漢人は満州の朝鮮人を圧迫した

前回記事で、もともと漢人が殆んど住んでいなかった満州と東蒙古に大量の漢人を移住させて満州人を追い払い、漢人の支配地としたことについて書いたが、満州には清朝末期以降に鴨緑江、豆満江を渡って南満洲に移り住んだ朝鮮人もかなりいた。漢人は、満州人、東蒙古を取り込んだのち、次は満州に住む朝鮮人を圧迫することとなる。

当時は朝鮮との国境に近い間島州に満州にいる朝鮮人の約八割が居住していて、なかでも琿春県は特に人口が多く朝鮮人も多かった地域である。長野の『民族戦』には、漢人が満州の朝鮮人を圧迫していたことが具体的に書かれている。文中の「支那官憲」は奉天軍閥(主に張作霖)の役人で、満州の朝鮮人は支那官憲から圧力をかけただけでなく、地主などからも搾り取られたうえ、匪賊にも襲われたという。
満蒙人を屠った漢人は、次で朝鮮人に対する圧迫を加えて来た。満州には朝鮮人が百万乃至二百万いた。清朝の時満州は一時荒廃し、朝鮮境には一帯の中間地帯が設けられたが、清末に至り鮮漢双方の民族が潜かに侵入し、支那ではここに県を設けた。かくて両民族の接触が始まった。
朝鮮人の最も多く居住するのは間島および琿春地方で、その他各地に散在し、大部分は地方にあって主として農業に従事し、都市にあるものは少い。その大部が東部朝鮮境に近い方面にあることは勿論である。
朝鮮人の移住者は朝鮮内に於ける生活難から来たもの、日本の統治に不満を抱いて逃げ出したものである。彼等は支那人所有の未墾地を開墾して小作をなし、開墾期間の食糧又は耕牛のないものは秋の收穫を引当てに支那人地主から借金するが、六ヶ月で数倍という高利である。 それに間島の外は土地所有権が得られず、 加うるに支那官憲の誅求、土匪の被害、不逞鮮人農民の強徴等でかなり窮狀にあった。 朝鮮人農民のうち七割は畑作に従事し、他の三割は水田耕作に従事し、水田は朝鮮人の独壇場見たやうなものであった。鮮漢民族の接触はここに支那人の朝鮮人圧迫となり、 昭和二、三年頃殊に甚だしかったが、 その余燼は満州事変まで続いた。朝鮮人圧迫の原因は数年あるいは十数年来潜在する朝鮮人排斥の気勢が、戦禍を避ける支那移民の激増、我が満蒙積極政策に対する誤解、 支那の利権回收熱の勃興等により激成され、支那官憲により計画的に行われるに至った。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.220~222
長野の指摘については昭和二年十月に朝鮮総督府が刊行した『満洲及西比利亜地方に於ける朝鮮人事情』p.38に同様の事が記されていることを確認できる。
漢人が満州の朝鮮人を圧迫した原因
ではなぜ漢人は満州にいる朝鮮人を圧迫したのであろうか。日韓併合は明治四十三年(1910年)のことであるが、満州支配を狙って大量に移民を送り込んでいた漢人たちは、満州に住む朝鮮人は日本の手先であり駆逐すべき存在であると考えたと長野は述べている。
長野は同上書に、漢人が朝鮮人を圧迫した原因について、政治的原因と経済的原因があったとまとめている。
当時に於ける朝鮮人圧迫の原因と見られるものは、 第一には政治的原因である。 彼等は日本を恐れる結果は日本国民としての朝鮮人の侵入に対して警戒を始めるに至った。更に張作霖が日本の満蒙積極政策の牽制策として利用し、 支那全国に盛んになった利権回收熱が加わって來た。支那は日本が満州に有する二つの大なる勢力である満鉄と在満二百万の朝鮮人の駆逐を考へた。彼等は在満朝鮮人を日本の手先と見たのである。また支那の官憲では、管内に朝鮮人が居住すれば、種々の外交問題を惹起し、甚だ迷惑であるため、その煩瑣を嫌ってこれを追ひ出そうとする。また張作霖は吉会線*の敷設により朝鮮人の移住の増大をおそれ、それ以前に防止の方法を講ぜんとし、また軍費に窮した結果、帰化料として巨額の手数料を搾取せんとした。
*吉会線:吉林と会寧を結ぶ線路次に経済的原因としては、 第一には漢人の澎湃たる満州移住、 殊に満州東部への進出は、ここに朝鮮人の進出と衝突し、支那官憲は支那人に職を与えるため朝鮮人を圧迫した。
第二には朝鮮人は水田経営上特殊の技能を有し、各地に水田を拓いたが、水田の收入は畑地に比し二、三倍も多いので、支那人もやがて其有利なるを知り、その技術と経営の方法を習得するや、これを回收せんと企てた。
同上書 p.222-223
満州では日本人も匪賊に襲われるようなことがあったのだが、日韓併合以降同胞となった朝鮮人が漢人に随分ひどい扱いを受けていることが問題となり、満州にいた日本人と朝鮮人を守るために支那の暴政を断ち切ろうとするわが国の動きが、満州を奪い取ろうとしていた漢人の利害と衝突した。その流れの中で昭和六年に満州事変が起き、満州人が起ちあがって満州国の設立されたという認識が戦前の多くの日本人に共有されていたと思うのだが、戦後はこのような視点から満州を論じることがタブーにされてしまっている。
漢人は満州の朝鮮人をいかに圧迫したか
当時の朝鮮人は大体白い服を着ていたのだが、満州の朝鮮人は支那の服を着ることを強制され、言葉も文字も名前もすべて支那風に改めさせようとしたという。従わない場合は退去せざるを得なくなる状態に追い込んでいく。これが漢人の伝統的な同化政策であり、その後チベットやウィグルにおいても同様な同化政策を実行してきたことをわが国のマスコミが報じることは皆無に近い。
長野は支那官憲が満州の朝鮮人にどのような圧迫をしたのかについて次のように記しているが、このようなことをされては、いずれ民族の言葉も文化も消滅していくことにならざるを得ない。
支那官憲の朝鮮人に対する方策には二つの方法が採用された。一つは朝鮮人の同化政策であり一つは朝鮮人の圧迫排斥である。
同化政策は漢民族が数千年来その周囲の同族に対して採り来ったところのもので、その常用手段は次の点にある。
1 言語文字を漢人と同一ならしむる。
2 漢人の姓名を名乘らせる。
3 服裝習慣居住等を漢人と同一ならしむる。
朝鮮人に対しても之の方法を採用し、朝鮮人が白衣を着ることを禁じ、玄那服を着用せしめ、また支那語を語らしむる等、従来と同じ方法に出た。次に朝鮮人に対する圧迫は昭和二年頃から始まった。即ち朝鮮人の居住を圧迫しあるいは退去を命じ土地の貸借を困難にし、その收穫せる農作物の自由販売を制限し、朝鮮人小学校を閉鎖する等、種々の方法を採用した。かくて昭和二年に起った支那側の圧迫事件は百六十六件に及び、その中で居住権及小作権に関するもの百十一件に達している。
同上書 p.223-224
満州の朝鮮人を圧迫したのは支那官憲ばかりではなかった。漢人の地主や商人たちも朝鮮人に対して随分ひどいことをしていたことが記されている。もし漢人が満州を狙っていなかったとしたら、満州人や朝鮮人、日本人と共生する努力をしていたら、満州事変などは起こらなかったのではないか。
こうした支那官憲の圧迫のほかに、支那人地主の朝鮮人小作人圧迫もこれに劣らないものがある。支那人は軍閥官吏から商人地主に至るまで搾取的な民族である。殊に弱者を搾取すること至らざるなしで、官憲の態度が朝鮮人圧迫に向うや、彼等の搾取本能は極度まで発揮された。
朝鮮移民は自ら資を備えて土地を購入するもの少く、多くは徒手空拳のものであるから、開墾期間の食糧及耕牛を支那人に借りなければならぬ。ところがが支那人地主は甚だ狡猾な手段を取り、大豆一石が十五円くらいの時に一石貸付けて十五円の証文を書かせ收穫時五円くらいに下った時に三石払い込ませて三倍の利を得る。もし不作で払えなければ、妻子を取上げて奴隷にする。また耕牛を貸借するには一頭に大豆四斗位取るから、 これも不作で払えなければ同樣な目に遭う。
商人は品物を高く売り付け、その代償として穀類を安く引取って二重に儲け、払えない分は酷い高利にして田地から妻子までも取上げる。
営口付近で水田に従事している朝鮮人は、小作料として收穫の七割を取られ、自分の手には三割しか残らぬ。その僅かな米を売るのに、 支那人地主は朝鮮人小作人の直接に売却するを許さず必ず地主の手を経て売却させるから、 そこでまた三割くらいのコミッションを取られ、結局朝鮮人小作人の手に入るのは收穫の二割くらいとなり、その僅かな金で粟を買入れて生きて行くのである。
それに小作契約期限はだんだん短くなるし、小作条件は苛酷になるばかりだし、水田でも少し巧く行ったかと思うと、支那人の妨害で水の供給を止められたりして、耕作が出来なくなり、開墾が出来あがった頃には取上げられ、他に未墾地を搜さねばならなくなる。しかるに支那人の方は官憲からただ見たようにして土地の払下げを受け、それを朝鮮人に開墾させて取上げる。 あるいは官憲と結托して朝鮮人の既墾地を横領して納まっている。
こうした朝鮮人の圧迫も満州事変の有力な一因であった。 今日では朝鮮人の移住も自由に出来るようになったが、漢人の基礎既に強く大した発展は出来ない。
同上書 p.225-227
満州事変の支那敗残兵や匪賊に虐殺された朝鮮人

長野の文章は、満州にいた朝鮮人が支那官憲や支那地主や商人から虐待された話が中心だが、その後間島では朝鮮人が匪賊あるいは馬賊と呼ばれる盗賊集団に襲われる被害が頻発したことがわが国の新聞でも報じられている。そして一九三一年九月に満州事変が起きた後、満州の朝鮮人の多くが支那の敗残兵や匪賊に虐殺されている。

昭和六年に刊行された『満蒙問題の検討 (教化資料 ; 第110輯)』に満州の朝鮮人から多くの犠牲者が出たことが記されているが、これは意図的に朝鮮人が狙われた可能性が高いのではないだろうか。
また、朝鮮人側の調査によれは今回の事変にて全満に於ける同胞が支那兵及び馬賊によつて蒙った損害は左の如き驚くべき数に達している(奉天十月二十四日発電)
(一)支那兵匪*に虐殺された者一千九百名
(一)満鉄沿線に避難せる者一万三千余名
(一)行方不明の者四千五百名なほ右の損害は北満に多く南満においては開原、 鉄嶺、 通遼、 西豊各地の被害が特に多い。
*兵匪:軍隊と匪賊(馬賊)。匪賊のように盗賊と化した兵隊。
佐々井一晁 著『満蒙問題の検討 (教化資料 ; 第110輯)』中央教化団体連合会 昭和6年刊 p.116
当時の記録では、支那兵はすぐに逃げることが多かったのだが、もしかすると支那兵は日本兵と戦うことが目的ではなく、敗残兵となって朝鮮人を満州から排除する目的があった可能性を否定することができない。朝鮮人をターゲットにして敗残兵や匪賊が掠奪や残忍な行為を繰り返せば、誰しも生命の危険を感じてより安全な地に移り住もうと考えるのが普通で、そうすることで満州の地には抵抗する朝鮮人がいなくなるのだ。

満州事変直後の新聞記事を探すと、十月十二日付の大阪時事新報の記事が見つかった。この記事は淡々と事実だけを報じているが、『満蒙問題の検討』には十一月二日付の東京朝日新聞の記事が引用されている。この記事で書かれていることは、戦後の歴史叙述の中では長い間タブーにされてきたもので、戦後の歴史教育に疑問を持つ人も持たない人も外国人の方にも、真実を知りたい方に是非読んでいただきたい内容である。(文中の「馬賊」は騎馬武装していた匪賊。)
在満八十万の鮮農にこの暴虐を見よ!
【奉天十月三十一日発電】今度の満州事変で残虐な支那敗残兵と馬賊のためにその生活を根底から破壞され丸裸の飢餓線にまで追い詰められたのは八十万の在満朝鮮人であった。鬼畜にひとしいこれら敗残兵、馬賊の過ぎるところ満州の里に働く朝鮮人は虐殺放火掠奪の台風の中に卷き込まれ、後には泣くに泣かれぬ飢餓と荒廃とだけが残った。最も被害の甚だしいのは、彼の北大營を追はれた王以哲の敗殘兵が通り魔の如く通過した開原鉄巓間の満鉄線と、瀋海鉄道沿線の間にある地帯で、惨殺されたもの大甸子等の鉄嶺領事館管内だけでも六十六名に上り、 吉林でも百二十名、 鄭家屯通遼方面でも多数あり、目下判明せるものだけでも殺害されたものの総数は二百五十名乃至三百名という悲劇的な数字を示した。
これ等被害者の大部分は水田や河辺に平和に労働しているままの姿で無残に虐殺されたもの、子に乳を与える母がそのまま胸板を射抜かれたもの、耳から銃剣で通されたもの、繩を通して引かれながらなぐり殺しにあったもの、いながらにして家共焼かれたもの、更に北寧線の興隆線付近ではこれら暴徒の手から山に逃れた鮮農夫婦が赤子の泣声から自分の在所を発見されることを恐れて暗夜の山に子を窒息せしめたもの等、全く想像を絶する深刻な悲劇の主人公とで、満州の山野に塗炭の苦しみを嘗めさせられているのである。かくてこれら多数朝鮮人は兵賊馬賊の横行する奧地の居住には遂に堪えられず、 命の綱の水田を後にして都会の安全地帯に向って絶望的な移動をはじめた。十五日にはチチハル、昂々溪方面の朝鮮人は邦人の引揚命令によって現在ではほとんど一人も居なくなり、鉄嶺付近でも一時は八分通り引揚げ、又現在各都会地への避難朝鮮人は鄭家屯の六百六十二名を筆頭として、四平街の四百九十九名、吉林の四百十二名をはじめ、 奉天百八十八名、 撫順百七十五名、 営口二百五十八名、 長春二十五名、 鉄嶺一百七十四名、安奉二十七名という状態で、しかも彼等はいずれもこの厳寒の冬に入って全く着のみ着のままで、食うにあてもなく働くあてもない飢餓状態である。
しかもこれ等朝鮮人は実際の満州水田の開拓者にして満州の大恩人である。即ち現在の満州にある朝鮮人八十万の内吉林省間島にあるもの四万人、それ以外の吉林省内二十万、 北寧省十万、 その他満州各地十万といふ数字で、 九割まで水田に従業する農民だ。支那人はこの水田耕作を知らず、放っておいてあった山間の荒れ地を開こんして水田といふオアシスを荒凉たる満州の野に変えたパイオニアは実にこの鮮農であった。 この水田のために不毛の地の收穫は増して地価は上り支那地主も喜べばまた官憲も税金が入るので歓迎し同時に鮮農は満州の農村に共存共栄の父でさえあった。
しかるにやがてはこれ等鮮農も日本の満蒙侵略政策の先駆だなどと曲解されるようになりまた国民政府が出来ると同時に内乱や飢餓関係から満州に流入する支那本部からの移民が三十万から一躍万に増するに連れ、更に共產党嫌疑の口実等もからませ朝鮮人圧迫が強くなり、朝鮮取締令や国土盗売令等によって土地の購入が出来なくなり、遂にこの両三年来は小作の契約五年より三年、一年に短縮され、果ては小作契約どころか単に雇用契約を結んで労苦に服するまで追い詰められ、最近ではそれさへも行き詰って支那式が一緒になって駆逐させるという惨たんたる有樣となり、水田開拓の恩を仇に政治的経済的圧迫が加速度的に激しくなり、在滿朝鮮人問題は根本的打開策を講じなければならぬ発火点にまで切迫して来た。今春来上達海問題をはじめ通遼の都業公司農業問題、萬宝山事件等で朝鮮人圧迫駆逐問題はつぎつぎに頻発し、いよいよ官民一致せる鮮農駆逐策となって現われて来たところへ今度の満州事変で哀れ在満八十万の鮮農は支那敗残兵と馬賊のあくなき暴虐行為の的となったというのが隱すことの出來ない事実である。…以下略…(十一月二日東京朝日)
満州事変は長野朗の述べている通り、支那の仕掛けた「民族戦」であったと理解すべきだと思う。漢人は満州を奪い取るためにまず蒙古人を追い払い、満州人を漢人に同化させ次いで朝鮮人を圧迫した。次のターゲットは日本人となるのだが、その点については次回に書くこととしたい。
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