廃藩置県で政府は県名や県庁所在地をどういう基準で決めたのか

版籍奉還から廃藩置県、府県統合

府県名が決められた基準

 前回の「歴史ノート」で、明治四年(1871年)七月に廃藩置県が行われた時は、藩名をそのまま府県名に読み替えて、府県の数が全部で三府三百二県であったのだが、同年十月から十一月にかけて第一次府県統合が行われて三府七十二県となり、その後も県の合併が行われ、明治五年に三府六十九県、明治六年に三府六十県、明治八年には三府五十九県、明治九年(1876年)には三府三十五県(第二次府県統合)となり、さらに明治十四年(1881年)には堺県が大阪府に編入されて三府三十四県となったことを書いた。
 当初の県名の八割近い二百三十三県がわずか一年で消滅し、その後も府県統合でさらに約五割の県が消滅したのだが、こういうことが行われた時に必ず揉めることになるのは、合併後の県の名前をどうするのかという問題である。大きな藩が一つだけであれば話は簡単だが、そうでない場合はどこの藩も名前を残そうと考えるものなので、話し合いで簡単に決まるものではない。おそらく明治政府が決めて有無を言わさずに押し付けたものと思うのだが、政府はどういう基準で新しい県の名前を決めたのであろうか。

宮武外骨

 『国立国会図書館デジタルコレクション』で、昭和十六年(1941年)に出版された宮武外骨著『府藩県制史』という本がネット公開されている。この本には非常に興味深いことが書かれている。

賞罰的県名 順逆表示の史実

トコトンヤレの勇士を出した忠勤藩
  錦の御旗に刃向かった朝敵藩
   洞ヶ峠の日和見であった曖昧藩
    葵の紋がついた親類筋の拱手藩

 昨冬『府藩県制史』編纂の資料整理中、図らずも天来的の痛快事に接した。イヤ痛快事と言うよりも、明治史上には逸すべからざる順逆表示の史実、永久不滅の賞罰的県名と見るべきことを知りえたのである。それは廃藩置県後たる明治四年十月より五年六月までの間に改置した県名は、忠勤藩と朝敵藩とを区別するため、忠勤藩即ち皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名には藩名をつけ、朝敵藩すなわち錦の御旗に刃向かった大藩、および早く帰順を表せず、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名には藩名をつけず、郡名または山名川名などを県名としたということである。

(宮武外骨 著『府藩県制史』名取書店 昭和1六年刊 p.89)

 忠勤藩であったA藩には「A県」という名前を与え、朝敵藩や曖昧な態度をとったB藩は「B県」とはせずに、小さな郡の名や、山の名、河の名から県名が付けられたというのである。あくまでも宮武外骨の説なのだが、実際に見てみると結構説得力があるのである。

忠勤藩は藩名がそのまま県名にされた

 まず忠勤藩の事例を見ていこう。

 維新偉業の先達大藩、薩長土肥の四藩を始めとし、西より東へ漸次列挙する

 廃藩置県後全国二百六十一藩をことごとく藩名を県名とした。(百万石の家が金沢藩が金沢県、十万石の美濃大垣藩が大垣県、一万石の河内丹南藩も丹南県となったのである)

 鹿児島藩のあった薩摩国に鹿児島県
 山口藩(萩藩移動)のあった長門国に山口県
 高知藩のあった土佐国に高知県
 佐賀藩のあった肥前国に佐賀県
 福岡藩のあった筑前国に福岡県
 鳥取藩のあった因幡国に鳥取県
 広島藩のあった安芸国に広島県
 岡山藩のあった備前国に岡山県
 秋田藩のあった羽後国に秋田県

 この忠勤九藩名の八県名は、ことごとく明治四年十一月二日より同月二十二日までの間に、廃藩置県の際における藩名に同じ県名をいったん廃止され、さらに同県名に復したのである。佐賀県だけは明治五年五月二十九日に旧伊万里県を改称した復県。

(同上書 p.90~91)

 例外がないわけではないのだが、宮武は例外事例について次のように解説している。

 藩名の県名に疑問らしいのが四つある。それは朝敵福島藩のあった岩代国に福島県、朝敵山形藩のあった羽前国に山形県、親類筋福井藩のあった越前国に福井県、徳川家和歌山藩のあった紀伊国に和歌山県があったこと。

 しかしこの疑問は解決がつく。福島藩は明治元年十二月に三河国碧海郡に入封されて重原藩となり、それで福島藩は消滅し、同二年七月に福島県が新置されたのであり、山形藩は明治三年七月に近江国浅井郡に移封されて朝日山藩となり、それで山形藩は消滅し、同三年九月に山形県が新置されたのであり、二藩二県とも廃藩置県前の廃藩と置県で、明治四年、五年の廃合改置には関係がない。

 次に福井藩の福井県は明治四年十二月に越前国足羽郡の郡名によって足羽県と改称されたので、明治五年に福井県はない。現在の福井県は明治十一年二月に、石川県滋賀県の管轄地を分割して再置されたものである。 最後の和歌山県
 和歌山藩(徳川三家の一。紀伊國名草郡和歌山) 徳川家の名古屋藩が愛知県、水戸藩が茨城県であるに、同じ徳川家の和歌山藩を何故郡名による名草県としなかったと言うに、慶応三年末大号令煥発の際、鷲尾隆聚がいち早く紀州邸に駆けつけてその事を告げたるに、闔藩(こうはん:藩全体)挙って反意なき旨を答えたという説が伝えられており、かつ家茂将軍と和宮様との関係で和歌山藩が疾くに(とくに:すでに)恭順の意を表したという説などもあり、名古屋藩水戸藩などと同一に見なかった好感で和歌山県としたのであったらしい。

 静岡藩のあった駿河国に静岡県安部郡府中の府中藩――改称静岡藩。これは徳川代将軍慶喜が朝廷に降伏して恭順を表し、江戸城をも明け渡したので、家計を存続せしむべく後嗣とした田安亀之助(徳川家達)を七十万石の府中藩主とし、その府中藩を静岡藩と改称したのであるから、他の順逆大名とは格違い、明治政府が新設した藩である。それを静岡県とするのは当然であろう。

(同上書 p.91~92)

朝敵藩、曖昧藩の名前は県名に残されていない

 次に朝敵藩、曖昧藩の事例を見ていこう。

 廃藩置県後、藩名を県名とした姑息県名、および明治四年九月上旬より十一月下旬までの三か月間に合併併合した県名には藩名もあるが、同五年正月後に朝敵藩名の県名はない。

 曖昧藩 熊本藩の熊本県を肥後国小川名の白川県と改称、再置の熊本県は九年二月
 朝敵藩 松江藩の松江県を出雲国島根郡の島根県と改称、それが現存
 朝敵藩 姫路藩の姫路県を播磨国飾東郡の飾磨県と改称、九年八月兵庫県に合併
 朝敵藩 松山藩の松山県を伊予国高山名の石鐵(いしづち)県と改称、六年二月愛媛県と改称
 曖昧藩 宇和島藩の宇和島県を伊予国神南山の神山県と改称、石鐵県と合せ愛媛県
 朝敵藩 高松藩の高松県を讃岐国香川郡の香川県と改称、再三廃合復県、現存
 曖昧藩 徳島藩の徳島県を阿波国名東軍の名東県と改称、再置の徳島県は十三年三月
 朝敵藩 桑名藩の桑名県と曖昧藩津藩の津県を廃して三重郡四日市の三重県
 徳川家 名古屋藩の名古屋県を尾張国愛知郡の愛知県と改称、それが現存
 徳川家 水戸藩の水戸県を常陸国茨城郡の茨城県と改称、それが現存
 曖昧藩 金沢藩の金沢県を加賀国石川郡の石川県と改称、それが現存
 同分家 富山藩の富山県を越中国新川郡の新川県と改称、再置の富山県は十六年五月
 朝敵藩 小田原藩の小田原権を相模国足柄郡の足柄県と改称、九年四月廃止、神奈川県
 朝敵藩 川越藩の川越県を武蔵国入間郡の入間県と改称、六年六月廃止、熊谷県
 曖昧藩 岩槻藩の岩槻県を武蔵国埼玉郡の埼玉県と改称、それが現存
 朝敵藩 佐倉藩の佐倉県を下総国印旛郡の印旛県と改称、六年六月廃止、千葉県
 曖昧藩 土浦藩の土浦県を常陸国新治郡の新治県と改称、八年五月廃止、茨城県
 朝敵藩 松本藩の松本県を信濃国筑摩郡の筑摩県と改称、九年八月廃止、長野県
 朝敵藩 高崎藩の高崎県を上野国群馬郡の群馬県と改称、それが現存
 朝敵藩 仙台藩の仙台県を陸前国宮城郡の宮城県と改称、それが現存
 朝敵藩 盛岡藩の盛岡県を陸中国岩手郡の岩手県と改称、それが現存
 朝敵藩 米沢藩の米沢県を羽前国置賜郡の置賜県と改称、九年八月山形県に合併

(同上書 p.92~94)

賞罰的な考え方で府県名を定めたのは誰の発案か?

 宮武はこの話を個人の思い付きで記しているのではなく、渡邊修という老人から聴いた話と記しているのだが、この老人は明治時代の半ば頃に大蔵省預金局長、千葉県知事等を歴任した兵頭正懿という人物の話で知ったという。
 実際にそのような賞罰的な考え方で府県名が決められた可能性があるような気もするが、誰の発案でこのような考え方が決定したかについては、宮武は、当時は大蔵省が府県監督の専任であり、大蔵大輔であった井上薫の案を大蔵卿の大久保利通が賛同したのであろうと推定している。

三條實美(Wikipediaより)

 では、なぜこのような考えで廃藩置県に臨んだことを明治政府が公表しなかったのだろうか。
 その点について宮武はこう記しているが、文中の三条実美の発言がどの記録に残されているかについては言及していない。

 それは明治政府の態度を察するに、各藩に対し極めて寛大の処置を執り罰すべき罪をも赦した事実が多くあり、只管(ひたすら)旧藩臣の緩和を計った上より見て『士族の反感を買うような賞罰的県名は良くない、かつまた宏量たるべき政府としてはアマリにコセツイタ案である。既に発表した県名、今更取り消して改称するにも及ばない、命名の理由など知らさず、黙っていろ』という温厚な三条太政大臣の意見があった結果、秘して世間に伝えしめなかったのであろう。

(同上書p.97)

県庁所在地についての司馬遼太郎の説

 司馬遼太郎が『街道を行く(3)』でこのようなことを書いていることを旧ブログで紹介したことがある。

司馬遼太郎

 明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である

 薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
 長州藩-山口市が山口県。
 土佐藩-高知市が高知県。
 肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
 戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
 筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
 これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした
 戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。

司馬遼太郎『街道を行く(3)』

  旧ブログでは、「この説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和十六年(1941)に『府藩県政史』という本で書いたものらしい」と書いたのだが、今回『府藩県政史』を実際に読んでみると、宮武は県庁所在地については何も触れていなかった
 しかしながら、そもそも明治二年の版籍奉還に於いて、藩名のほとんどは藩の中心都市の名前に変えられていて、薩摩藩は鹿児島藩、土佐藩は高知藩、加賀藩は金沢藩、尾張藩は名古屋藩、芸州藩は広島藩などとなっている。明治四年七月十四日に廃藩置県が実施された当初の府県名は、府県庁所在地のある都市名と県名が同じであったのだが、その後宮武の言うところの朝敵藩、曖昧藩、拱手藩であった県の名前が変更されているのである。
 したがって、司馬が「藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」と書いていることと、宮武が「忠勤藩即ち皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名には藩名をつけた」と言っていることは同じことを言っていることになる。

廃藩置県後送り込まれた政府役人の受難

 ところで、この『府藩県政史』を読み進んでいくと、廃藩置県の際に明治政府が送り込んだ役人が、士族たちから強い抵抗を受けたという話が各地で起こっていたことがわかる。
 例えば、埼玉県について宮武はこう記している。

 太政官は忍(おし)藩の忍県、岩槻藩の岩槻県、川越藩の川越県と従来の浦和県を合わせて一県とし、県庁を埼玉郡岩槻町に置くことにして郡名を採った埼玉県と称したのである。しかるに役人どもが此処へ来て威張られてはタマラナイ。県庁をこの岩槻町へ置かさせない事にせねばならぬと決議し、仮庁舎とするはずの香林寺住職を威嚇して、寺を県庁に貸させぬことにした。一方埼玉県知事野村盛秀は、強いて岩槻に行けば士族たちに暗殺されるかもしれない。イッソ此処に居るのが安全と決定して、旧浦和県庁の所在地たる足立郡浦和鹿島台に居座ることになったのである。

(同上書 p.123)

 三つの藩が合併して埼玉県が誕生したのは明治四年(1871年)の事だが、同様なことが同じ年に印旛県でも起きたという。
 また、石川県、新川県(富山)の事例も紹介しておこう。

 不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。
 富山藩については富山県を改めて郡名の新川県としたのであるが、この富山も金沢同様、旧藩の士族どもが威張っていてそれを避けるため、県庁を富山へ置かず、同郡の魚津という海岸へ置いた。これも富山の士族が、魚津のような所では不便で困ると言って、県庁の移転を要求することになったので、後に富山へ帰ったのである。

(同上書 p.123)

 中には不平士族に暗殺された県令もいる。

 熊本県は明治四年(1871)に白川県と改められ、その後明治六年(1873)に八代県と合併し、明治九年 (1876)に再び熊本県に改名されているが、その年に熊本県令の安岡良亮は不平士族の連中に傷つけられて死亡している。 

 このような記録を読むと、廃藩置県の実施にあたり政府が役人を送り込むことに抵抗する活動が各地に起こっていて、明治政府は、不平士族の多い旧藩都に県庁を置くことが困難なため、比較的安全な場所に県庁を設置せざるを得なかったというケースが少なからず存在したと判断せざるを得ない。
 宮武外骨も司馬遼太郎も藩名を県名にしなかったのは「懲罰」的な意味があったと書いているのだが、そういう事例ばかりではなかっただろう。石川県や富山県などの事例を普通に読めば、旧藩都に県庁を置かなかったことを「懲罰」と表現することが適切とはとても思えない。不平士族の多い県では、政府が、旧藩都に県庁を置くことができなかったと言うケースが、相当数あったのではなかったか 

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内容の詳細や書評などは次の記事をご参照ください。

コメント

  1. 陽士 より:

    サイト内のリンクから国立国会図書館デジタルコレクションの『府藩県制史』p.89~97までを読みました。
    宮武骸骨と司馬遼太郎は懲罰的意味合いで、県名をつけたと主張していますが、しばやんさんの不平士族や県令殺害の例を読むと一概に其れであるとは言い切れないことを知る事が出来ました。
    (原本には、旧字などが用いられており読むのに苦労しました。)

    • しばやん より:

      陽士さん、コメントありがとうございます。古い記事を読んでいただいてとても嬉しいです。
      むかし司馬遼太郎の説を読んで、「なるほど」と簡単に納得してしまった自分なのですが、色々調べてみるとそんなに単純なものではなかったことがわかります。
      確かに戦前の書物の原本を読むのには苦労しますね。私も慣れるのにかなり年月がかかりました。少年少女向けに書かれた本は比較的読みやすいので、そのような本から読み始めると良いと思います。

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