沖縄は、江戸時代以来薩摩藩の支配下にありながら、清国にも朝貢していたことが教科書で書かれていたが、もう少し詳しく知りたいと思って「国立国会図書館デジタルコレクション」で沖縄に関する書籍を探してみた。
最初に紹介したいのは沖縄那覇市出身で「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷(いは ふゆう)が著した『沖縄よ何処へ : 琉球史物語』という本だが、著者は薩摩藩が支配した時代から明治初期にかけて、次の様に解説している。
琉球王国は、慶長役以後は、島津氏が名義上は支那に隷せしめ実際上は自国に属せしめて、ひそかに日支貿易を営むために設けた機関に過ぎないのだから、その存在の理由がなくなるや否や、動揺を来すのは当然なことである。御維新になった結果、琉球王国はもはや島津氏の密貿易の機関ではなくなって、日本帝国の一県なる鹿児島県の管轄になったわけだから、琉球処分という問題は当然起こらざるを得なかったのである。
これについて木戸孝允の如き最も深慮ある政治家と言われた人は、今は内治に全力を注ぐべき時であると主張して、琉球問題を迅速に解決するを好まなかったが、別に大久保利通の如き琉球の内情に通じた政治家がいて、この好機を逸してはならぬというので、とうとう琉球を処分することになった。けれども琉球は数百年来支那の正朔(せいさく)を奉じた国で、名義上は支那に属しているから、これを処分するには、こちらから冊封してからでなくては都合が悪いというので、順序として明治五年に、ひとまず尚泰(しょうたい)を藩王に封ずることにした。この前年(即ち琉球が名義上まだ日本の版図にならなかった時)、琉球人が台湾の牡丹社に漂流して、生蕃(せいばん)*人に殺害されたことがあったが、日本政府では、副島外務卿を清国に遣わし、ついでに生蕃人が琉球人を殺害した罪を責めさせてみた。すると、清国政府ではこれは国内の事件だから貴国の容喙する限りではない、とでもいうべきところを、生蕃は化外の地で、わが監督するところではないといって、日本政府の誂え向きに出たので、とうとう明治七年の四月に、陸軍中将西郷従道を遣わして、生蕃人を膺懲することにした。
さていよいよ征伐しおわると、清国政府では、今更のようにびっくりして、生蕃は我が所轄であると言い出したので、それでは軍費償金及び被害者遺族の撫恤金を出せといって、五十万円をうけとることとなった。これやがて琉球処分**の伏線であった。
*生蕃人:清朝以降,台湾先住民のうち漢民族化したものを熟蕃(じゅくばん),そうでないものを生蕃(せいばん)と呼んだ。日本統治時代は前者を平埔(へいほ)族,後者を高砂(たかさご)族と呼んだ。
**琉球処分:明治十二年(1879年)に明治政府の手で行われた沖縄の廃藩置県のこと。これにより琉球王国は崩壊し沖縄県が置かれた。そこで支那が琉球は日本の属国であるということを承認したすがたになったので、明治八年の六月、内務大丞松田道之を琉球に派遣して、支那との関係を絶つようにとの命令を伝え、爾来幾多の曲折を経て、明治十二年の三月に、断然琉球藩を廃して、沖縄県を置くことにした。こうして所謂琉球王国は滅亡したが、瀕死の琉球民族は、日本帝国の中に入って、蘇生したのである。
私は琉球処分は一種の奴隷解放だと思っている。ところが三百年刊奴隷制度に馴致された琉球人は、せっかく自由の身になったのに、将来の生活が如何に成り行くかを憂いて、泣き悲しんだということである。実際人間は、導かるべき理想の光を認めることが出来ず、また進むべき標的を見出しかねる場合には、自由を与えられて、却って悲哀を感じ、解放されて却って迷惑に思う者であるが、彼らもまた一旦解放された小鳥が、長い間その自由を束縛していた籠(かご)を慕うて帰って来るように、三百年間彼らの自由を束縛していた旧制度を慕うて、その回復を希うてやまなかったのである。けれども彼らは、否応なしに、新制度の中へ引き摺りこまれてしまった。
とにかく、誅求されていた被治者階級は、負担が非常に軽くなったために、心ひそかに明治政府に感謝したが、あらゆる特権を失った上に、新たに租税迄負担させられた治者階級は、永い間、生ぬるい反抗を続けて、日清戦役の頃に及んだ。そして彼らが目覚めた頃には、置県以来渡っていった鹿児島の小商売人たちは、もう何れもひとかどの事業家となってその経済界の一大勢力となっていた。
(伊波普猷 著『沖縄よ何処へ : 琉球史物語』世界社 昭和3年刊 p.55~59)
著者は琉球処分は一種の奴隷解放だったと書いているが、琉球王国の人々が貧しくなった最大の原因は人口増加にあったという。農地から生産される農産物には限りがあるため、人口が増加すると、特に免税特権のある特殊階級が増加すると、最下層の農民にしわ寄せが行くこととなる。
もとより貴族政治の国柄であるから、王子が繁昌するにつれて、これらを封ずる領邑の欠乏を来たし、また士族が増加するにつれて、これらにあてがう、官職、采地の不足をかこつに至ったので、間切や村を細かくして分け直して、間に合わそうとした。ところが首里・那覇・久米の三都会におけるこれらの特殊階級の夥しい繁殖は遂に激烈な生存競争を惹起し、無数の落後者は農村に流れ込んで、露命をつながなければならないようになった。元来百姓地は農民の共有で、いわゆる地人の間に割り当てられて、一定の時期に割替えをする制度であったから、彼らは地人のお情けによって小作をするか、さもなければ不毛の山野を開墾して、妻子を養わなければならない悲惨な境遇に沈淪した。が彼らは免税と言う特典をもっていたので、その子孫は次第に繁殖して、いわゆる屋取(やとり)と称する彼らの部落はとうとう農村における一大勢力となった。これに反し農村民は二重にも三重にも搾取(しぼりと)られなければならなかったから、その疲弊は甚だしいものであった。したがって王府の財政も窮乏を告げなければならなかった。…<中略>…
(同上書 p.46~48)
これより先、宝暦三年に、薩藩が木曽川の工事を命じられて間もなく、重豪公の豪奢な生活が始まって、財政困難に陥った揚句、調所というお茶坊主の献策で、財源を奄美大島諸島に求めることになったが、その余波は自然琉球にも及んだということである。
次に外国人の記録を紹介したい。
嘉永六年(1853年)ペリーが日本に浦賀に来航したことは有名な話だが、浦賀に現われる前に琉球王国にも来航している。その時のペリー側の記録が、『ペルリ提督琉球訪問記』に出ている。これを読むと、ペリーは琉球の事を予め詳しく調べていたことがわかる。
琉球は九州島と台湾島との間に連なり…三十六の島々から成り立っている。
神田精輝 訳『ペルリ提督琉球訪問記』大正15年刊 p.10)
もしこの島が事実日本の所属であれば、これが日本への足踏の第一歩であるが、しかし当時この島は薩摩に属しているとも言い、また支那の所属だとも言い、所属についてとかくの議論があったとは言うものの、事実日本の所属ではあるが支那へも朝貢していたというだけの事実らしい。その証拠には言語、風俗、習慣、法律、服装、道徳、通商貿易等の点から見て、日本に似た点が却って多いことから見てもよく解ることだ。
ペリーは、支那と琉球と日本との関係について、詳しいことを知りたがっていた。後に日本側の代理委員からは「琉球は日本の遠隔の属地であり、日本の王権の及ぶ限界となっている」と説明をうけていたのだが、二度目の琉球訪問の際に、数年前から那覇に住み着いている宣教師・ベッテルハイムの意見を求めている。
ベッテルハイム博士は、いろいろの根拠ある理由から次のようなことを信じていた。一体琉球は北京の方へ多大の朝貢をしているので、琉球の統治者は高い堂々たる王という称号を用いることを許され、ある範囲内で独立国の形になっているが、しかし総ての点から見るとなえ未だに日本の欠くべからざる一地方となっているのである。その理由を簡単に述べて見ると次のとおりである。
第一、日本の守備隊が那覇に屯営していることであるが、しかし彼らは自ら公然に現れているということはないらしいというのは、いったい琉球人は兵器も有せず、また武装した兵士も外国人には見せず、琉球人は戦争を好まぬ者の如く見せかけて居る。しかしベッテルハイム博士はある時、偶然にも営兵の一帯が、武器の手入れをしているのを見たことがあるということである。
(同上書 p.125~127)
第二には、琉球の貿易が全く日本との間に行われていることである。日本からは琉球の方へ四百乃至五百頓(トン)級の船を、毎年三艘乃至四艘派遣しているのに、琉球からはたった一艘の船を支那へ派遣し、そのほかに又隔年一掃を派遣するくらいのものである。しかもその船も貢物を積んでいくのであるという。しかし支那船は一艘も那覇へ入る事を許されないとのことである。
第三には、日本人は琉球にも沢山来ておって、琉球人と同様に絶えず市中を徘徊していることである。彼らは琉球人と結婚もし、また田畑も耕作し、したがって那覇に住所まで構えているから、要するに全く自分の郷里の如くやっている。これに反して支那人は、しきりに追い払われたり、あるいはスパイに尾行されたり、甚だしきに至っては他の外国人と同様に罵倒されたり、石を投げられたりしている。この事実を確かに目撃したと言って、アメリカの一士官が自分の日記に認めていたくらいであるから、このことは明瞭な事実である。琉球人は確かに他のすべての国民と同じく、支那人とも交際することは好まないようである。――琉球の宗教、文学、礼式、習慣等が、支那人のそれと本性的に全く同一でなくとも、よく類似しているにもかかわらず――実に琉球人は日本の要因的一地方であって、すべての外国と交際もせずまた折合もしないというのが、彼らの標語である。
第四にはベッテルハイム博士が、琉球官憲と為すすべての交際や会見に於いては、常にすくなくとも二人の人が立ち会ってそれを管理し、または琉球の官吏を取り締まっているが、これらの者はあきらかに日本から派遣された日本の監督だと博士は推察していた。
第五には、琉球の言語、衣服、道徳、習慣が日本のそれて良く合致していることである。かようにして一見したところでも立派な関係が確立しているが、その中でも殊に言語は人種学上からも最も満足すべき証左を提供している。
ペリーは、他の記録なども参照しながら、最終的には沖縄と日本と支那との関係について次のような判断を下している。
提督はかかる事実などから観察して、琉球人は多分日本人、支那人、台湾人、あるいはまたマレー人等の混合して――その中でも日本人が最も優勢であったが――できた雑種であろうと考えるに至った。かくして琉球には太古から人類が住んではいたが、その外に難破船の如き、或いはその他不意の思いがけない出来事のため、時々最寄りの地方や島々から人間が来てそれに加わったのであろう。そしてついには全体が融合して、今日の如き種族になったのである。
(同上書 p.128)
「国立国会図書館デジタルコレクション」でネット公開されている書籍のなかから、タイトルに「沖縄」「琉球」と近隣の島々に関係していそうな本を探してリスト化してみた。
例によってタイトルが太字となっている本はGHQ焚書。著者編者名が太字表示されている場合は、一冊でも著書がGHQによって焚書処分されている人物であることを示している。GHQ焚書は『琉球神道記』一冊だけだが、この本の著者は江戸時代前期の浄土宗の学僧である釋袋中で、漢文で書かれた原文と、著者の伝記がまとめられた本である。なぜこのような仏教書がGHQによって焚書にされたかはよくわからない。
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