住地で、支那人の土着が撹乱されなければよいのである。
また支那民族の発展に当たり、支那人はその土地で盛んにその土地の女と雑婚するから、支那民族の増加は著しくなる。タイ国でも純粋の支那人は大したことはないが、混血児を加えるとタイの人口の約半数に近いのである。
同上書 p.77-79
長野は「発展」という言葉を用いているが、これは「侵略」に近い意味がある。他国の領土を奪うやり方が、アメリカは資本力と軍事力を用い、ロシアは武器と組織力と宣伝を用いるが支那の場合は大量移住により結果的に他国の領土を奪っていくのだ。
支那民族の生存力
支那人が国家に対して忠誠心を持っていたわけではないのだが、大量の民衆が他国に移住するのはどういう時なのであろうか。長野は、支那の混乱期にそのようなことが起こるという。
また支那人はその国内が混乱した時に多く発展するものである。国内が混乱して生命財産が不安になると、海外に逃げ出すのである。民国以來の支那国内の混乱により、支那民族は大々的の発展を遂げた、北伐戦が起った前後には一ヶ年に百万人以上のものが満洲に移住した。その後共産軍が中南支で暴れた時には、南洋への華僑は非常に増加した。
要するに支那自体が国家というよりも民族であるから、近年になってから国家思想が起ったが、その本質は容易に動かず、従ってその発展も民族的で、支那民族が発展し、それが地球の上を掩うことが彼等の理想である。
支那民族が非常な発展力をもっているのは、種々の原因があるだろうが、その主なるものを挙げて見れば、第一には支那民族が古来幾多の乱世を経てこの間に生き抜いで来た経験をもっていることである。朝廷の代わる毎に混乱期があり、長い時には数百年の混乱が続き、春秋戰国の大乱では人口は半減したといわれ、 五胡十六国の乱では人口の三分の一を減じたといわれている。こうした数千年の経験は、 支那民族に大きな生存力を与えた。 彼等は実に自己保存に巧である。混乱に際しても生命を全うするため、金銭も紙幣を嫌って硬貨を喜び、それも目方と分量でやるし、また掠奪に遭っても差支えないように金を床下、庭先等に埋め、あるいは壁の内に塗り込み、また食糧の如きもこれを庭等に埋め、掠奪一空となっても生命の保存に差支えないようにする。それを夜潜かに炊いて食う如きである。
彼等は生きることが最上であり、生きるためには手段を選ばない。そこで正当な手段で生きられなければ、如何なる方法でも取る。生活が困難になれば土匪が増え乞食が増える。一時こうした横道に入ることを大して悪いと思わず、 世間でもそう咎めないし、 勇敢な者は匪賊となり、温順しいものは乞食となる。生活が安定すれば元の職業に帰り済ましている。彼等は如何なる苦境にあつても決して悲観しない。決めて楽天的で、避難列車に乗っている連中も女も老人も極めてのんびりしているし、中には一杯の焼酒に陶然となり、あるいは一、二銭の賭博に夢中になっているのもいる。樹の皮を喰ひ草の根を嚙っても生き抜くのである。また支那人には生の哲学がある。 たとえ無政府状態になっても、 社会の秩序は保たれて行く。彼等は政府を頼まず人を頼りにせず、自力で生きて行こうとする。そこで自治自衛が非常に発達している。 彼等の簡単な生活は、 世界到る所で活き抜いて行く。薄いセンベイ布団と極端なる粗食、 頑強なる体力は生存競争の大きな強味である。
同上書 p.80-82
十九世紀以降の支那の中央政権は清から中華民国へと交替したが、その統治力は地方までは十分に及ばず、地方ではさまざまな武装集団が出現し、村落の自衛組織もあれば、侠客集団や盗賊集団もあり、その中で反体制的・反社会的なものを「匪賊」あるいは「土匪」、満州では「馬賊」と呼んだ。彼らがどんなにひどいことをしていたかは、このブログで当時の新聞記事を紹介したので興味のある方は次の記事を読んでいただくとありがたい。



漢民族発展の経過
支那民族というのは漢民族であるのだが、なぜ彼らが周辺の民族を侵略できた理由について、長野は次のように解説している。
漢民族は西方から来って黄河の流域に定着したが、 神農氏*に至つて農業が起り、 爾來農業の民として今日に至り、現在でも支那人口の約八割は農民である。由来世界に於て大民族をなすものは農業の民である。支那を始めロシアの如きインドの如きアメリカもまた自国に農をもっている。
支那が数千年に亘って周辺の民族を侵略し得たのは、支那が農業の民であるのに、周辺の民は多く牧畜又は遊牧をやっていたからで牧畜は農業に敵わないのである。鍬の向う所土地は耕されて牧場を失い、次第に奥地に退いたのである。 支那民族の発展は鍬を以てなされた。剣を以て建てた国は剣の力が衰えれば消え去るが、鍬を大地に打ち込んだものは永久に土と結着して動かない。
*神農:支那の伝説上の皇帝
同上書 p.83
長野は支那が領土を拡大していく歴史を縷々解説しているのだが、移民を武器にして戦う事例はかなり昔から存在していたことが書かれている部分を紹介させていただく。次の文章を読んで驚かれる読者が多いのではないだろうか。
南支の広東・広西等は元来苗族の血統に属しているが、戦国(紀元前三~四世紀)の際に楚の支配下に入り、秦に至って大規模の植民を企て、 漢に至り、一部の土着民族をやはり揚子江北岸に移し、その跡に漢人を入れて雑居させ逐次これを同化するに至った。かくて漢人の勢力は南方に伸びた。
支那人は牧畜民族はこれを容易に駆逐し得たが、農耕の土着民族に対しては以上のような非常手段を常套し、 民族の大移動整理を行い、 手强い民族に対しては、 その民族の全部を挙げて他住せしめたことがある。これを「洗国」といつた。以上の例によつても明かなる如く、支那人と他民族との闘争は多く数百年を要し、極めて気長く行われている。 支那は古来幾多の民族を同化せしめた経験上、一民族を同化するには「八代三期説」なるものがあり、八代を三つ重ねた二十四代を要し、一代を二十五年とすれば、六百年を要しなければ完全なる同化は出来ないものとした。
同上書 p.87-88
秦は農耕の土着民族であった苗族全員を他の地域に強制的移住させたというのだが、「洗国」というおそろしい考え方が支那に存在していることは知るべきである。この話はおそらく秦の時代の苗族だけの話ではない。中国には苗族のほかにチワン族、満州族、回族、朝鮮族などの民族がいるが、それぞれ支那大陸のあちこちに散らされて生活させられているのは、いつかの時代に「洗国」が行われたということではなかったのか。
長野はこのように各時代の漢民族の侵略史を解説した後、次のようにまとめている。
以上数千年に亘る漢民族発展の跡を辿り、 これを今日の支那の民族運動と併せ考える時、漢民族と直面している日本としては、実に容易ならざるものがある。
なお漢民族発展の歴史を見て感じられることは、その発展が地についた極めて堅確なものであることである。
第一に漢人が強大な民族と接触し、その進入を防ごうとする時には、対外防備のため兵力を備える代りに、辺境に移民を行い、住民の障壁により之を防止すると共に、その土地を完全に漢人の居住地化する。例えばロシアの南進に対しシベリア境に移民し、またかつて日本に対し満州の東境に盛んに移住民を送った。支那の民族戦の立場から見れば、他民族がそこに移住定着するのを防げば宜いのである。他国が軍事的に占領するのは彼等の恐れる所でなく。他国がこれを占領しても、支那人がそこに居住し、土着して居れば宜いので、支那民族のものであることに変わりはない。
かつて章炳麟は日露の満州進出対策として、ここに千五百万の漢人を移住させれば、たとえロシアが取っても日本が取っても支那人のもので大丈夫だと言ったということであるが、これは支那民族運動の方向を示したものである。第二には漢人の領土侵略は、農業により一歩づゝ確実にその地歩を占めて行くことである。従ってその侵略戦には、必ず屯田及開墾を伴った。…中略…
第三には漢人の発展には第一に行商人が出発するが、 それはこれに続く軍の主力である步兵に当る農民のため騎兵の役割を果すものである。 商人によって土地を手に入れ、農民が行ってこれを耕作して土着する。この方法は満州に於て南洋に於て採用された。彼等の進出は飽くまで土着的である。
同上書 p.100-103
満州に大量の支那人が移住した

先ほどの長野の文章に章炳麟という名前が登場しているが、この人物は辛亥革命を思想面で支え、孫文・黄興と並ぶ「革命三尊」の一人とされているが、彼は満州族が建国した清国を滅亡させることに貢献しただけでなく、満州国に千五百万人の漢人を移住させる計画を立てたという。ところが、精緻な移住計画がなかったにもかかわらず、三千万人の漢人が満州に移住したのである。ではなぜ、それほど多くの漢人が住み慣れた土地を棄てて満州に移住したのかと誰でも思う。下の画像は昭和七年四月二十七日の大阪朝日新聞の記事で、大量の支那人が満州に移住していることを伝えている。

日露戦争の頃は、満州の人口は五、六百万と言われていて、内二、三百万は満州人で、漢民族は同様な水準であったようだ。ところが日露戦争後に満州はわが国が巨額の投資をすることでインフラが整備され、治安も保たれ、稼げる仕事も存在していたことから漢民族が急増し、一九三一年の満州事変前には既に三千万を突破していた。昭和の初期に毎年百万人に近い大移住が行われたのは、多くの漢人が天災人禍により生活が出来なくなったことが大きいという。長野朗は漢人の満州移住の原因を次のように解説している。
一 兵禍 山東は南北勢力の要路に当たっているため、北方軍閥の争覇戦から国民革命軍の北伐、 続いて反蒋戦と連年兵乱に悩まされ、 絶えず大軍が駐在しているために、人民に対する苛歛誅求が甚だしく、年一回の地租を三四回も取られ、また軍費の調達を申付けられるために、農民はその収益を挙げて租税に応じるも足らず、払わねば危害を加えられるので人民は難を避けて他に移住する。また絶えず戦場となっているため、交戦地帯では穀物は取られ、牛馬車両を徴発され、衣類夜具を取られ、耕種衣食の途を失し燃料の徴発により全村の樹木悉く伐り倒され、又軍隊が人民の財物を探し廻り、家屋や墻や床を破壊するため住居を失い、村落は全く荒廃し、家畜は掠奪され、田園は荒廃するに至る。 それに若者は人夫に強徴され、 あるいは兵卒として強制徴募され、更に甚だしきは殺人及婦女の凌辱を伴うため、難を避けて安住の地を満州に求むるに至った。
二 土匪 山東は昔から土匪の本場であって、大小の土匪は到る所に割拠し十数年来土匪の跳梁は益々甚だしくなったが、戦禍により生活の途を失ったものも土匪に堕し、加うるに戦争の結果は多くの潰兵を生じ、彼等は武器を持って土匪の群に投ずるため、土匪の中には機関銃、大砲をもったものもあり、大土匪団は数千の衆を擁して横行し、山東全省土匪のいない所はなく、殊に南部、西部が甚だしかった。土匪の著しき発達は、従来金持ちだけを襲っていたのが、少し金のある連中は安全な都市に逃れ去ったため、一般農民を苦しむるに至り、牛馬食糧品まで奪われるので、農民は全く生活の途を失い、 満州へ脫れ去った。 …中略…
三 天災 人禍に加うるに近年山東には天災止まず、山東省殊に西部地方は連年水害、 干害に見舞われている所に蝗害(イナゴの害)あり、 西部及西南部は三年間連続三四分作より一、 二分作に過ぎず、 昭和三年の蝗害では地下生產物の落花生を除いては、 一粒の穀物も生産しなかった地方もある。 東部は比較的良好で六、七分作を続けたが、昭和三年の春以来降雨なく、続いて蝗害が発生したため、 二分作にも達しない所があった。 華洋義賑回山東分会の調査では、災区面積五十六県、二十四万方支里、災民二千万人と称せられ、山東全部の約六割を占め、 被害地方の作柄は一分乃至二分であった。
四 その他の原因 軍閥が軍費捻出のため乱する不換紙幣により、 山東の金融界は混乱に陥り、 また銅貨濫造によりその下落を来し、 銅貨により生活する下層民の生活を脅かし、 物価の騰貴を来し、 大正十三年から昭和三年までの間に、 生活必需品の騰貴は最高六十五割、 最低五割、 平均二十割九にして、貧民は大に窮迫に陷った。
こうした天災人禍相集つて、 彼等は止って死するか、 満州に移住するか、その一を選ぶ外なきに至った。以上は山東の状況であるが、河北其他も大同小異であって、 北支那人民は相率いて満州に移住したのである。
同上書 p.197-201
支那にはこのような匪賊の不法行為を取り締まる力がなかったか、わざと取り締まらなかったかのいずれかなのだが、漢人の満州移住を促進するために匪賊の不法行為を放置して意図的に恐怖を煽ったのではなかったか。もしそうでなかったとしたら、自国の農民を殺害したり家屋を破壊したりするのをまともに取り締まらなかったのは何のためであったのか。

当時の新聞を調べれば、匪賊が酷い活動をしていたことを伝える記事をいくつも容易に見つけることができる。一九三一年の五月十四日の大阪時事新報は、共産土匪の暴虐により二十五万人が惨殺され、多くの人民が家屋を失ったり流浪の民となったことを報じているのだが、この時期に満州に移住者が増えたことと無関係であるとは思えない。
中国のバブルが崩壊して、今は都市部の失業者が公式発表で数千万人いると言われているが実際はもっとひどいと言われている。中国の歴史を振り返れば、このような時期に多くの民衆が国を棄てて世界に移住したことを忘れてはならない。もし中国経済の低迷が続き治安が悪化していけば、多くの人々は自国を棄てて海外に逃げようとするであろう。彼らがどの国を目指すかは不明だが、外国人の入国規制が甘く、入国後の待遇の良い国が狙われることにならないか。彼らの大半は子供の頃から反日教育に染まった人々であり、昭和初期の満州移住者も反日教育に染まっていたことを忘れてはならない。この国にとっては、大量移民は侵略の武器であり、反日に懲り固めておくことが武器としての移民の効果を高めることになると考えているのではないか。
過去の歴史を知らない政治家や官僚や財界人が推し進めている外国人政策がいかに危険なものであるかを、長野朗の『民族戦』を読んで気付いていただきたいと願う。この著作は呉Pass出版から復刻されているので、比較的容易に入手が可能である。
復刻 「民族戦」 長野朗著 呉PASS復刻選書51
GHQに焚書処分された長野朗の著作
GHQに焚書処分された書籍の中から長野朗の著作をリストアップすると以下の通りである。
| タイトル | 著者・編者 | 出版社 | 分類 | 国立国会図書館デジタルコレクションURL 〇:ネット公開 △:送信サービス手続き要 ×:国立国会図書館限定公開 |
出版年 | 備考 |
| 暗雲ただよふ満蒙 | 長野 朗 | 千倉書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1035335 | 昭和6 | |
| 現代戦争読本 | 長野 朗 | 坂上書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1262066 | 昭和15 | |
| 皇民読本 | 長野 朗 | 光生館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1044683 | 昭和17 | |
| 自治日本の建設 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1212913 | 昭和7 | |
| 支那三十年 | 長野 朗 | 大和書店 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1043891 | 昭和17 | 2020呉PASS出版で復刻 |
| 支那読本 | 長野 朗 | 坂上書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1877901 | 昭和11 | |
| 支那の再認識 | 長野 朗 | 大都書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1229071 | 昭和12 | |
| 新舞台支那 | 長野 朗 | 正信同愛会 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1255736 | 昭和11 | |
| 日本国民の生存と満州 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1719282 | 昭和6 | 満洲問題叢書 ; 第4巻 |
| 日本自治史観 | 長野 朗 | 建設社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1213215 | 昭和7 | |
| 日本と支那の諸問題 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1177647 | 昭和4 | |
| 満州の過去と将来 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1214236 | 昭和16 | 満洲問題叢書. 第5巻 |
| 満州の鉄道を繞る日米露支 | 長野 朗 | 支那問題研究所 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1872491 | 昭和16 | 満洲問題叢書 ; 第1巻 |
| 満蒙併合か独立か | 長野 朗 | 千倉書房 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1908644 | 昭和6 | |
| 民族戦 | 長野 朗 | 柴山教育出版社 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1683868 | 昭和16 | 2020呉PASS出版で復刻 |
| 民族問題概説 | 長野 朗 | 小学館 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1045098 | 昭和16 | |
| 遊撃隊遊撃戦 | 長野 朗 | 和泉書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1138504 | 昭和15 | |
| 遊撃隊遊撃戦研究 | 長野 朗 | 坂上書院 | △ | https://dl.ndl.go.jp/pid/1062843 | 昭和16 |
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