頻繁に起こっていた土一揆が応仁の乱の十一年間に記録されていない事情~~土一揆と応仁の乱2

土一揆と応仁の乱

幕府が最初に徳政令を出した嘉吉の土一揆

 前回の記事で、太陽活動が極端に低下した『シュペーラー極小期』が始まる1420年以降に、冷夏・長雨による凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入して、「徳政」(債権債務の破棄)を叫ぶ土一揆の大群が土倉などを襲ったことを書いた。

 正長元年(1428年)の正長の土一揆の際には、「徳政」を叫んで蜂起した土民に対し室町幕府が徳政令を発することはなかったのだが、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の土一揆の際には、幕府は公式に徳政令を発布している。この経緯について簡単に振り返っておきたい。

馬借 石山寺縁起絵巻 (東京国立博物館画像検索)

 嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)が室町幕府六代将軍・足利義教(あしかが よしのり)を暗殺するという事件(嘉吉の乱)が起きている。そのあと義教の子・義勝が幼少ながら将軍職を継いだのだが、この混乱期に「代替りの徳政」を求めて京都・近江の馬借(ばしゃく:馬で荷物を運ぶ業者)を中心に農民が蜂起し、地侍が指導して数万人単位の一揆に膨れ上がり、京都を包囲したのである(嘉吉の土一揆)

 藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』には、こう解説されている。

この京の政治と治安の空白のさなか、土一揆は「代始めの徳政には先例がある」と叫んで(『建内記』)、またも代替りの徳政を強行しました。飢餓を背景としたこの土一揆も、近江(滋賀県)など周縁の村々から、きそって京を襲います。すでに湖東の荘園では、地域に負債の解消を宣言する徳政の木札(大嶋奥津島神社蔵)が、村役人たちの手で掲げられていました。

 京を守る侍所の京極軍は、これを東山の清水の坂で阻止しようとして、激しい『矢戦(やいくさ)』になります。しかし、武装した土一揆の大群は圧倒的に優勢で、軍の犠牲者は五十余人にのぼったほどでした(『東寺執行日記』)。それは、幕府の大名軍の多くが播磨(兵庫県)の赤松攻めに出動し、京はほとんど無防備になっていたからで、…「赤松打たれ、徳政行く」(『宝林寺年代記』)といわれていたほどでした。

 徳政をさけぶ土一揆は「四辺の土民蜂起」とか「土民数万」といわれ、東は近江の坂本・三井寺から、南は南郊の鳥羽・竹田・伏見から、北は嵯峨・仁和寺・賀茂辺からと、周縁の村々から武装して京に押し寄せます。彼らは五条の法華堂をはじめ京の街を襲い、放火・掠奪するなど、自力で私徳政を強行したのです(『建内記』)。

(『飢餓と戦争の戦国を行く』p.62~63)

 

 「私徳政」とは「徳政令」によらず、土一揆勢が実力で借金証文や質物を奪い取ることを意味する。

嘉吉徳政一揆分布図 「詳説日本史図録(山川出版社)

 土一揆勢は北野社、太秦寺、清水、東福寺など少なくとも十六か所に陣地を作り、日ごと有力な高利貸(酒屋・土倉・日銭屋・寺など)を襲ったという。そのころ京には土倉・酒屋は六百軒以上あったと考えられているが、それらが相次いで土一揆に襲われたのである。そして、土一揆勢は京の経済を麻痺させていくことになる。

 こうして土一揆は、京の流通を支える「七道口」*をすべて封鎖し、物資の供給を断って首都の生活を麻痺させ「商売の物なく、京都の飢饉もってのほか」という、二次飢饉(流入型飢饉)においこみます(『公名公記』)。四方の流通路をふさげば京はすぐに飢える。それは平安時代いらいの通例でした(東島勉)。この首都封鎖作戦に負けて、ついに幕府は、はじめて「一国平均の徳政」を告げる広域徳政の制札(徳政令)を、土一揆の集中していた七つの街道口に掲げます。

 しかし、借金棒引きの徳政令が出ても『土一揆なお愁訴(異議申立)をふくむ』といわれ(『建内記』)はんぱな徳政令は、なお土一揆の人々を満足させなかったのです。「日本大飢饉」のさなかに、生き残りをかけた必死の行動が、土一揆の底辺をささえるエネルギーの根源でした。…
*七道口:京への入り口。長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口、丹波口、東寺口

(同上書 p.63~64)

 彼らは幕府に徳政令を出させることで債務を帳消しさせることだけが目的ではなかったのだ。

応仁の乱の直前まで頻繁に起こっていた土一揆

 その二年後の嘉吉三年(1443年)にも周縁の飢饉で難民たちが京に流れ込み、夜ごと難民たちが強盗となって放火し、あいついで土倉が襲われて質物が奪い取られている。

 またその四年後の文安四年(1447年)には「文安の土一揆」がおこり、土一揆勢は北の嵯峨の一帯を制圧し、東寺を起点にして京の七条の土倉などを襲い一帯の家々を放火・略奪した記録がある。

 さらにその七年後の享徳三年(1454年)に起きた「享徳の土一揆」でも、禅寺の相国寺が打ち壊されて寺の貸付金の質物などが奪われ、土倉や日銭屋も襲われている。

中世の土一揆 (山川出版「日本史研究」より)

 「土一揆」の集団と言うより「盗賊集団」とでも呼ぶ方が適切だとも思えるのだが、幕府はその鎮圧のために何度も軍隊を差し向けながらも効果が無かったようである。

 この「享徳の土一揆」の出身もまた、「近郷」とか「都鄙の間の所々」といわれました。周縁の村々から京に押し寄せ、下京から上京まで縦横に駆け抜けたのでした。このときもやはり、どの大名軍の兵士たちも、土一揆の弾圧にはかばかしくは動かず、やはり村々の土一揆と軍の下っぱの雑兵たちとの深いつながりを感じさせます。土一揆への対応に幕府軍のみせた深い亀裂は、のちの応仁の乱の大きな予兆でした。

 土一揆のこうした高揚に、幕府はやむく「徳政の御大法」をだします。「借金の十分の一を公方に進送せよ」というのがその骨子でした。高利貸(酒屋・土倉・寺院など)から借りた、元金の十分の一を幕府に納めれば、質物は返され、借金は帳消しだ、というのです。…このあやしげな「享徳の徳政令」は、こののち八回にも及ぶ、徳政令の基準になったのです。
 土一揆の「横行」を冷ややかに傍観していた公家たちも、この徳政令に喜んで、きそって債務を帳消しにしてもらいます。…

(同上書 p.66~67)

 借金の十分の一を幕府に納めれば、質物は返され借金は帳消しとする命令を「分一(ぶいち)徳政令」と呼ぶが、長禄元年(1457年)の「長禄の土一揆」においても、幕府は再び分一徳政令を出している。しかしながら、その定めに従って元金の十分の一を納めたのは京の人々だけで、周縁から集まった村人たちは飢饉難民を巻き込んで、高利貸や豪商を襲って質物をただ取りしていったという。日々の食糧を買うこともできない彼らにとっては、幕府のハンパな徳政令では生活が出来ない。彼らのねらいは、生活のために財物を掠奪する点にあったのであろう。

 さらに寛正(かんしょう)元年(1460年)にも寛正三年(1462年)にも土一揆が起きている。寛正三年の土一揆について藤木氏の解説を引用させていただく。

 幕府は軍隊に土一揆の排除を命じます。しかし諸大名軍の兵士たちはやはり動かず、それどころか『大名の内の者(雑兵)』までが高利貸や民家に「土一揆と号し」て乱入し、略奪(雑物取り)や放火を働く、というありさまでした(『大乗院寺社雑事記』)。これに危機感をつよめた幕府は、けんめいに京の封鎖を排除して流通を確保しようとし(『蔭涼軒日録』)、ついで山城(京都府)の一帯で土一揆の張本人狩を行ないます。
 そのため、東郊の山科郷では、村人二人が徳政の張本人として土地家屋を没収されます(『山科家礼記』)。南郊でも伏見の竹田の村人がつかまって首を切られ、逃亡した者はその家を焼かれました。追及は北郊の松崎や、広く山城から丹波(兵庫県)の村々まで及びました(『蔭涼軒日録』)。土一揆の大きな広がりがしのばれます。それほどの弾圧をうけても、なお土一揆はやみません。翌寛正四年(1463年)秋にも「京都に徳政の沙汰あり」(『大乗院寺社雑事記』)といわれ、第三波の私徳政の実力行使がつづいていくのです。

(同上書 p.70~71)

 また、応仁の乱が起こる二年前の寛正六年(1465年)にも土一揆勢が東寺にたてこもり、七条辺を襲った記録があるが、その翌年の土一揆はさらに大規模であった。

 「悪党・物取等」が「酒屋」に乱入し、それに雑兵たちばかりか、れっきとした上層の武士たちの騒動も重なり合って「徳政の沙汰」とか(『後法興院政家記』)、「酒屋・土倉数ヵ所を打破」などと(『大乗院寺社雑事記』)土一揆による自力の私徳政があいつぎます。

 そればかりではありません。年末には、細川勝元・畠山政長らの軍(東軍)も、山名持豊・畠山義就の軍(西軍)もそれぞれ、軍事費(兵粮料)を出せといって、京中の酒屋や土倉から銭を責めとっていたのです(『大乗院寺社雑事記』)。金を出せば軍の乱暴はやめよう、というのでしたが、もはやその実態は、土一揆と悪党・物取や武士の騒動の区別もつかないほどの騒ぎでした。応仁の乱前夜の激動は、こんな混乱が続けば、「洛中人民は餓死に及ぶ」といわれたほどでした。

(同上書 p.71~72)

なぜ応仁の乱の十一年間に土一揆が記録されていないのか

田家康『世界史のなかの戦国時代〜異常気象 小氷河期が戦乱を生んだ』 より

 こんな具合に応仁の乱が起こる直前まで土一揆が頻繁に起こっていたのだが、年表を見ると応仁の乱が始まる応仁元年(1467年)から内乱が終わる文明九年(1477年)の十一年間には土一揆は記載されていない。これはどう理解したらよいのだろうか。

 通説では、土一揆勢は内戦にのみこまれていったん消滅したとされるのだが、そんな単純な理由ではなさそうだ。応仁の乱の最中の文明四年(1472年)には旱魃が起こって京都、大和、和泉などで飢饉が発生しており、土一揆が起こってもおかしくない条件が揃っていたのである。にもかかわらず、応仁の乱の十一年間において土一揆の記録がないのはなぜなのか。

 藤木氏はこう解説しておられる。

 土一揆の消えた首都の戦場での市街戦が始まると、土民(百姓)が「足軽と号し」て略奪を働いている(『大乗院寺社雑事記』)といわれ、あらたに足軽という名の雑兵が出現するのです。戦場の主役は土一揆に代わった足軽たちで『足軽と号す』つまり「おれは足軽だ」とさえいえば、戦場となった京では、略奪も野放しだったらしいのです。「土一揆と号す」「徳政と号す」から「足軽と号す」へ、京のサバイバル(生きのこり)のスローガンの大きな転換でした。

 この京の戦場を横行する足軽を、ある貴族はこう激しく批判します。このごろ初めて出現した足軽という連中は、『超過したる悪党』で、強敵のいないところばかりを狙って、「所々を打ち破り、あるいは火をかけて、財宝をみ(見)さぐる」、まるで「ひる強盗」のような連中だ、と(『樵談治要』)。
 またある人は、足軽たちは兵粮が乏しいため、京の商人や職人から、借りるだけといって金銀を奪い取り、返そうともしない、と非難していました(『塵塚物語』)。

(同上書 p.73~74)

 要するに、実態はほとんど変わらずに、狼藉する際に発する言葉が「徳政」から「足軽」に代わっただけのことである。

真如堂縁起絵巻(部分)

 応仁の乱に参加した兵士の数については諸説あるようで、Wikipediaでは東軍約十六万人、西軍十一万人とあるが、その大半が足軽であり、彼らに対してまともな賃金や兵粮が支給することは到底不可能であった。その代りに両軍は、足軽たちに戦場での略奪を公認していたのである。そして京には、足軽たちが略奪した品物を売り捌く市場があったという。

 …京の戦場には、多くの商人たちが群がっていて、足軽などから略奪品を買い漁っては転売し、もうけていたのです。商人たちは盗品を、戦争のない奈良や坂本(滋賀県)に運んで、『日市(ひいち:フリーマーケット)』を立てて売り捌いていたといいます(『応仁記』)。京の東山の祇園社では、戦いに紛れて本尊の牛頭天王の黄金像が打ち砕かれ、戦場の商人に売り払われる始末でした(『祇園社記』『大乗院寺社雑事記』)。
 しばしば土一揆の拠点となった京の九条の東寺も、はるか東郊外の醍醐の三宝院に、隠物(かくしもの)・預物(あずけもの)として避難させていた、多くの寺宝を軍兵に略奪されてしまいます。ところでやがて、はるか西郊の八幡(やはた:京都府八幡市)の市場で売られていた「鎮守額」や「聖天」像などを、信者が買い取って東寺に寄付してくれ、東寺もその市場で多くの寺宝を買い戻していました(『廿一口方評定引付』)。

(同上書 p.78~79)

 応仁の乱が始まって年表から「土一揆」という言葉が消えたとはいえ、濫暴狼藉がなくなったわけではなかったのである。

 応仁の乱が終わった後に「戦国時代」と呼称される時代が続くのだが、応仁の乱と同様に戦国大名も大量の足軽などの雑兵をかかえて戦った。しかしながら雑兵たちは懸命に戦っても大名からの恩賞は無かったのである。恩賞が無いのにもかかわらず雑兵たちが軍隊に参加したのは、雑兵たちがある程度の略奪や暴行を行なうことを戦国大名たちが許容していたからにほかならない

 しかしながら、国同士や他国の民同士が相手の所有する物を奪うことが何年も続いては、人々が平和に暮らせる時代が訪れることがないことは誰でもわかる。それぞれの大名がただ自国の領土と領民を守るだけではだめで、誰かが武力で全国を統一してこのような行為をやめさせなければならなかったのだが、そういう視点からわが国の戦国時代を考えることが必要ではないだろうか。

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