牧之原台地開墾の経緯
このブログで、明治元年に徳川家が駿府(静岡)に移封され、旧幕臣達の多くが無禄覚悟で静岡に移住したのだが悲惨な生活であったことを書いた。彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかったのだが、士族の中から、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が現われたのである。
岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて静岡で茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。
明治二年(1869年)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は旧幕臣である中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)の訪問を受けている。
この二人は、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護する任務(新番組:精鋭隊を改称)に就いていた経緯にある。
しかし、明治新政府軍が駿府を攻めに来るわけでもなく、暇で仕方がないので、今後の身の振り方を勝に相談しに来た場面である。
…また二人(中條・大草)がやってきて言うには、こう二年も待って居ましても、何事もありませず、その上ただ座食していては、恐れ入りますし、皆ナが無事で、ケンカばかりして困りますが、金谷*という所は、まるで放ってありますから、あれを開墾したいと申しますが、どうでしょうかと言うから、それは感心な事だッテ、たいそう賞めてやってネ、その代り食い扶持はやはり送りますと言って、それから仕送りを続けた。
(岩波文庫『海舟座談』p.127-128)
*金谷:静岡県島田市金谷。牧之原公園やお茶の郷博物館がある
明治二年七月に静岡藩知事徳川家達の命が出て、牧之原台地の開墾のために中條・大草らが転住したのだが、当時徳川家十六代の徳川家達はわずか六歳であり、そのような判断ができる年齢ではなかった。命を下したのは藩の幹事役であった勝海舟や山岡鐡舟あたりが絡んでいたのであろう。
かくして旧幕臣の二百余名が士族という身分を捨てて、牧之原台地の開墾のために動きだしたのである。
昭和二年に静岡市市史編纂課が著した『静岡市史編纂資料. 第六卷』にはこう記されている。
…当時牧の原は耕種する者なく、茫漠たる棄地であったから、今この地を開拓せんとするは、上は富国の義を賛し、下は力食の実を挙げんとするのにあったのだ。ここにおいて新番組二百有余名は、中條景昭、大草高重、其の他十八名を幹事として、金谷以南の原野を受け、二百二十五戸の同志ここに移住して、賜地大縄反別一千四百二十五町歩の開墾を初め、茶種を撒き付けた。…翌(明治)三年沼津に移住せし士族(元彰義隊大谷龍五郎外八十四戸)がこれに加わって移住し、合計三百余戸となり、爾来専ら開墾に従事して、同二年より四年に至るまで、徳川家より年々金一万七百円を下付されたという。…
(静岡市市史編纂課 編『静岡市史編纂資料. 第六卷』昭和4年刊 p.284)
茶の生産はもともと静岡で盛んに行われていて、慶長年間は駿河の足久保茶、正徳四年(1716年)以降は水見色茶が徳川幕府の御用茶となった歴史がある。
静岡は茶の栽培に適した地域なのだが、大井川下流に右岸に広がる広大な洪積台地である牧之原は、徳川家臣が開拓する以前は古代に堆積した礫土によって地元の農民も寄り付かない原生林であったという。温暖な気候と緩やかな地形ではあるのだが水利に恵まないために長い間放置されてきたのだが、牧之原の開拓は潅漑用水はもちろん飲料水にも事欠く状況の中で進められていったのである。
開墾費が下付されなくなっても開墾が続けられた
しかしながら、明治四年(1871年)の廃藩置県により、家禄奉還につき八万円が明治政府から下付されると同時に牧之原は浜松県の管轄となってしまった。徳川家や静岡藩との関係が断たれてしまって、以降の開墾費は下付されなくなってしまうのだが、各自応分の資力を出し合って開墾を進めていくことにより、明治四年(1871年)頃は二百町歩であった開墾地が、明治十年(1877年)には五百町歩に増加したという。
ちなみに「町歩」というのは一辺の長さが一町(六十歩)の正方形の面積を指し、ほぼ一ヘクタール(ha)に相当し、百町歩は約一平方キロ(㎢)と考えて良い。
明治十一年(1878年)に明治天皇が、北陸・東海地方御巡幸のあと十一月四日に静岡に立ち寄られ、中條と・大草両名を行在所にお召しになり、二人がリーダーとなって牧之原台地を開墾してきた労をねぎらっておられる。(原文は旧字旧かな)
其の方ども、己巳(明治二年)以来、拓地のことに尽力し、同志協力勉励。牧ノ原開墾の儀は、全く其の方ども率先の功少なからず奇特に思召され候。同志中へ金一千円下賜候事。
(同上書 p.286)
もともと何もない場所であったから、道路を作り水路も作り家も建てた。江戸幕府の直轄領の中でも開墾しにくい場所だからこそ長年放置されてきた場所を、建築や土木工事の経験のない旧幕臣達が、刀を鍬に持ち替えて開拓していったことはすごいことだと思う。
『静岡市史編纂資料. 第六卷』に大草多起次郎が残した記録が掲載されていて、これを読むと彼らの開拓の苦労を垣間見ることができる。
明治二年七月中、旧藩知事の命により、開墾方と称し、不肖高重も中條景昭とともに率先し、二百余名を遠州榛原郡牧ノ原へ転住するに際し、水利の便否をはかり、居宅の地を占め、自らこの家屋を造営し拓地に従事し、右開墾費用として藩庁より年金一万二千五百円を給与あり。同四年、廃藩浜松置県の際、右開墾方の称を廃し、該費用金等今後下付あい成らざる旨、同県庁より申し渡されたり。然りと雖も、将来の活治を企画するにより、各自応分の資力を尽くし…専ら茶樹を播布するも、その事業に疎く、加うるに該地は数百年不毛の原野にして、極めて瘠せ地なれば成木もまた晩し。漸く同六年に至り、尠(すこ)しく茶葉を摘採するを得る。
(同上書 p.290)
私財まで投じて苦労して開拓してきたが四年たって、ようやく僅かの茶葉を摘み取ることができたとある。
もっとも、牧之原の茶畑は徳川の幕臣だけで開拓したものではなかった。
明治三年(1870年)に大井川の渡渉制度・川越し制度が廃止され、大井川の両岸にいた約千三百人の川越え人足も職を失い、その救済活動が興って、三十三人の川越え人足と家族が入植牧之原南部への入植が認められたとの記録もある。
牧之原を離れていったメンバーが少なくなかった
しかしその頃には、それまで官有地であった土地が浜松県から各人に下付され彼等の私有地となっていて、そのためにメンバーの中には土地を売ったり、質に入れたりするものが出てきてメンバーの人数も大幅に減っていたようだ。そこで、中條らは再び勝海舟を訪ねている。『海舟座談』にはこう記されている。
アチラ(中條ら)からまたそう言うてきた。こう御厄介になって開墾が出来ましたが、どう致しましたら宜しかろう、と言うから、それならば言うが、皆ンな三位さま[家達公]の御恩だから、地面は三位さまのもので、お前方はそれを作っているのだと、そう思いなさいと言うた。ダガ、その地面を売るものもあるしネ、質に置くものもあるしネ、今では百人位しか残っていないよ。それでは売ってはすまんと言うから、何に構わない、お前方が勉強したから出来たのだし、アンナ荒地がそれでも売れる程になったのは、お前方の尽力だからだと、そう言って遣ったのサ。ダガ、実に、済まないのサ。二重質に置くものもあるしネ。それはチャンと知っているが、黙っているのサ。何かの時に抑えるつもりだ。大隈(重信)なども、行って見て、感心して、よくあんなに開けたと言ったよ。それで陛下がお召しになって、御賞美になった。それで始末がつけてあるのだ。
(『海舟座談』p.128)
みんなで苦労して開拓したのに、随分多くのメンバーが土地を売って牧之原を離れて行った。ようやく茶を収穫できるようになったのだが、中條らは残ったメンバーだけで収穫したものを売って収入を得ることについて、一緒に開拓に苦労したのちに離れて行ったメンバーに対して「申し訳ない」という気持ちがあったということのようだ。
勝海舟は、お前たちの努力で開拓して土地が売れる程になったのだから、そんなことは気にしないで売ればよいとアドバイスしたという。
茶葉が生産過剰とならなかった理由
しかしながらこんなに広い茶畑が出来ると、需給バランスが崩れて価格が暴落してもおかしくない。中條らは土地を開墾し茶葉を作る事に懸命であったのだが、茶葉をどこに売るつもりであったのかということが気になったので調べてみると、明治三年頃は茶と絹について外国人の需要が高く、政府がこれらの生産を奨励していたようだ。
『静岡市史編纂資料. 第六卷』にはこう記されている。
明治三年三月十三日の『もしほ草』に『茶と絹糸を奨励せよ』と題して、
〇日本の茶ならびに絹糸は、外国人の好く品なれば、江戸近所の諸侯も、茶および桑を広野に植え付けて、盛んならんことを望む。しかる時は貧民もこれにつかわれて生活し国々も富栄にいたるべし。
明治四年静岡県…参事南部廣矛は藩政の後を承けて、茶園の開墾に留意し、開墾の助成をなし、あるいは茶実を下付して播種させ、また県庁に勧業係を置いて殖産興業を行なった。次いで頻年横浜の茶況好良となるにしたがって、県民はますます茶園を増殖するに至り、殊に安倍郡下いたるところに茶園を設けて、茶園に従事しない者はない位であった。
かく当時は茶業家の利潤が少なくなかったため、狡知の徒、その製造法に手を抜き奇利を博せんとして、ここに粗製乱造の弊が起こり、日本茶の声価、海外の信用が頓に墜ち、遂に製茶の暴落を来たし、有志は大いに憂え種々の手段を講ずるに至った。
(『静岡市史編纂資料. 第六卷』p.282~293)
あまり儲けが多いと粗製乱造で稼ごうとする輩が出るのはいつの時代も同じで、そのために評判を落とし価格が暴落し、結果として牧之原を去るメンバーも出たのだが、彼らの茶園面積を買い取って、経営規模を次第に拡大していく者もいた。
その後茶葉の品質向上が図られ「深蒸し茶」製法が考案されて、芳醇な香りをもつ「静岡牧之原茶」のブランドが発展していったのである。
広大な牧之原台地の茶園
東洋一と呼ばれる広大な牧之原台地の大茶園は、今では五千ヘクタールにもなり、全国の生産面積の四分の一近い広さなのだという。日本のお茶の四割以上は静岡県で作られているのだそうだが、この静岡の茶業の歴史に旧幕臣達が礎を築いた史実はもっと広く知られて良いのだと思う。
大井川や島田市街を見渡す高台に、牧之原台地の茶畑を開拓した中條景昭の像が建っているようだ。丁髷(ちょんまげ)姿で帯刀しているのに驚いてしまったが、彼は生涯頭の丁髷を切らなかったのだそうだ。
明治二十九年(1896年)一月十九日に、中條は生涯を捧げた牧之原の一番屋敷にて七十七歳で死去し、その葬儀には勝海舟が葬儀委員長を務めたという。
中條の墓は初倉村(現島田市初倉)種月院にあり、その墓のすぐ後方に「龍馬を斬った男」とされる今井信郎の墓碑があるという。今井信郎も牧之原台地を開拓したメンバーの一人であったのだ。種月院には牧之原開墾先駆者の記念碑もあり、中條と今井の略歴が刻まれているそうだが、一度は訪れてみたい場所である。
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