キリスト教が広まっていった地域で何が起こったか
前回記事で、キリスト教では偶像崇拝をタブーにしており、来日したフランシスコ・ザビエルは1552年1月29日付の書翰の中で、日本の仏像を「悪魔」と記し「二つの悪魔であるこの釈迦と阿弥陀とをはじめ、その他の多数の悪魔に対して、勝利を得なければならない」と書いていることを紹介した。
この文脈で「勝利を得る」ということは、仏像などの存在が許されなくなる状態を意味していると思うのだが、ザビエル以外の宣教師においても同様の考えであったようだ。ザビエルが日本にいた頃は信者の数はまだ少数であったので、寺や仏像の破壊についての記録は残されていないようなのだが、キリスト教が広まっていった多くの地域で寺社や仏像の破壊が行われている。
例えば、長崎市が編纂した『長崎市史. 地誌編仏寺部 上』(大正12年刊)にはこう記されている。
…長崎およびその付近においては神仏両道は厳禁せられ、住民は皆キリスト教、すなわち当時の切支丹宗門に転宗を強いられ、これに従わざるものは皆領外に退去を命ぜられ、神社仏閣のごときは布教上の障害として皆焼き払われた。かくして…神宮寺、神通寺、杵崎神社などは皆破却せられて烏有に帰し、神宮寺の支院たりし薬師堂、毘沙門堂、観音堂、萬福寺、鎮通寺、齊通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺などもまた皆これと相前後して同一の運命に陥ったと伝えられる。かくして長崎およびその付近の仏寺は天正中*に全滅し、これに代りてキリスト教の寺院会堂、学校、病院などが漸次設立せらるることになり、…長崎は耶蘇会の知行所となりて政教の実権はその手に帰し、南蛮人らは横暴を極め、奴隷売買の如きも盛んに行われたけれども、日本に実力ある主権者なかりしためこれを如何ともすることは出来なかった。
(『長崎市史. 地誌編仏寺部 上』p.7~8大正12年刊)
長崎の仏寺が全滅したのは「天正中」とあるが、天正年間(1573~1593年)にはすべての寺社が破壊されていたという意味である。ではどういう経緯でこのような状態になってしまったのだろうか。
わが国最初のキリシタン大名・大村純忠
以前このブログで、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル船との交易が始まったことを書いたが、永禄四年(1561年)に平戸でポルトガル人が殺傷される事件があり、ポルトガル人が新たな港を探し始めたので、永禄五年(1562年)に大村純忠が自領の横瀬浦の提供を申し出ている。
この時純忠がイエズス会と約定した内容が『日本基督教史. 上巻』に引用されている。
一 キリスト教の寺院を創設し、宣教師を十分に給養し、ポルトガル人のために横瀬浦の一港及びその周囲二里四方の地を開き、諸税を免じ、またキリシタン僧侶の許諾なき異教者は一人も港内に住するを得ざらむべし。
一 ポルトガル人等港内に在住するものへは何人に論なく、諸税を免除し、自今十ヶ年間ポルトガル人と貿易を営む諸人へも課役一切を免除すべし
(山本秀煌 著『日本基督教史. 上巻』p.131大正14年刊)
大村純忠はこのような破格な条件でポルトガルとの対日貿易を取り込むと、宣教師からキリスト教について学んだ後、永禄六年(1563年)にコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、わが国で最初のキリシタン大名になっている。
ルイス・フロイスが著した『日本史』に大村純忠が洗礼を受けた場面が記述されているが、これを読めば、純忠はキリスト教徒となるのと引き換えに、領地にあるすべての神社仏閣を焼くことを神父から求められていたことが分かる。純忠が、自分の思いを神父にこう伝えてくれと使いの者に述べ、その使いがトーレス神父に報告する場面を引用させていただく。
「大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒を見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。」と。この報告を受けた司祭は殿に対し、「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」と答えた
(中公文庫『完訳フロイス日本史6』p.279)
少し補足しておくと、兄の有馬義貞は13年後の天正3年(1576)年に洗礼を受けてキリスト教徒となっているが、当時は仏教徒であった。大村純忠は、仏教を信奉する兄がいるので、神社仏閣の全てを焼き払うことは出来ないが、今後一切寺社の援助をしないことを司祭に約束した。司祭は純忠が「時至れば、なし得ることすべてを行なう」ことを前提として、洗礼を授けたのである。
長崎における寺社破壊のはじまり
洗礼を受けたのち純忠は、機会あるごとに寺社の破壊を行っていった。フロイスはこう記している。
(大村純忠は)主なるデウスの御奉仕において、自ら約束した以上のことを行ない示そうとして、戦場にいて、兄を助けて戦っていた間に、数名を自領に派遣して、幾多の神仏像を破壊したり焼却させたりした。そして殿は家臣の貴人たち数名と語るときにはいつも、汝ら、キリシタン信仰のことで疑わしいことがあれば、予に訊ねるがよい。予がそれらを解き、汝らを満足させるだろう、と言っていた。
(同上書 p.281-282)
寺社を放火するには、戦争状態にあることが好都合であったことに違いない。大村純忠は、このように戦いの最中に何名かを派遣しては仏像等を焼却させるようなことを繰り返していった。しかし、このやり方では、神仏を信仰する人々が存在する限り、再び寺社が建てられることになりかねない。
イエズス会はいかにして大村領内すべてをキリスト教に改宗させたのか
ルイス・フロイスの『日本史』をさらに読み進んでいくと、天正二年(1575)にはこんな記述がある。
当時九州地方での布教活動にあたっていたコエリョ*が、寺や神社を根絶させることを純忠に説得する場面である。文中のドン・バルトロメウは大村純忠の洗礼名(クリスチャン・ネーム)である。
*ガスパル・コエリョ:1572年来日したイエズス会司祭。1581年に日本地区がイエズス会の準管区に昇格した際に、初代準管区長(日本地区のイエズス会のトップ)となった人物。
…殿がデウスに感謝の奉仕を示しうるには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はそのように努め、領内にはもはや一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。そして家臣が改宗することによってあきらかな利益が生ずることであるから、殿はさっそく家臣団挙げての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の心理の力を確信し、自分たちが救われる道は、絶対にこの教え以外にはないのだということを判らせるようにせねばならない、と。
ドン・バルトロメウはすべてにおいて司祭の意見に賛成し、ただちにその決定を実施することを望んだ。しかし仏僧たちは数が多く強力であったので、自分の家臣たちがまたしても蜂起せぬよう巧みに遂行せねばならなかった。…また、かの大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらをすべて破壊することは容易に出来ることではなかった。
(中公文庫『完訳フロイス日本史10』p.11~12)
このようにコエリョは大村純忠を説得し、大村領内おいて仏教や神道を禁じてすべての領民がキリスト教に改宗することを純忠に命じさせたのである。信者がいなくなれば、寺や神社は成り立たなくなる。
次いで、コエリョはキリシタン信徒に寺社を破壊することを教唆した。フロイスによると、
その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、「寺を焼け、偶像を壊せ」と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、「神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか」と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。「私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです」と。…
(同書p.14)
次の事例においてもコエリョは明確に寺を焼けと命じたわけではないのだが、 純粋な信徒であるならば司祭の言葉に心が動いて、実行に移すものが出てきてもおかしくない 。
…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。「今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい」と。司祭は彼に答えて言った。「あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです」と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。だが、彼は、誰がそれに放火したかその場で誰からも知られないで立ち去った。そのことから、人々は次第に残りの寺院も破壊し始めたが、そのように事態を少なからず鼓舞したのは、ドン・バルトロメウがそれらに対してそ知らぬふりをし、不快とはしてはいないことを明らかにしめしているのを知っていたという事情があった。
(同書p.22-24)
大村純忠は領民に仏教や神道を禁止したが、寺社破壊を命じたわけではなく、ただ領民が破壊していくのを不快ともせず、黙って見ていただけであった。一方イエズス会の宣教師は、信徒に寺社破壊を命じるようなことはせず、信徒が罪の償いとして自発的に神社仏閣を破壊するように仕向けていったのである。このような経緯から、大村領の寺社が次々と消えていったのである。
焼かれたり破壊された寺社もあったが、改築されて教会に転用されたケースもかなりあったと思われるのだが、詳しいことはわからない。ともかく、大村純忠が洗礼を受けてから二十余年が経過した頃には、大村領内における神社仏閣はすっかり姿を消してしまったのである。
フロイスは『日本史』で、次のように総括している。
大村領では神社仏閣が破壊された後、ドン・バルトロメウの六万人を数えた全家臣がキリシタンとなり、この史書の執筆が開始された当1585年に、彼の全領内には、八十七の教会があり、そこではミサが捧げられ、我らのデウスが讃美されていたのである。
(同書p.24)
多神教を奉ずる日本人にはなかなか理解しがたいところなのだが、唯一絶対神を信じるキリスト教においては、異教はすべて根絶すべきものと考え、その破壊を実行することは正しいことであると、単純に考えてしまうところにその怖さがある。
そのことは他の一神教においても同様なのだが、このような考え方では、理論的には異教を根絶する日が来るまで徹底して破壊し戦い続けなければならないということになってしまうのである。キリスト教が広まっていくことで、わが国はこの時代に、貴重な文化財の多くを失うことになるのである。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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