桜の季節になると有名な、観光地はどこも観光客が多すぎて心静かに桜を鑑賞できないところが多いため、毎年なるべく観光客の少ない所を選んで旅程を組むようにしているのだが、今年訪れた大原野は素晴らしい桜を静かに楽しむことが出来た。
勝持寺と願徳寺

最初に訪れたのは勝持寺(京都市西京区大原野南春日町1194)。駐車場は南門の東に、隣の願徳寺と共用の駐車場がある。
寺伝によると、白鳳年間に天武天皇の勅によって役小角が草創し、延暦十年(791年)に桓武天皇の命で最澄が伽藍を建立し、後に薬師仏を安置したという。足利尊氏の庇護を受けて栄えたが、応仁文明の乱で焼失したのち衰微したが、江戸時代に入り将軍綱吉の生母桂昌院の援助により堂宇の修復が行われた。

阿弥陀堂の右に瑠璃光殿があり、本尊の薬師如来像(鎌倉時代、国重文)、金剛力士像(鎌倉時代、国重文)、日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像(鎌倉時代)などの寺宝を鑑賞することが出来る。

鐘楼の近くに西行桜がある。西行法師は鳥羽上皇に仕えていた北面の武士・佐藤兵衛義清が保延六年(1140年)に当寺に出家して西行と名を改め、一株の桜を植えたと伝えられ、その桜が「西行桜」と呼ばれるようになったという。現在の西行桜は、三代目なのだそうだ。

勝持寺の桜は古くから有名で「花の寺」とも呼ばれており、桜の時期は特に美しい。『太平記』には「ばさら大名」と称されていた佐々木導誉が当寺で花見の宴を開いたことが記されている。

瑠璃光殿で迫力のある金剛力士像を鑑賞させていただいたが、この寺には古い仁王門が残っている。応仁文明の乱ではこの門だけが焼けなかったというから平安時代の建築ということになる。
この門は小塩山のふもと近くにあるので、勝持寺の中心部から仁王門まで往復するには結構な距離があり高低差もかなりある。南門の東にある駐車場を利用して勝持寺を拝観する場合は、車を大原野神社の駐車場に移動して、それから西北方向に歩いて勝持寺の仁王門に向かうことをお薦めしたい。大原野神社の駐車場から勝持寺の仁王門は歩いて二分程度のところにある。但し、仁王門に安置されている仁王像は、瑠璃光殿に安置されている迫力満点の本物とは比較にならない程度のものである。

勝持寺の南門を出てすぐ東に願徳寺(京都市西京区大原野南春日町1223-2)がある。この寺はかつては向日市寺戸町に在った大きな寺院であったそうだが、諸堂の荒廃がすすんだために本尊などの仏像が一時的に勝持寺に移され、昭和四十八年に勝持寺に隣接する現在地に移転したという。今では小さなお寺だが、貴重な仏像が拝見できる寺なので、勝持寺に行く予定の方は旅程に入れることをお薦めしたい。
インターフォンで拝観を申し込み、受付で拝観料四百円を支払うと、本尊の如意輪観音像(平安時代、国宝)や、薬師瑠璃光如来(平安時代、国重文)などを拝観することが出来る。しかしながら、今年の四月十九日から六月十五日迄開催される奈良博物館の国宝特別展で本尊が展示されることが決定しており、その期間中とその前後数日は拝観を休止する旨が書かれていた。そのことを知らずに訪れたのだが、美しい仏像に出会えてラッキーだった。
大原野神社

車を大原野神社の駐車場に移し、勝持寺の仁王門を見学してから大原野神社(大原野南春日町1152)の参拝に向かう。
この神社は延暦三年(784年)の長岡京遷都にあたり、桓武天皇皇后の藤原乙牟漏が奈良の春日社の分霊を勧請したことに始まり、平安遷都の後に藤原冬嗣が正式に春日明神を現社地に勧請し大原野社と称したとされ、以来藤原氏の氏神として天皇・皇后の御幸が行われた由緒ある神社である。ちなみに、藤原氏の氏神は三社あり、奈良の春日大社と京都の吉田神社と大原野神社なのだそうだ。応仁文明の乱以降は衰微したようだが、江戸時代に入って後水尾上皇により社殿の造営がなされたという。

長い参道の中間地点に鯉沢の池がある。藤原冬嗣を祖父とした第五十五代文徳天皇は、社殿とともに、奈良の猿沢の池を真似てこの池を作ったと伝えられている。

この神社の参道は紅葉が美しいことで知られているが、桜もまた有名である。鯉沢の池の北にある「千眼桜」は、満開の期間が三日間ほどで短いことから「幻の桜」と呼ばれているそうだが、運よく満開初日に訪れることが出来た。今年はいい年であってほしいものである。

さらに参道を進むと鳥居があり、中門・東西廊があり、その奥に本殿がある。すべてが京都市の有形文化財に指定されている。建築年代については擬宝珠に文政五年(1822年)の銘があり、この時期に再建されたか、大規模な改修が行われたのであろう。
普通の神社は狛犬が鎮座しているのだが、この神社では神鹿が参拝者を迎えてくれる。奈良の春日大社では鹿は神の使いとしているのは同じだが普通の狛犬が鎮座している。狛犬の代わりに神鹿が鎮座している神社はかなり珍しいと思う。
正法寺
大原野神社の南側にある極楽橋を渡ると、正法寺(大原野南春日町1102)がある。この寺は天平時代に鑑真和上とともに唐から来朝した智威大徳がこの地で修練を行い、古くは春日禅坊と呼ばれたが、延暦年間(782~806年)に最澄が大原寺という寺を創建したとされている。その寺は応仁の乱で焼失したが、江戸時代に再興され、元禄年間には徳川五代将軍の母・桂昌院の帰依を受けて、代々徳川家の祈願所となった寺である。

極楽橋を渡ると遍照塔がある。この塔は日露戦争の戦没者慰霊の為に明治末期に京都市東山区高台寺に建設されたが平成になって正法寺に移築されたという。飛鳥時代、平安時代の建築様式が再現されており京都市の有形文化財に指定されている。ここは拝観ルートから外れており誰でも無料で見学できる。

拝観するには通用門から入るのだが、上の画像はさらに南にある山門で、奥の建物は本堂である。
受付を済ませて本堂に入ると本尊の三面千手観世音菩薩(鎌倉時代、国重文)や平安時代制作された聖観世音菩薩等の仏像が安置されている。

本堂から宝生殿に進むと、縁側から宝生苑の石庭を楽しむことが出来る。画像ではわかりにくいが、遠くに東山連峰を望むことが出来る。石庭は全国各地から集められた名石が配置されていることからこの寺は「石の寺」とも呼ばれ、庭石にはぞうやふくろう、しし、うさぎ、かめなど十六種の動物の形に似ていることから、この庭は「鳥獣の石庭」と呼ばれているのだそうだ。遠くには東山連峰を望むことが出来、石庭の中央には紅枝垂桜が丁度満開を迎えていた。
善峯寺・三鈷寺

正法寺から善峯寺(大原野小塩町481)に向かう。車で十分程度で到着する。この寺は長元二年(1029年)に源算上人によって開かれ、五年後に後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜され、建久三年(1192年)に後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の宸額を賜ったと伝えられている。その後寺運が隆盛し、室町時代には僧坊が五十二に及んのだが、応仁の乱でその大半が焼失してしまう。現在の建物の多くは徳川五代将軍綱吉公の生母である桂昌院の寄進によるもので、山門、本堂、薬師堂、開山堂、護摩堂、鐘楼など多くが京都府の有形文化財に指定されている。

山門をくぐり石段を上ると本堂(観音堂)に至る。

右手の石段から多宝塔(国重文)が見える。昨年に修復工事が終わったと思ったら、隣の経堂の修復工事が行われていて、いいアングルでシャッターを押すことが出来なかったのが残念。

多宝塔と経堂の前面に有名な遊龍松(国天然記念物)がある。桂昌院のお手植えと伝える五葉松で、北方向と西方向にそれぞれ二十メートル以上枝が伸びていて、龍が遊んでいるがごとき趣からこの名がある。このことから善峯寺は「松の寺」とも呼ばれているという。

善峯寺は桜の隠れた名所なのだが、今年は寒い日が続いたせいか、開花時期がかなり遅れているようである。釈迦堂の枝垂桜もまだつぼみが固かった。

善峯寺の北門の回転ゲートを抜けると三鈷寺(大原野石作町1323)という寺がある。この寺は善峯寺を開いた源算上人が隠居寺として建てた往生院が前身とされ、その後証空上人がここに念仏道場として浄土宗西山派を創始し、寺名も三鈷寺と改称したという。中世に於いてこの寺も隆盛したが、応仁の乱の兵火により堂宇を焼失し、江戸時代に復興の努力はなされたが、規模はかなり縮小されたようである。

拝観には予約が必要な様で、住職不在の為内部の拝観はできなかったが、京都市内と東山三十六峰の眺めは素晴らしく、景観を楽しむことが出来ただけでも来たかいがあったと思う。善峯寺に戻るには、北門のインターフォンで善峯寺の拝観券を持ち三鈷寺から戻る旨を伝えることにより、ゲートのロックを外してもらえて善峯寺境内に戻ることが出来る。
十輪寺
最後に訪れたのは十輪寺(大原野小塩町481)。この寺は嘉祥三年(850年)に文徳天皇の御后・染殿皇后の安産を祈願するために伝教大師作の延命地蔵を安置して祀ったのが始まりとされ、無事に皇子(後の清和天皇)が誕生したことから文徳天皇の勅願所とされた。寺伝では平安時代の歌人である在原業平(825~880年)が、晩年に閑居したとされており、業平の墓と伝わる宝篋印塔や塩釜跡などの旧跡がある。
室町時代になると応仁の乱で創建当時の伽藍が焼失し荒廃したが、江戸時代の寛文年間(1661~73年)に藤原北家の花山院定好が再興し、以降花山院家の菩提寺となったという。

十輪寺は別名業平寺とも言うが、狭い庭園に樹齢約二百年の桜もなりひら桜と名付けられている。枝ぶりが特に素晴らしい。

本堂は寛延二年(1750年)に再建されたもので、鐘楼とともに京都府の有形文化財に指定されている。本尊の延命地蔵菩薩は秘仏とされ、毎年八月二十三日に御開帳されるのだそうだ。

十輪寺の庭は寛延三年(1750年)に右大臣藤原常雅公が本堂再興時に造ったもので「三宝普感の庭」と名付けられている。この庭からみたなりひら桜が素晴らしかったので場所を移動しながら観賞させていただいたのだが、カメラでその美しさを伝えることは難しいものである。

古今和歌集巻十七に在原業平が詠んだ和歌「大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思ひ出づらめ」が収められているが、「小塩の山」は十輪寺の山号である「小塩山」のことで十輪寺を指すと解釈されている。しかしながら、十輪寺や善峯寺がある小塩山全体を指すという解釈も可能ではないか。
業平の墓と伝わる宝篋印塔や塩釜跡も見学したが、復元されたものと割り引いても、墓も塩竃も石が新し過ぎるのに違和感を覚えた。『都名所図会』にも業平の塩釜のことが書かれているので、少なくとも江戸時代から業平がこの地に隠棲した話が伝えられていたことになるが、この話は『伊勢物語』に描かれた業平像から創作された話ではないだろうか。そもそも大阪難波津で汲んだ海水を大原野まで運んで塩を焼くこと自体があまりに不自然すぎる。
調べると在原業平に関しては多くの伝説があり、業平が住んでいたと伝えられている場所は他にもいくつかあり、業平の墓と伝えられる墓標もいくつか存在するようだ。
明治三十年に刊行された史伝叢書第一編『在原業平』には「今乙訓郡小塩山の十輪寺に、業平母子の石塔といえるものあり、又その山上に業平が奥州塩釜の景をうつして、塩を煮しと伝えるところあり。その説甚だ信ずべからずといえども、古来好古の士のつねに訪う所なり」と書かれており、著者の鵬南も晩年に業平がこの地に過ごしたという説に否定的である。
とは言いながら、十輪寺の満開のなりひら桜は美しくていくら見ても見飽きることがない。今日は朝から大原野で素晴らしい桜をいくつも見ることが出来て大満足の一日であった。
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