飢餓の村の収穫期を襲った北条早雲の記録
前回の「歴史ノート」で、戦国時代に凶作のために各地で飢饉が何度か発生し、食糧の絶対量不足から、食糧などを奪い合う争いが各地で起きたことを書いた。戦国大名が侵略戦争を繰り返したのは慢性的な食糧不足があったことと大いに関係があったはずなのだが、通史や小説などでは戦国時代を戦国大名同士の「合戦の時代」と描かれることが大半だ。このような見方でなぜこの時代に戦争が相次いだのかを理解することは困難だと思う。
教科書などでは、戦国大名のさきがけとして北条早雲の名前がでてくるのだが、この人物についてどのような戦場の記録が残されているのだろうか。
藤木久志著『飢餓と戦争の戦国を行く』には、こう記されている。
戦国の初め、明応三年(1494)八月のことでした。
「明応三年中秋のころ、当州(遠江)に乱来る。…村の男たちは頭をかかえて嘆き怨み、里の女たちは幼な児を抱いて連れ去る。飢えた人々は路傍に満ち、餓死する者も数えきれないほど…。」
伊勢長氏(後の北条早雲)の数千の軍に攻め込まれた、遠江(静岡県)三郡の戦場の村のありのままを、ある禅僧はこう嘆きました(『静岡県史 資料編中世』三-一九四)
村人たちは、激しい戦禍とともに、厳しい飢餓にも見舞われていた、というのです。戦火に追われるのはともかくとして、その上さらに「飢えた人々は路傍に満ち、餓死する者も数えきれない」というほど、飢餓にも苦しむ戦場の村の姿を、これまで私たちは、想像したことがあったでしょうか。
…この明応三年には能登(石川県)や会津(福島県)に旱魃があり、京都でも「炎旱過法」といわれ、懸命な祈雨の神事が行われ、作物の「損亡」が報じられていました。遠江(静岡県)の苦しみは、旱魃のさなかの戦争によるものだった、とみてよいでしょう。
(藤木久志著『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書 p.89)
旱魃で飢餓に苦しんでいた遠江の村が秋の収穫期頃に襲われたことの目的は言うまでもないだろう。このようなことをどこかの軍が始めると、他の軍も食糧を求めて同様なことを始めて次第に大規模化していくことになる。戦国時代には、戦いの最中に放火・苅田が大々的に行われ、人間の掠奪も各地で行われたことを知るべきである。
村を守る智慧
しかし村人たちは戦禍に遇わない為にいろいろ対策を講じるようになっていくことは言うまでもない。藤木氏の前掲書には様々な事例が記されている。
敵の略奪(乱取)を免れるには、戦場の村々が敵味方の優劣をしっかり見極め、優勢な敵軍には進んで味方し、制札銭といわれた大金を払って、村の安全を保障する制札や禁制を手に入れるのが常でした。敵方の大名も制札銭を稼ぎ、「敵地」に「味方の地」を広げるため、大量の制札や禁制をばらまいたのです。
といっても、一枚の制札だけで村の平和が実現されたわけではありませんでした。大名は「軍兵が濫妨狼藉を働いたら、村が実力で排除せよ」と、制札に明記しました(『静岡県史 資料編中世』三-三五〇一)。制札をもらった村には、郡の乱妨を村の武力で排除しても、反逆とはみなさない、制札にあるとおりに平和を実現するのは、あくまでも村の実力次第だ、というのでした。
だから戦場の村は、いつ押し寄せるかわからない軍隊に対して、ふだんから自力で避難・抵抗の拠点を固めていたのです。
(同上書 p.95~96)
見付宿(磐田市)の人々は、信玄に年貢の半分でも納めると申し出れば夜討や乱取を免れる事が出来たのだか、だれもが家康びいきであったために、信玄には年貢を出さなかったという。そのため武田軍に襲われることが何度かあったのだが、ある日町民たちを予め省光寺山に避難させて、やがて武田軍の夜討の兵たちが引き上げるのを見て、山の上から声を合わせて叫ぶと、驚いた武田軍は、「乱取」した物を捨てて逃げて行ったので、さらに追い打ちをかけたという記録が残っているという。
見付宿の事例では家康にのみ年貢の半納をした事例だが、双方の軍にそれぞれ半納して乱取を免れようとした事例も全国的に存在するのだそうだ。
また村々には領主の城や山あいなどに避難所をもっていた事例がある。
北条軍のつぎのような指示(『静岡県史 資料編中世』四―一五〇六~〇七)が、その事情をよく示唆しています。
「さかさはやしの小屋の者共、いずれも赦免候あいだ…、軍勢・甲乙人、彼の男女に手指し候わば、厳科に処すべきものなり、」
さかさはやしの小屋に籠っている村人は、皆赦免する。もし兵士が村の山小屋にいる「男女に手指し」をしたら、厳重に抗議する、というのです。近くの「布沢の郷」にも同じ趣旨の指示が出されています。
…中略…
戦場の村で「男女に手指しするな」という大名の指令は、ほかにも例があります。同年(天正十年:1582年)二月、同じ駿河でこの北条軍とぶつかった徳川家康も、有度(うど:清水市)・安倍(静岡市)・益頭郡(藤枝市等)など諸軍の村々に、つぎのように保障していたのです。(『静岡県史 資料編中世』四―一四八五~八九)
「この百姓ら、子細これあり、朱印あい出だすの上は、当手の軍勢手遣すべからず。もし違乱の輩これあらば、速やかに死罪に処すべし。」
(同上書 p.97~98)
村の人々はおそらく大金を払って男女が略奪されないように小屋を造り、そこで乱取をする兵士は死罪にする旨の朱印状を交付されていた。その上でさらに村人たちも武装していたのである。
村を捨てた人々
戦禍をさけ生命や財産を守るために様々な手段を執った村もあれば村もあれば、耕作を放棄して多くの農民が離村した事例もある。
藤木久志氏著『土一揆と城の戦国を行く』に北条氏康の事例が出ている。
…北条氏康は、…天文十二年二月三日(1543年3月18日)、虎印判状といわれる北条家の公式文書をもって、武蔵野戸部郷百姓中・代官に対して「武州戸部郷陣夫」を、当年限り「夫銭八貫文」で済ます(戦場での雑役を免除して、その分を銭で済ます)ことを条件に、いまなら三月という春の耕作のはじめに「郷中へ罷り帰り、作毛いたすべし」(村に帰って、耕作をせよ)と求めていた。
春耕をひかえて、百姓たちに「村に帰れ」とか、「陣夫は、人夫ではなく、夫銭でもいい」というのは、この戸部郷(横浜市)が、戦場への村人の徴発を意味する陣夫の負担に耐えかねて、おそらく前年から、こぞって耕作を放棄して、離村していたらしい様子をしのばせる。
郷の百姓たちが、まとまって離村した直接の原因は、こうした大名の対処ぶりからみて、陣夫の負担、つまり戦争への村人の徴発拒否であった、と推測される。あたかも天文十年初冬以来、北武蔵で北条氏と扇谷上杉氏との戦闘や緊張が続いていた時期であった。
ただ、戦争(陣夫の負担)のほかにも、村人が耕作を放棄して離村した深い背景として、見逃せない災害情報もある。前年秋の甲斐(山梨県)は「此年ノ秋、世ノ中一向悪ク…人々餓死候事、無限」という、深刻な凶作・餓死に見舞われ、それは東国にも及んでいたらしく、翌十二年春の「東国疫病流行」という伝えは、凶作・餓死と背中合わせの疫病が、関東にも広がっていたことを示唆している。
(藤木久志氏著『土一揆と城の戦国を行く』朝日選書p.73~74)
村人が耕作を放棄すれば、大名の年貢が減るだけでなく、軍隊の兵器や食糧の運搬などの仕事に携わる者が少なくなり、敵と十分な戦力で戦うこともできなくなる。また天文十八年(1549年)に南関東で大地震が発生し、その被害が甚大であったことも、農民が村を離れる要因の一つであったようだ。
北条氏康は天文十九年(1550年)には「諸郷公事赦免」を出して村々の諸税を免除し、目安箱を設置し、帰村した退転百姓に対して、借財を免除することなどを定めたが、翌年には西浦の百姓中と代官に宛てて、百姓たちがよその領主に奉公に出ることを禁止し、以前のように村に帰れと命じている。また、天文二十一(1552年)年三月にも、北条氏康は武蔵の今井村(埼玉県本庄市)、上野(こうずけ)の三波川谷・北谷(群馬県藤岡市)に対して、『百姓等、早々、在所へ罷り帰り、作毛すべく候』と、ここでも農民に対して村に帰って耕作をせよと命じ、翌月には自軍による村人への略奪の禁止と排除を保証したという。しかしながら、その後も耕作を放棄して離村する村人は後を絶たなかったという。
一揆する村、大名とともに戦う村
こういう時代であったから、戦場の村はふだんから武装し、集団で行動していたようだ。
離村する村人が多い地域もあったが、農民が武器を持って敵と戦った事例もある。
「戦国の終わり近く、今川氏真が武田軍に追われ、駿河国を捨てて遠江国に逃げ出すと、駿河国で武田軍に抵抗するのは、自力で村々を守ろうとする土着の一揆勢ばかりになってしまいました。永禄十二年(1569)の春、「山々の一揆中」といわれた駿河国安倍郡の井河・安部(静岡市)の一揆中は、山々へ籠って武田軍と戦い、今川方を応援する北条氏に援軍をもとめました(『静岡県史 資料編中世』三―三六一七)。
志太郡稲葉郷(藤枝市)の岡谷氏のように、一揆と共同して武田軍に抵抗する者も少なくなかったようです(『静岡県史 資料編中世』三―三七一七、四-八・九九)。戦場になった駿河国の中田郷(静岡市)でも、ほとんどの百姓はよそへ逃げますが、海野という百姓は家族ぐるみ安部一揆に加わって「一揆の奉公」に励んでいたと言います(『静岡県史 資料編中世』四―二二一)。有度郡石田郷(静岡市)でも、多くの百姓は戦火を避けて乱中にどこかへ欠落(かけおち)してしまいますが、一人だけ残った百姓の西谷某は、やはり安部一揆に加わって活躍していたといいます(『静岡県史 資料編中世』四―二二二・三五七・六〇二)。戦場の村人たちは、大名だけに頼らず、地域を自力で守るために蜂起したのでした。
(『飢餓と戦争の戦国を行く』p.101)
そして戦国大名の中には、村を守るために戦う村人の力を戦力に取り込もうとする者が現れ、村人たちも、村を守ってくれる大名に協力するようになっていった。
天正五年(1577)秋に武田氏は、一五歳から六〇歳までの領民に動員をかけたとき、国の滅亡・民衆の危機を訴えて、出陣は二〇日間だけとするから、夫丸(ぶまる:雇い人夫)ばかり出さず、武勇の輩を出すように、と強く求めていました (『静岡県史 資料編中世』四―一〇六六) 。
あやしげな傭兵ではなく、きちんとした精農・精兵を出せ、というのです。村に緊急の動員を割り当てられても、当人が出て行かず、金で雇った身代わりの人夫、つまり傭兵で済ます。そんな風潮がどの大名の村にも広がっていたらしいのです。
永禄十一年(1568)の晩秋、遠江国に侵入した徳川家康は、地元の人々(地下人)を味方につけようとして、もし手柄を立てたら①名字をもつ村の有力者(名字士)には知行(領地)を与えよう。②一般の村人(地下人)には田畑を与えよう。③寺社には山林を寄付しようという好条件で、けんめいに誘いました(『静岡県史 資料編中世』三―三四七七)。
(同上書 p.103)
どの大名たちも、本格的に民兵を戦争に動員する組織を作る事は出来なかったのだが、農民たちにとっては村や地域を守ることが第一で、大名同士の激しい対立を利用しながら、国境の両側の村々を出たり入ったりしながら、たくみに年貢や課役を免れる者も少なくなかったという。結局のところ、村人の平和を実現できない大名は、淘汰されざるを得ない運命にあったのである。
戦国時代は戦国大名の国盗り合戦という見方が一般的であるが、村人からの支持を得られなければ協力も得られず、戦いに勝つことが難しかった時代であったことを知るべきである。
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