菅原道真と北野天満宮
菅原道真は宇多天皇のもとで政治手腕を存分に発揮し順調に出世していったが、寛平九年(897年)に醍醐天皇が即位すると、父親の宇多天皇は上皇となり、関白・藤原基経の子の藤原時平が左大臣に就任し、道真は宇多上皇の意向で右大臣に抜擢されている。
しかしながら藤原時平は道真の出世を快く思っておらず、醍醐天皇も宇多上皇の影響力の排除を考えていた。昌泰四年(901年)藤原時平の讒言により、菅原道真は北九州の大宰府に左遷され、その二年後に没して同地(現大宰府天満宮)に葬られたのだが、その後京で異変が相次いで起こったのである。
まず、延喜九年(909年)に道真の政敵であった藤原時平が三十九歳の若さで病死し、延喜十三年(913年)には道真の後任の右大臣源光が死去。
延喜二十三年(923年)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長三年(925年)にはその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死している。
極めつけは延長八年(930年)、朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて一週間後に崩御されたのである。
そればかりではない。道真の没後に、京都では洪水や大火、伝染病などの災害が相次いでいる。『扶桑略記』という書物によると、延喜十年(910年)洪水、延喜十一年(911年)洪水で多くの町屋が破損、延喜十二年(912年)洛中で大火、延喜十三年(913年)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜十四年(914年)洛中で大火、延喜十五年(915年)水疱瘡が大流行、延喜十七年(917年)渇水になる、延喜十八年(918年)洪水が起こる、延喜二十二年(922年)咳病が大流行、と次から次と災害が起きているのだが、朝廷はこれらすべての出来事が菅原道真の祟りによるものと考えたのである。
朝廷は道真の怨霊を鎮めるために、延喜二十三年(923年)に死んだ道真を右大臣に復したのだがその後も不幸な事件が続き、天暦元年(947年)に北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。のちに社殿は藤原師輔(藤原時平の甥)により、壮大なものに建て替えられたという。
永延元年(987)には一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されて「北野天満天神」の勅号が贈られたという。また正暦四年(993年)五月には道真は正一位左大臣、同年十月には太政大臣となっている。
その後、菅原道真を「天神さま」として信仰する「天神信仰」が全国に広まっていったのだが、江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れて、学問の神として広く信仰されるようになり、今日では「天神さま」は受験の神様として、厚く信仰されている。北野天満宮のホームページによると、全国には「天満宮」「天神社」が約一万二千あるのだそうだが、どこに行っても志望校合格祈願の絵馬が多数掛けられている。
神仏混淆が禁じられる前後の北野天満宮
今では北野天満宮は神社だが、明治初期までは神仏混淆であり、境内に多くの仏堂が存在していた。
上の画像は安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会』巻之六にある北野天満宮の挿絵で、東南の隅の多宝塔のほかに、東門の近くに鐘楼があり、西側には朝日寺、毘沙門堂、経蔵が描かれているのだが、明治初めの神仏分離により境内に於けるこれらの仏教的施設は総て取り払われてしまった。また長い参道の両脇には昔は多くの宿坊が建ち並んでいたのだが今は現存せず、参道の横に宿坊の名前が刻まれた石灯篭が数多く残されているだけだ。
北野天満宮は明治四年(1871年)に「北野神社」に改名させられたのだが、明治政府の考えでは、「宮」を名乗るためには祭神が皇族であり、かつ勅許が必要であったようで、「北野天満宮」の呼称に復活したのは、戦後になって国家神道を脱したあとのことだという。
『神仏分離史料 第一巻』に仏教史学者・鷲尾順敬の「北野神社神仏分離調査報告」が収録されており、神仏分離前後の北野天満宮のことがこのように記されている。
本社内陣の上に、御正體十一面観音像一面が掛けられ、挟侍に不動毘沙門の二像二面が掛けられていた。
尚足利義持の奉納にかかる御正體南鐐銀の十一面観音像二面、木造不動毘沙門の二像二面が掛けられていた。
拝殿の正面に鰐口を掛け、拝殿の中央に大なる香炉が置かれてあった。
本社の勤行は、別当職祠官三家以下社僧が出仕し、天台宗の儀式に依ったものである。
(『明治維新 神仏分離資料 第一巻[複刻版]』名著出版 昭和45年刊 p.386~387)
今の本殿には懸け仏が掛けられていて、天台宗のお経が唱えられていたようだ。
同書によると、明治新政府が命じた神仏分離に僧侶たちはほとんど抵抗しなかったようだ。
慶応四年三月十七日、本社別当職曼殊院の事務政所が廃止さられ、祠官三家、目代、宮仕が皆復飾することとなった。当時宮仕の諸坊の住僧四十九人ありて、一時に復飾した。四月一日に浄衣を着用することとなった。乃ち祠官三家が正神主となり、社人が禰宜となり、宮仕が祝となった。
同年八月五日に、臨時祭りを行い、元の松梅院住持が正神主となり、祝詞を読上げた。その祝詞に久しい間の仏教の穢れを除いて、神威を揚げることを賀している。この一事で、祠官三家以下社僧等の態度が知られるのである。彼らの内、一人も自らこれを異(あやし)まなかったのである。
(同書 p.391)
「祠官三家」というのは、松梅院、徳勝院、妙蔵院で、神社の祭礼・社務に携わった。北野天満宮の組織では別当職(天台宗曼殊院門跡)に次ぐ地位であり、その下に目代(もくだい)、宮仕(みやじ)という社僧の職が続き、その下に社人(しゃにん)すなわち神職が置かれていた。曼殊院のことは、以前このブログで触れたが、北野天満宮から離れた場所にありながら、同社の別当職を歴任したのは、初代門主の是算(ぜさん)国師が菅原家の出身であったことによるという。
幕末までは社僧たちが威張って神職を侮蔑していたことについて、こんな記録が残されている。
祭会の時に、社僧が社人の列座する場所へ燈油を流して置いて、社人の浄衣が汚れるのを興がったり、社人が立て掛けておく榊を倒して興がったりしたもので、社人は憤懣したが、如何ともすることができなかったのである。
(同上書 p.389)
明治政府は神祇事務局から慶応四年三月十七日付の通達で、神社における僧侶の復飾(ふくしょく)、すなわち僧侶であることを捨てて俗人に戻ることを命じたのだが、個別の神社にはそれより後に沙汰が伝えられたと思われる。しかし、北野天満宮ではその命令に対して誰一人抵抗することもなく全員が復飾し、四月一日には祠官三家が正神主となり、社人が禰宜(ねぎ:神主と祝の中間)となり、宮仕が祝(ほうり:禰宜の次位にあって神に仕える者)となって全員が浄衣を着用したという。
仏堂、仏像など宝物の行方
社僧たちは神仏混淆禁止を沙汰されて二週間もしないうちに、全員が復飾することを決めたことになるのだが、神職となるのを選んだのであれば、当然のことながら多くの仏堂および仏像・仏画や経典などが不要となりその処分が問題となってくる。鷲尾順敬の報告にはこう記されている。
諸坊に、仏教関係の図像が多かったが、住持が仏教の信仰がなかったから、各自ら意に任せて売却したものである。仏教に関係あるものは、先祖の位牌までも他所に持ち出し、後に紛失したので、今日に至り、先祖の法名等が、全く知られない状況である。西ノ京の社人は、神事の時は、表に俗尼不浄の輩入るべからずという札を立てた。しかし各家に仏壇があって、当時それを破壊した者もなかった。それで法体の社僧よりも、俗人の社人に、かえって内心に仏教を信仰しているものがあった。これは寧ろ奇態であった。
(同上書 p.392)
明治初期の仏教受難の時代に、社僧に人材がいなかったのは北野天満宮でも同様であった。では、何百年にもわたり伝えられてきた北野天満宮の仏教文化財はどこに行ったのだろうか。
廃仏毀釈・神仏分離に詳しいs_minagaさんのホームページに、その点について詳しくレポートされている。
例えば、多宝塔は破壊され、塔に安置されていた大日如来坐像は近くの親縁寺に移されたという。その写真が紹介されているがなかなか美しい仏像である。残念ながらこの寺は非公開で一般拝観を受付けていないという。
朝日寺観音堂は破壊され本尊十一面観音像は西願寺という寺に売却された。輪蔵は破壊され、一切経は大報恩寺すなわち千本釈迦堂に持ち込まれた。
また鐘楼は大雲院に買い取られ、その鐘楼には同時期に買い取られた祇園社感神院の鐘が掛けられているという。大雲院はその後移転し、現在は八坂神社のすぐ近くにある。
では本社内陣にあった宝物はどこに行ったのだろうか。
『神仏分離史料』には、本社内陣の御正体(十一面観音懸仏)は因幡薬師堂に、脇侍不動毘沙門は古物商を転々し知恩院大方丈に安置したとあるが、今もその寺に残されているかどうかは確認できなかった。
ほかに本社内陣には、「御襟掛舎利(おえりかけしゃり)」と呼ばれる仏舎利が納められた舎利塔が北面して安置されていたという。仏舎利とは釈迦の遺骨のことで、菅原道真は天台座主尊意から伝持した仏舎利をつねに襟に掛けて護持し、大宰府で没したのち、内陣に奉迎されていたとされる。北面して置かれていたということは、正面から参拝した時には舎利塔は反対を向いていることになる。したがって、昔は参拝するときには、正面の参拝ののち背面に廻り、仏舎利に対して参拝するのを常としたという。要するに「御襟掛舎利」は道真の御神体として祀られていたわけだが、黒田龍二氏の「北野天満宮本殿と舎利信仰」という論文に、なぜ北面して仏舎利が置かれていたかについて次のように考察している。
この舎利信仰の要諦は以下の通りであろう。
天神は無実の罪に遭ったので特に妄語を戒めるにも関わらず人々は不実の態度で参詣する、だから天神は北方(背後)を向いている。社檀の後門には舎利塔があって天神は常にそこに居る。そこでは舎利と天神は一体となっている。
「北野天満宮本殿と舎利信仰」黒田龍ニ(「日本建築学会論文報告集 第336号」昭和59年 所収)
しかしながら、さすがに仏舎利を神仏分離後もご神体とすることについては認められなかったようだ。
仏舎利は明治二年(1869年)十一月二十六日に神輿に移されて常照皇寺に運ばれることになったのだが、この日の天気は不思議なほど移り変わったことが常照皇寺の前住持・魯山和尚の日記に記録されている。『神仏分離史料』にその原文が収録されているが、羽根田文明著『仏教遭難史論』にその要約が出ている。
二十六日夙暁忽ち雷霆(らいてい)地を動かし大雨来って、凄ましきこといわん方なし。良少時して雨やみ雲散り、一天拭うがごとき晴朗の日となり、近日稀なる暖かなること秋の如し(当時陰暦)、仏舎利奉迎の諸員は早朝より北野に集い、金塔を神輿(みこし)に奉移し、卯の上刻(5時台)神輿は御廟を辞し御出門(中略)、申の半刻(16時頃)山国に御着山、大方丈に奉安し香花百味を供え、御晋山式を厳修す。奉迎参拝者堂の内外立錐の地を見ず、式終わり詣人下山の頃朝雨天地を浄めて直ぐに晴れ、暖日春の如き日も夕方より又寒風俄に落ち、天濛々(もうもう)として雪の翩々(へんぺん)たるを見る。刻々激甚を加う。人みな奇異を呼びこれぞ天神の霊用なるかなと。
羽根田文明 著『仏教遭難史論』p.128
この日は西暦でいうと1869年12月28日になるのだが、朝早くから激しく雷が鳴って大雨が降り、しばらくすると晴れわたって秋のような温かさとなったが、仏舎利が寺に到着して儀式が終わると、にわかに寒風が吹き、初雪が舞ったという。人々はこの激しい天気の移り変わりを見て、これぞ天神さまの霊異と語り合ったというのである。
『神仏分離史料』によると、翌朝にはこの雪は三寸(約9cm)ほど積ったのだが、北野天満宮ではこの仏舎利が大宰府から来た日に初雪が降ったとの故事から、毎年初雪が降る日に神事と歌会が行われてきた九百余年の伝統があったという。
常照皇寺・魯山和尚の日記にはこう記されている。
「仏舎利当山に移らせたまうや、この奇瑞を神霊顕然たる、実に讃嘆の至りなり」(『神仏分離史料 第一巻』p.400)
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