なぜ室町時代中期に土一揆が頻発したのか~~土一揆と応仁の乱1

土一揆と応仁の乱
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シュペーラー極小期に全国的な飢饉が頻発した

 日本気象予報士会東京支部長の田家康(たんげ やすし)氏の『世界史のなかの戦国時代〜異常気象 小氷河期が戦乱を生んだ』という論文がネットで公開されている。ここには「シュペーラー極小期」と呼ばれる1420~1540年頃の太陽活動が低下した時期に、全国的に飢饉が起こり、何度か一揆が起きたことが書かれている。

 1420年代から、冷夏・長雨による飢饉の記録が増えてくる。室町時代前期にあたる1330年代から1420年までの約90年間で冷害・長雨に由来する全国的な飢饉は1356年、1390年、1406年の3回しか起きなかったのに対し、シュペーラー極小期に相当する1420年代から1530年代の約110年間で11回発生している(表1)。日本の農業の歴史を振り返ると、灌漑設備や水利管理の充実によって干ばつ対策は進んできた。しかし、冷害には脆弱であり、この課題は今日でも引きずっている。  まず1423年に京都、越中、山城、大和で、そして1427年に、京都、会津、武蔵、下野、伊勢、丹波、豊前と各地に長雨や洪水の記録がある。1428年前半に三日病とよばれる疫病が発生し、応永から正長へと改元した理由となった。。

 1428年には、京都、会津、下野、武蔵、伊勢、丹波、豊前で飢饉が発生した。そして同年8月、正長(しょうちょう)のの土一揆(つちいっき)が勃発するのだ。興福寺別当の尋尊が編集した『大乗院日記目録』には、「天下の土民蜂起す。徳政を号して、酒屋、土倉、寺院等を破却し、雑物等を恣にこれを取り、借銭等を悉く破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基であり、之に過ぐるべからず。日本開闢以来、土民蜂起の初めなり」と書かれている。もともと農業生産を向上させるための鉄製農具や農耕馬が、農民叛乱において武器と化していった。
 1437年から2年続きの飢饉が発生し、嘉吉の徳政一揆の遠因となる。1441年6月に足利義教が赤松満祐によって暗殺されると、新しい将軍はまず善政を示すべきとして、借入金の返済を見直す「代替りの徳政」を求める声が高まった。9月に入って、一揆の軍勢は近江から京都に乱入したのだ。室町幕府は、正長の土一揆では拒否した徳政要求に屈し、閏9月10日に徳政施行を発した。
 1445年から1446年にかけても、洪水は加賀、能登、近江で起き、京都で「止雨奉幣」が祈られた。そして、1447年(文安4)に諸国の牢籠人が洛中に集まり、暴徒や悪党と結託して文安の土一揆が発生した。
 冷夏・長雨ばかりではない。1460年前後に少雨による干ばつの記録があり、(図3)の短期的な揺り戻しの時期と一致している。長禄・寛正の土一揆が起きた時代だ。

田家康 『世界史のなかの戦国時代〜異常気象 小氷河期が戦乱を生んだ』

 この論文の(図3)は東アジアの平均気温推移をグラフ化したものだが、どうしてこのような過去の数値がわかるのかというと、古木の年輪に含まれる放射性炭素C14を測定することで、過去の年別の太陽活動の活発度合いが推定できるのだという。
 このグラフの赤い丸で囲んで部分が「シュペーラー極小期」で、太陽活動が低迷し、気候が平均より寒冷であったことがわかる。

 太陽活動が低迷すれば、当然のことながら穀物等の収穫量が減少し餓死者が増大することにつながるのだが、わが国における「シュペーラー極小期」は応仁の乱から戦国時代にかけての時代を含んでおり、この時代に各地で飢饉が発生し、土一揆が起こったり隣国同士が戦うなど、争いごとが頻発した時代である。

異常気象により何度も飢饉が起きたことを書かない教科書

 一般的な高校教科書では、この時代に土一揆が頻発したことについて、異常気象により何度も飢饉が発生していたことに全く触れていない。たとえば『もういちど読む 山川日本』では、こう解説されている。

 守護大名が大きな勢力をきずいてきた十四世紀後半には、荘園領主や国人の支配する農村で、惣(そう)や惣村(そうそん)とよばれるむすびつきが発達していた。このむすびつきは、戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民が、成長してきた小農民を構成員にいれてつくったもので、自治的性格をもち、沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)とよばれる地侍(じざむらい)の指導者を選出し、警察・裁判などもみずからおこない、武力もそなえていた。

 惣村を維持するため、その構成員である惣百姓は会合(寄合)をひらいて規約(村掟・惣掟)を定め、財産として共有地(惣有地・入会地)をもっていた。また領主と交渉して、責任をもって年貢を請け負う百姓請(地下請)を実現したり、年貢の免除や引き下げをもとめた。

 こうした惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力にたよった。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していった。

 農民たちは、はじめのうちは領主に抵抗するのに、領主のもとにおしかけて訴える愁訴(しゅうそ)・強訴(ごうそ)や、山林ににげこんで耕作を放棄する逃散(ちょうさん)などの消極的な手段をとっていた。

 しかし守護の領国支配がすすむと、彼らは周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくるようになり、一致団結した集団行動の一揆や、逃散といっても他村ににげこむ積極的な行動もとるようになった。そして地域的にひろいつながりをもつ土一揆という武力蜂起をおこすようになると、経済的にも地域のつながりがふかまるなかで、守護大名と実力で対抗するまでに成長していった

(『もういちど読む 山川日本史』p.117-118)

 このままでは飢えて死ぬしかない瀬戸際であったから各地で土一揆が起こったのだが、通史などでは異常気象が起きて何度も飢饉が発生したという史実に触れないのはおかしなことだと思う。今も歴史家の多くは、階級闘争のはじまりとして土一揆を描きたいのであろうか。

正長の土一揆

 興福寺別当の尋尊が「日本開闢以来、土民蜂起の初めなり」と『大乗院日記目録』に記した正長(しょうちょう)の土一揆が発生した頃の状況について、藤木久志氏は次のように解説している。

 応永二十七年(1420年)には「天下大旱魃」「畿内・西国ことに不熟」と凶作が拡がり、翌二十八年(1421年)春には、「諸国の貧人上洛し、乞食充満す」といわれ、周縁の国々から、飢えた貧しい人々が、難民となって京に殺到します

 京の街角には必死に物乞いする「乞食」があふれ、路頭に餓死する人も数えきれないほど、といわれました。京の南郊の伏見庄でも、飢饉のため多くの村人が、必死に生きのびようと、京へ出て行ってしまいます。おおぜいの餓死者がでたこの庄では、惣鎮守の春祭の猿楽がとりやめになり、村の寺では勧進(喜捨・カンパ)を募って、供養と施しのために、大施餓鬼が行われたほどでした。(『看聞日記』)」

 京でも幕府が、周縁から流れ込んだ飢餓難民を救おうと、京の東を流れる鴨川の五条の河原に、仮小屋をかけて難民を収容し、粥の施しをはじめます。銭の施しもあったようです。京の町には銭を出せば買えるほど、まだ食糧のゆとりがあったのでしょう。しかし、この粥の施しで急に食べたのが命とりになり、衰弱した人々の間には疫病も広がって、難民たちはきりもなく死んでいった、といいます(『看聞日記』)。

(藤木久志著『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書 p.49)

 諸国の飢饉難民たちは、初めのうちは近くの村々に食物を求めたが、それが尽きると京に向かっていったという。その結果京の人々の一部が飢餓に苦しむことになったという。

 続いて、応永三十年(1423年)、三十四年(1427年)には長雨や洪水が各地で起こり、三十五年(1428年)には疫病が蔓延した。そしてその年の秋になって、ついに民衆は起ちあがったのである。『大乗院日記目録二』正長元年(1428年)九月日条にはこう記されている。

 天下の土民蜂起す。徳政と称し、酒屋・土倉・寺院等を破却せしめ、雑物等恣(ほしいまま)に之を取り、借銭等悉(ことごと)く之を破る。管領之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開闢以来、土民蜂起是れ初なり。

(『日本史料集成』平凡社 1956年刊p.231)

 「徳政令」とは債権債務の破棄を命ずるもので、鎌倉時代に幕府が御家人の窮乏を救済する目的で出されたことがあったが、民衆が自ら徳政を求めて領主、守護、酒屋・土倉(どそう:鎌倉・室町時代の金融業者)、寺院といった高利貸資本などの支配者勢力に対して組織的に蜂起した事例は正長の土一揆が最初である。寺院が狙われたのは、この時代は寺も祠堂銭などにより高利貸を行っていたことによる。

 幕府は管領・畠山満家に命じて土一揆の制圧に乗り出したがその勢いは衰えず、畿内一帯に波及していったという。

 幕府が徳政令を発したわけではなかったのだが、土倉らが持っていた借金の証文が破棄されたので、私徳政が行われたのと同じ状態になった。Wikipediaによると、奈良市柳生町に、「疱瘡地蔵」と通称する地蔵菩薩立像を彫り出した花崗岩の巨石があり、その向かって右下に「正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」という趣旨の碑文が刻まれているという。正長元年(1428年)の正長の土一揆によって興福寺より徳政令を勝ち取った郷民の誰かが記念に彫ったものとされている。

その後も相次いだ大飢饉

 嘉吉三年(1443年)に「嘉吉の大飢饉」が起こっている。しばらく藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

 この年も京では『天下飢饉し、悪党充満す』(『看聞日記』)といわれ、大飢饉のため夜ごと高利貸が襲われ放火され、『みな強盗のせいだ』と言われます。『辺境』の村が飢えると、生き延びるため『京中』をめざし、ときには京の高利貸(土倉・酒屋・寺院など)や富商を襲います。諸国の領主や京の政権に、ほとんど危機管理の力量がなかった時代のことです。だから、かれら悪党や強盗の多くは、物乞いとならんで、周縁から京に流れ込んだ飢餓難民たちが、自力で生き延びる必死なサバイバルの道だったと私はみるのです。

(同上書 p.50-51)

 さらに文安二年(1445年)には各地を大きな台風が襲い、文安三年(1446年)には大洪水があり、翌文安四年(1447年)にも大風・洪水・旱魃から凶作となったために飢餓難民が京に流入し、さらに「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も各地から京都を目指したという。

 そして十三年経って、長禄四・寛正元年(1460年)冬から翌年春にかけて、「寛正の大飢饉」が起こり、この時も諸国の人々が食を求めて京に流入し、米穀の蓄えが底をついた寛正(かんしょう)二年(1461年)の春に、将軍足利義政が錢百貫文を放出して食物の施しを始めたが、多数の飢饉難民を前にほとんど効果なく、わずか六日ほどで打ち切ったという記録がある(『臥雲日件録抜尤』)。

 また願阿(がんあ)という民間の僧が、「勧進」といって京の人々から金品の喜捨を募り、六角堂の一帯に仮小屋を立てて難民を収容し、日に二度、八千人もの規模で粟粥などの施しを始めたが、この施しも効果が乏しく二十日ばかりで止めてしまった記録がある(『碧山日録』) 。
 餓死者は鴨川にあふれて流れをふさぐほどで、五条の河原に三百メートルもの長い堀を掘って埋葬したという。

 このようにして京に流入した飢餓難民に対して、人々はどのように対応したのであろうか。藤木氏は同上書でこう記している。

 十五世紀の初め『天下大飢渇』といわれた飢饉のさなか、京の慈恩という金持が錢二百貫文もの私財を投げ出して、五条の大橋のかけ替えを始めると『富者は財(金銭)を施し、貧者は力(労働)を施し』たため、飢えた人々も仕事と食べ物にありつき、ぶじに大橋の再建も成った、といいます(『仲方和尚語録』)。また苔寺で知られる京都の西芳寺でも、同じころの大飢饉のさなか、難民を救うために『ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い』と考えた僧が、荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭もできた、といいます(『三体詩抄』)。

(同上書 p.55)

 ただ米や金を与えるだけでは事態は改善しない。避難してきた人々に仕事を与え、収入を得るようにさせることが何よりも重要なのである。

足利義政像

 将軍の足利義政は長禄・寛正の飢饉のさなかに「花の御所」の復旧をはたし、ついで六千万貫文もの資金を投じて、母のための御所の建造にとりかかったことについて、人民の苦しみをかえりみぬ暴挙として、天皇に批判されたという記録(『新撰長禄寛正記』)があるそうだが、藤木氏は飢饉であったからこそ、将軍は雇用創出の為に公共事業を起こして、難民たちに仕事を与えたという可能性を示唆しておられる。事実、将軍義政は寛正二年の春に五山の寺々に指示し、四条・五条の大橋で大がかりな「施食会」も開かせており、難民対策もしっかりと実施していたのである。

【上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた『花の御所』】

 将軍の御殿造りも、寺の再興も、公共の橋のかけ替えも、金持の豪邸つくりも、みなこの生き残りの仕組みをうまく駆使した事業でした。それは、権力者や寺院や豪商が強引に手元へかき集めた巨富を、危機の世に放出し再配分するための装置だった、ともいえるでしょう。

 その結果、なにがしかの働き口と食べ物にありついた難民たちの一部は、かつがつ餓死をまぬがれ、彼らを救った坊さんは世に名僧と仰がれ、金持ちは『有徳の人』(徳のある人)と敬われ、その社会で地位を固めました世の危機に私財を投じて事業を起こすのは、世の金持ちの当然の務めで、それこそ『有徳の人』といわれたのです。

(同上書 p.57-58)

 幕府だけでなく一部の富裕な人々が、飢餓や不況で労賃も資材も安価な時こそ大きな事業に取り組むべきだとして、難民たちに働く場所を提供した。そのことによって多くの人々が救われたのである。この点は新型コロナ騒ぎで経済を破壊し続ける、どこかの国の政府や金持ちよりも、はるかにまともだと思うのは私ばかりではないだろう。

 しかし、このようなひどい不況期で多くの人々が飢饉で苦しんでいる時に、何の事業も起こさずひたすら蓄財に励む富裕層に対しては、世の中は黙っていなかったという。

 …『徳』のある行いをつよく求め、実力で富をもぎとる行動に出たのです。その典型が、つぎにみる『徳政』をさけんだ土一揆で、その標的になったのは、土倉・酒屋・寺院など、京の富豪(分限者)たちでしたあいつぐ飢饉を背景に断続した徳政の土一揆というのは、世のサバイバルシステムを力ずくで作動させようとした、いかにも『自力』第一の中世らしい、自力救済の運動だった、と私はみるのです。

(同上書 p.58)」

 不況が長引き飢餓が発生するようになれば、人々の怒りの矛先は、自己の蓄財ばかりに汲々とする人々や経済活動や社会活動を停滞させる元凶に向かっていったという室町時代の土一揆の歴史を、政治家も官僚も財界人もマスコミも、知っておいた方が良いのではないだろうか。

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