戦国大名は何度も起きた飢饉をいかにして乗り越えようとしたか

飢餓と戦争
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戦国時代の大半は「シュペーラー極小期」にあたる

 少し前にこのブログで、「シュペーラー極小期」と呼ばれる1420~1540年頃の太陽活動が低下したことを書いた。「シュペーラー極小期」の始期と終期については諸説があり、Wikipediaでは「1420年頃~1570年頃(1450年頃~1550年頃とも)」と書かれているが、この小氷河期に全国各地で農産物の不足のために飢饉が起こり、土一揆が各地で発生したのち「応仁の乱」が勃発し、以降わが国は慢性的な紛争状態(戦国時代)に突入した。

 上の図は、以前紹介した東アジアの夏の平均気温推移グラフ化で、赤い線で囲んだ部分が「シュペーラー極小期」になる。古木の年輪に含まれる放射性炭素C14を測定することで太陽活動が活発であったかどうかが分かりこのようなグラフ作成ができるのだそうだが、このグラフを見ると、この「シュペーラー極小期」に、土一揆が頻発した時代、応仁の乱の時代および戦国時代の大半が含まれているのである。

 上の表は以前紹介した広域の飢饉が発生した年と要因をまとめたものだが、戦国時代に何度も飢饉が起きた記録があることがわかる。

足軽に公認されていた掠奪行為

 「応仁の乱(1467~1477年)」の時に東西両軍は、京周辺から大量の足軽を雇ってその戦力としたのだが、足軽たちにどのような処遇をしていたかについて『大乗院寺社雑事記』に記録があるという。

 藤木久志氏の『土一揆と城の戦場を行く』にはこう記されている。文中の「尋尊(じんそん)」という人物は奈良興福寺の百八十世別当である。

 …尋尊(じんそん)は、こう証言する。彼らを傭兵として雇った東西両軍ともに、彼らにまともな兵糧=食糧や給与を支払う力がない。だから、その代わりに戦場の市街での打破・乱入、つまり富家の略奪を公然と許可しているのだ、と。

(『土一揆と城の戦場を行く』p.21)

 応仁の乱の東軍・西軍に集められた足軽たちは、時に富豪などから掠奪行為を行い、盗品は彼らと結託する戦場の商人たちに売られて郊外の市で売りさばかれていたのである。彼らには、戦場における市街での掠奪行為が許されていたのである。

 応仁の乱の十一年間に土一揆の記録が無い理由は、それまで「土一揆」を起こしていた主要勢力が東西両軍の「足軽」に入り込むことで稼ぐことができたからなのだが、彼らにとっては「土一揆」を起こすよりも「足軽」という立場で掠奪する方がリスクも低く、経済面のメリットが多かったということなのだろう。

食糧の絶対不足と今川氏

 その後戦国時代に入って集団戦が本格化・大規模化して長槍・弓の足軽隊が組織され、鉄砲が普及すると鉄砲隊が編成されて主要な部隊として活躍するようになり、物資や武器の運送などの人員も増加していった。戦国大名の軍の構造は、騎馬武者はせいぜい一割程度で、残りは足軽や雑兵であったという。中には豊臣秀吉のように功を認められて大名にまで出世した者もいるがそのような例は稀で、足軽や雑兵たちの処遇は概して低く、かれらの主な稼ぎが掠奪によって得られていた点については変わらなかった。

 応仁の乱が終息した後も凶作のために各地で飢饉が何度か発生し、食糧の絶対量不足から、食糧などを奪い合う争いが各地で起きた。戦場では、軍勢が動けば耕地が刈り取られ、家々は放火され、掠奪されることが繰り返されたのである。掠奪の対象は食糧や財物だけではなく、身代金目当てで村人までもが狙われたという。

 藤木久志著『飢餓と戦争の戦国を行く』にはこう記されている。文中の番号は『静岡県史 資料編中世三』の史料番号である。

 永正元年(1504)も、夏から秋にかけて大雪が五度も降る冷夏に襲われた上に旱魃となり、大凶作のあげく、疫病までひろがりました。

 その晩秋、今川氏親の軍は、伊勢長氏(北条早雲)の軍を助けて、武蔵野(埼玉県)に遠征し、大勝利をおさめます。戦いの終わった戦場は「行く方知らず二千余り、討死、討捨、生捕、馬・物の具充満」という、惨憺たるありさまであった、といいます。(三―三六四)

 勝った今川軍は、まるで国元の大凶作の痛手を、この遠征の戦場で癒そうとするかのように、戦場に散乱する戦死者を身ぐるみ剥ぎ、生きている人を生捕り、馬を奪って引き揚げました。あらゆる略奪は戦場の常であったらしいのです。

 生捕りの対象は、兵士ばかりではなく、戦場の村人にまで及びます。永正九年(1512)の初夏、遠江引佐郡刑部(おさかべ)城(細江町)の一帯の村は、忍び・野伏など雑兵の夜討ち・朝がけに、くり返し襲われて、家々は火をかけられ、熟した麦は刈取られ、田植え前の稲の苗代は踏み荒らされました。(三―五六三)

 同十四年(1517)の中秋、今川氏が遠江引間(ひくま)城を攻め落とした時も、「あるは討死、あるは討捨、あるは生捕。男女の落ちて行くてい、目もあてられず」といわれ、生捕られた男女は「かれこれ千余人」と報じられています。(三―六五四~六五五)引間一帯の男も女も、敵兵の手を逃れて、領主の城に避難していたのでしたが、敗戦の惨禍は、この通り村人の上にもおよびました

(藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』p.90~91)

 しかし戦いに必ず勝てるとは限らない。大永元年(1521)に甲斐(山梨県)に遠征した今川軍は、敗れて四千あまりの軍を失い、三千余人を生捕りにされたのだが、寺僧が武田方と交渉して身代金を支払ったらしく、生捕られた人々を無事に帰国させたと『妙法寺記』に記録されているという。

上杉謙信と武田信玄

上杉謙信像(Wikipediaより)

 また田家康著『気候で読み解く日本の歴史』には、上杉謙信と武田信玄の事例が紹介されている。

 上杉謙信の場合、越後の足軽や雑兵らを引き連れ、他国を侵略し、食料の略奪を繰り返した。越後からの関東出兵は、長雨による飢饉となった1560年(永禄三)八月に始まる。関東出兵は1574年まで12回に及んだが、うち8回は秋から翌年夏にかけてであり、関東平野で越冬している。越後は雪国ゆえ水田二毛作といった麦の裏作はできない。このため、春以降の領内の食料不足を見据え、『口減らし』をすべく温暖な関東平野で過ごしている上杉謙信は北陸や北信濃にも出兵しているが、こちらは秋の収穫期を狙っての短期間の軍事行動であり、長期遠征で越冬するのは関東に対してだけだった。

 上杉軍は、後北条氏の領内の農産物を奪っただけではない。1566年(永禄九)二月に常陸小田城を落とした際、『景虎ヨリ、御意ヲモッテ、春中、人ヲ売買事、廿銭程致シ候』と上杉謙信公認のもとで、戦争奴隷の人身売買を行った記録がある

 武田軍も同様だ。武田信玄は1541年(天文十)に甲斐の当主となり、1573年(元亀四)に三河の陣中で没するまで生涯32回の他国への軍事侵攻を行う中で、広域の飢饉が発生した後に必ず外征している。1544年の冷夏・長雨の翌春に南信濃の伊那郡に遠征、1577年以降の干ばつ時に北信濃の川中島までを支配した。1561年にインフルエンザと思われる疫病が関東で流行した際に川中島で軍事作戦を展開し、1566年の冷夏・長雨時には上野を侵略している。

 武田軍の足軽・雑兵にとっても、戦場は出稼ぎの場であった。戦場で乱取りが常態化していたことは、高坂弾正(春日虎綱)による『甲陽軍艦』から読み取れる。…

 高坂弾正は、こうした乱取りができるのも『信玄公矛先の盛んなる故なり』と認識し、『国々民百姓まで悉く富貴して、安泰なれば、騒ぐさまひとつもなし』と領内の雰囲気を描いている。乱取りで得た戦利品によって領民の生活が豊かになっており、それゆえ甲斐では武士から領民まで外征を歓迎していた

(田家康著『気候で読み解く日本の歴史』 p.185-186)
武田信玄像(Wikipediaより)

 『甲陽軍鑑』には、武田家や家臣団の逸話や事績の紹介や、軍学などが書かれているが、国立国会図書館デジタルコレクション『甲斐志料集成. 9』に読み下し文が公開されている。

 例えば天文十一年(1542年)十月に武田軍の雑兵たちは一帯の民家を襲って「乱取り」を働き、田畑の作物を奪う「苅田」に熱中し、初めの三日間で近辺を荒らし回ると、四日目からは遠出をして朝早く陣を出て夕方に陣に戻るという大がかりな乱取りを始めたのである。

 しかし武田軍の三人の侍大将の夢枕に諏訪明神の使いという山伏が現われて、「乱取り無用」という信託を告げ、侍大将達は以降「乱取り禁止」を命じたので、それ以降信濃の人々は被害を免れたと書かれている。

甲斐志料集成. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館デジタルコレクションは、国立国会図書館で収集・保存しているデジタル資料を検索・閲覧できるサービスです。

島津軍に関するフロイスの記録

 このような「乱取り(乱妨取り)」は全国で起こっていて、たとえば、九州に関して藤木久志氏は前掲書にこのような事例を挙げている。

 (島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。

 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と

(藤木久志著『雑兵たちの戦場』p.16)

 このような記録を読むと、雑兵たちの多くは、戦いに勝つことよりも戦利品を持ちかえることの方を優先していたことが見えてくる。

 小説などでは戦国時代の戦争を大名による国盗り合戦のように描かれることが大半なのだが、食糧危機が存在していたことを抜きにしてこの時代は語れないのではないだろうか。凶作や水害・疫病が起こると、大名は食糧確保のために隣国へ戦争を仕掛け、勝利すればその結果として領土を獲得し、家臣に領土を与え、足軽・雑兵には「乱取り」を許す。敗れた場合は多くを失い、領民も売り払われた。この繰り返しで戦国時代の経済が廻っていたのではなかったか。

ヨーロッパの戦争との違い

 ところで、このようなわが国の戦争のやりかたはヨーロッパとかなり異なっていた。

 当時来日していたイエズス会のフロイスは、日本とヨーロッパの戦争の相違点を著書でこう述べている。

38.われわれの王や隊長は兵卒に報酬を払う。日本では戦争の続いている間、食べたり、飲んだり、着たりすることは各人が費用を賄わなければならない

39.われわれの間では土地や都市や村およびその富を奪うために戦う。日本では戦争はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うためにおこなわれる。

40.われわれの間では、馬、単峰駱駝(ドロメダリオ:ヒトコブラクダ)、駱駝等が兵士らの衣類を運ぶ。日本では各人の百姓が彼の衣類や食糧を背中につけて運ぶ

(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫 原著1585年刊)

 フロイスは戦争の目的はほとんど常に食糧を奪うためであったと書いているが、これは敵国を疲弊させるためでもあり、自国の食糧備蓄のためでもあり、戦いに参加した足軽や雑兵の生活のためでもあったのだろう。

 藤木久志氏は『雑兵たちの戦場』のプロローグで、雑兵たちが戦場に向かった背景についてこう解説している。

 戦場で濫妨狼藉の主役を演じていた雑兵たち。彼らはいったいどこからきたのか。
 凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊も、ゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場に繰りひろげられた濫妨狼藉、つまり、掠奪・暴行というのは、『食うための戦争』でもあったようだ

(『雑兵たちの戦場』p.7)

 戦国時代の大半が「シュペーラー極小期」に当たっていたため凶作となる年が多く、村の人々にとって『食うために』は、戦争に行って稼ぐよりほかに選択肢が乏しかったことを理解しないと、この時代に全国各地で戦いが何度も起きたことを理解することが難しいと思うのだ。 

 ところが教科書などでは、この時代に食糧危機が存在したことを触れることが無い。たとえば『もういちど読む 山川の日本史』には

 応仁の乱後、下剋上の風潮は全国をおおい、諸国には実力によって領域を支配する大名がつぎつぎとうまれ、たがいに争いを続けた。これを戦国大名とよぶ。…中略…

 こうして諸国にうまれてきた戦国大名のうち、守護大名地震が国人や守護をおさえて戦国大名に成長したのは、東国の武田、今川、九州の大友、島津の諸氏など少数にかぎられており、多くは国人や守護代からなりあがったものである。戦国大名たちは約百年にわたって戦乱をくりかえすうちに、しだいに全国統一への道を歩んでゆくことになる。

(『もういちど読む 山川の日本史』p.131~132)

とあり、この時代に関する叙述のどこにも凶作や飢饉があいついだことが記されていない。しかしながら、もしこの時代に農民たちが食うことに困らない状況であったなら、彼らの多くが傭兵になって戦場に向かうことはありえなかったのではないだろうか。

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