二回目の御東幸は激しい反対論があった中で強行された
前回の記事で慶応四年(1868年)七月十七日に明治天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発されたことを書いたが、この詔書には、どこにも「都を遷(うつ)す」とは書かれていない。ただ「江戸を東京と称する」と書かれているだけだ。
天皇は八月二十七日京都で即位の礼を終え、九月八日に年号を明治に改められると、九月二十日に京都を出発して東京に行幸され、二か月ほど滞在後京都に「還幸(かんこう)」されている。「還幸」とは天皇が御幸から都にお帰りになることであり、江戸を東京と称するようになった後も京都は都であったことを意味している。
しかしながら、再び天皇が明治二年(1869年)三月上旬に再び御東幸されることが布告されると、京都市民をはじめ草莽の志士たちが、今度は東京遷都の決行であると考えてこの中止を請願し、同様に公卿諸侯も動き出したのである。
岩倉具視はこの状況を見て、今度の御東幸が遷都ではないことを布告し、さらに京都府からも同様の諭告書を公布させている。「遷都」という言葉は、旧都を廃止する意味が含まれるのだが、岩倉は東京を新たに都と奠(さだ)めるのであって京都は都のままという考え(奠都[てんと]論)なのである。しかしながら、二度目の御東幸反対の声はやまなかった。
『維新史 第五巻』には当時の京都の状況について、次のように解説されている。
然るに御再幸反対の声は依然として止まず、処士古松簡二(久留米人)・古賀十郎(柳河人)等の如きは、輔相三條實美・議定岩倉具視に見(まみ)えて、御再幸を中止せられんことを建言し、十津川郷士もまた大挙して同趣意を奏請しようとした。
あるいは京都四条大橋等に御再幸中止の請願文を貼付する者があり、あるいはまたこの機会に乗じて、名古屋遷都の議を画策する者さえもあった。かくの如く御再幸反対の声は日を追うて熾烈となったので、軍務官知事嘉彰親王・同副知事有馬慶頼(中務大輔久留米藩主)・前左大臣近衛忠房・少納言五條為栄等はこれを憂い、関東の形勢ややもすれば不穏なりとの風聞もあれば、御再幸をご中止あらせられたいと奏請するに至った。
しかるに二月二十八日、三職(維新政府最高の三官職[総裁、議定、参与])等の会議が開かれるや、輔相三條實美らは断乎として、今にして御再幸の事を中止せば、東京並びに東北に於いて再び争乱の勃発すべきことは明瞭であると論じ、廟議変更の絶対に不可なることを主張して止まなかった。
(『維新史 第五巻』維新史料編纂事務局 昭和16年刊p.465~466)
ここに於いて廟議は一決し、御再幸の盛挙を奏請し奉ることとなったのである。
多くの反対論がある中で、二度目の御東幸は三月七日に出発し、天皇陛下は途中伊勢神宮を御親謁のあと東海道を東に向かい三月二十八日に東京城に到着された。そして、即日東京城を皇城と名称を改め、太政官を皇城内に設けられている。さらに四月二十二日には宮・公卿・諸候及び三等官以上に参内することを命じ、翌日から政務を御親裁される旨を仰出されたという。
皇后東京行啓の布告と反対運動
そして九月十九日に至り、行啓の期を十月五日とする布告があった。「行啓」とは太皇太后 ・ 皇太后 ・ 皇后 ・ 皇太子 ・ 皇太子妃 ・ 皇太孫 が外出することをいうが、この布告で京都の市民が動揺する。
京都の市民はひたすら天皇の御還幸を鶴首御待ち申上げていた際、はしなくも皇后の東京行啓のことが仰出されたので、これこそ必ず遷都の前提なるべしと思惟し、人心は再び動揺して止まなかった。
(同上書 p.469~470)
即ち群衆は北野天満宮に参詣して、行啓の御中止ならびに御還幸の祈願を為し、あるいは御所・留守官・京都府等へ出頭して、行啓御中止の哀訴嘆願に及ぶ市民はその数を知らず。また姫路藩知事酒井忠邦も東京行啓の不可を建言し、弾正台京都出張所員たる弾正台忠海江田信義以下三十名は連署して、同じく行啓の御中止を請願する有様であった。
ここに於いて留守長官・中御門経之、京都府知事・長谷信篤らは、或いは諭告を発して遷都にあらざる旨を示し、或いは自ら組頭等を召して懇諭するなど、その慰撫に努め、漸くこれを鎮撫せしむることを得たのである。かくて皇后に於かせられては、十月五日京都を発輿遊ばされ、同月二十四日御恙なく東京に著御あらせられたのである。
京都市民の多くは、明治天皇が二度目の行幸をなされても、皇后が残っておられるので、遷都ではないかとの噂があってもまた戻ってこられるものと考えていた。しかし皇后陛下が東京へ行啓されることが決まると、これが実質的な遷都になるのではないかと考え、多数の市民が立ち上がり皇后の東京行啓に反対したというのだが、どれくらいの規模の反対があり、いかにして説得されたのであろうか。
歴史作家の高野澄氏が『京都の謎 東京遷都その後』に、次のように書いている。
九月二十四日、石薬師門に数千人の市民があつまり、旗をおしたて、皇后の東京行啓を中止してもらいたいと嘆願した。いまの京都御苑の築地塀の、東北の一角にあるのが石薬師門である。
嘆願の群れは門から奥には入れなかったが、京都府は動揺した。上京と下京の町組(ちょうぐみ:京都の自治自衛の組織)の代表者を呼び出し、懇切な言葉によって説諭した。説諭のうち、もっとも力点がおかれていたのは大嘗会(だいじょうえ)について、である。天皇自身がみずからの即位を神に告げる神聖な儀式を大嘗会という。明治天皇は慶応三年(1867年)一月九日に践祚(せんそ:天皇の地位をうけつぐこと)し、即位の礼も上げたが、目まぐるしい政変のため、大嘗会をおこなうことができなかった。
説諭はいう。
『大嘗会をなされぬまま、天皇は二度にわたって東京にゆかれた』
『それは、大嘗会を東京ではなく、この京都で行われるお気持ちであるからだ。大嘗会は帝都でなければおこなえない定めであって、もしも東京で大嘗会をおこなわれるであれば、その前に東京遷都の詔(みことのり)が発布されはずだ。ところが、今日まで、遷都の詔は発布されていない。これこそ、天皇が東京には遷都なされないお気持ちであるしるしなのだ』(意訳)しかし、このころすでに、政府の政策としての東京遷都は動かしがたいものになっていた。政府と京都府は、東京遷都による京都の市民が味わう喪失感をやわらげなければならないとの認識で一致していた。
(祥伝社黄金文庫『京都の謎 東京遷都その後』p.24~25)
明治新政府に騙された京都市民
かくして、天皇陛下も皇后陛下も東京の皇居に行ってしまい、実質的には遷都のような状態になったのであるが、大嘗会という重要行事が残されていたのである。この行事は、天皇が即位の礼の後で最初に行う新嘗祭(にいなめさい:天皇がその年の収穫を祝う宮中祭祀)であり一代一度限りの大祭である。この大祭のためにまた陛下は京都に戻ってこられると説得されて京都市民は納得したのだが、実際はどうなったのであろうか。
『東京奠都の真相』にこの様に解説されている。
されば東京にてはまたまた来春還幸あらせられるべきや否やについて問題起これり。
(岡部精一 著『東京奠都の真相』仁友社 大正6年刊 p.254~255)
然るに国家多事にして御還幸を許さざるの事情あるを以て容易に決せず。
かかる間に明治二年己巳の歳はくれて庚午の春は東京の皇城に於いて迎えさせ給えり。
而して西還に関する評議は以前廟堂に於いて講ぜられしが、遂に還幸延期に決し、三月十八日に至りて諸国凶荒の故を以て車駕西還延期の旨を太政官より京都留守官に相達し、以て京都市民に諭告せしめらるる所ありたり。
そして明治三年(1870年)は還幸も大嘗会も行われず、天皇皇后両陛下は明治四年(1871年)の正月も東京の皇城で迎えられたのである。そして三月になって大嘗会を東京で行う事が発表され、八月には京都留守官が廃止され、十一月十七日には大嘗会が予定通り東京で行われたのである。そして、明治五年(1872年)に天皇陛下は、海路中国・四国方面に御巡幸される途中京都にも立ち寄られたのだが、この時は「還幸」ではなく「行幸」という用語が用いられたという。京都の人々は完全に政府に騙されたのである。
京都御所紫宸殿になぜ高御座が常設されているのか
京都御所を見学にいくとわかるのだが、紫宸殿の建物の中央の奥に天皇が即位される儀式で天皇の御座(ぎょざ)として用いられる「高御座(たかみくら)」がある。
この「高御座」が京都に常設されていることから、明治天皇のあとの大正天皇、昭和天皇の即位の大礼はいずれも京都御所で執り行われている。
第百二十五代明仁天皇(現上皇陛下)および今上天皇陛下の即位の際には、この「高御座」を東京の皇居まで運んで大礼が行われたが、終了後にはもとの京都御所・紫宸殿に戻されている。上の画像は平成二年の即位礼正殿の儀で撮影された高御座である(Wikipediaより)。
天皇陛下の即位式に必ず必要なものであるのなら、その都度「高御座」を京都御所に戻さなくても、そのまま東京の皇居に置いておけば良いではないかと誰でも考えるところなのだが、過去の経緯を調べていくと「遷都の詔勅」が出されていないので、手続きの上では京都は今も都であり、天皇陛下・皇后陛下は御東幸されたまま戻ってこられていない状態が続いているということになる。
紫宸殿に高御座が残ったのは、これまで書いてきた経緯と無関係ではないだろう。もし高御座まで東京に移してしまえば、天皇陛下が京都に戻られることを京都市民に説得できる材料がなくなってしまう。明治政府は、何か重要なものを京都に残さなければならなかったし、そのために高御座が残されたのではないか。
言葉は悪いが、高御座は天皇陛下の身代わりのようなものとして「京都御所・紫宸殿」に残されてきたと考えている。
よくよく考えると、現在の天皇陛下が住んでおられないのに「京都御所」という言葉を用いるのも、おかしな話である。本来「御所」と言う言葉は、現天皇陛下の住まいのことを意味するので、現状のような状態であるなら「京都御所址」とか「元京都御所」などと呼ぶべきであろう。にもかかわらず、今も「京都御所」という言葉が用いられるのは、政府が明治二年(1869年)の御東幸を遷都ではないと言い続けてきたために、京都市民に対しては、「京都御所」という言葉を使い続けざるを得なかったからではないだろうか。
明治政府は、本来ならば「遷都の詔勅」を出し、正式な手続きを踏んで東京に都を遷したかったのだろうが、京都市民らによる強烈な反対運動に遭遇してそれが困難となり、「遷都」という言葉を使わずに「行幸」「行啓」と呼び、最後は京都市民らをだまして、実質的な東京遷都を成し遂げたのである。
教科書や通史などでは「明治二年(1869年)に東京遷都が行われた」と書かれていることが大半なのだが、この表現では「遷都の詔勅」が出されなかった異常な出来事であったことを行間から読み取ることは不可能である。戦前・戦中には「東京遷都」ではなく、「東京奠都」という用語を用いている本の方が多いのだが、この出来事については「東京奠都」という書く方が適切だと思う。
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