前回の「歴史ノート」で老中小笠原長行は、将軍家茂が孝明天皇と約束した攘夷実行期限の前日に10万ポンドを支払うことによって、幕府はイギリスとの軍事衝突を回避したことを書いた。
本国のイギリス外相・ラッセルから、薩摩藩に実行犯の処刑と、2万5千ポンドの賠償金支払いを要求する指令を受けていたニール代理公使は、続いて薩摩藩との交渉準備に取りかかった。キューバー提督は二隻以上の艦隊派遣には反対していたのだが、ニールの強い要求により七隻の大艦隊を鹿児島湾に回航せしめ、武威を示して鹿児島藩を屈服させる計画が立案され、実行に移されたのである。
イギリス艦隊は文久三年六月二十二日(1863/8/6)に横浜港を出発し、二十七日(8/11)にはその威容を鹿児島湾に現わし、さらに深く侵入して鹿児島市街から三里の七ッ島付近に到着したという。
昭和十六年に刊行された『維新史第3巻』には、この日の来ることを想定して、薩摩藩が周到な準備をしていたことが記されている。
…生麦事件勃発以後は、早晩英国艦隊の鹿児島来襲を予想し、外夷屠(ほふ)らずんば已まずという意気を以て、愈々(いよいよ)武備を厳重にした。或は砲台を増築し、備砲を強化し、或は遠見番所、狼火(のろし)台を各地に設け、弾薬の製造を盛んにし、兵糧の貯蔵に力めた。英艦来襲を想定した模擬戦もまたしばしば行われ、藩主茂久はみずからこれを瞥し、一藩を挙げて日夜英艦撃攘の訓練を怠らなかった。されば六月二十七日(8/11)、英国の大艦隊が鹿児島に迫るや、予(かね)てその事あるを期待していた事なれば、沿岸の狼火台は直ちに合図の狼火を打ち揚げ、警報は八方に伝えられて、各砲台守衛の士はもとより、城下の士卒はそれぞれ迅速に部署に就いた。
『維新史第3巻』維新史料編纂事務局 昭和16年刊 p.493
徳富蘇峰の『近世日本国民史〔第50〕』に薩摩藩の砲台をみた英国側の記録が引用されている。
鹿児島付近の西岸、ならびに島嶼には砲台を構え、その砲台の多数は市街の前面に連接し、専ら市街防御を為し、守備頗る厳重だ。市街付近の高所には、陣地を卜(ぼく)し、柵を繞(めぐ)らし、薩藩の旗章を翻し、その周囲には、多数の兵士立ち並び、扇子を扇ぎて、艦隊の進航に注目するの挙動を察するに、必定一発の相図(あいず)あらば、一斉に砲火を開くもののごとし。
徳富蘇峰『近世日本国民史. 第50 攘夷実行篇』民友社 昭和11年刊p.210~211
薩摩藩主島津忠義は、軍役奉行折田平八らを旗艦に遣わし、その来意を問わしめている。
英国は折田らに国書を手交した。その国書はやや長文だが、その要求している内容は、生麦事件の犯人を捕らえて、英国将校12名の目前で死刑に処することと、2万5千ポンドの支払うことの2点であるが、「之を拒まば、その他軍艦の到着を待ちて、直ちに戦端を開くべし。」といった脅しの文句がいくつも書かれている。徳富蘇峰の前掲書(p.212~217)に、英国の国書の全文が紹介されている。
まず薩摩藩は、書面の往復は談判に不便であるとし責任者の上陸を求めたのだが、陸上での談判をニール代理公使は拒絶した。前掲書にはこう記されているが、薩摩は本気で攘夷を実行するつもりであったのだ。
『この陸上における招待は、ニール中佐(代理公使)及びキューバー提督を、陥穽に陥らしむべき計画であった。公使ら上陸せば、城内の釣橋を引き揚げて彼等を捕虜となす可き設計は準備せられた。此れは確定せられた内議であった。若し此の奸計成功し、而して英艦より発砲するが如きことあらば、此の俘虜を斬首すべき旨を、艦隊に通告し、而して霧島の堅固なる牢屋に幽閉せられたであろう。』
と七月十三日(8/26)横浜発行の英字新聞に公表せられた。それは余りにも穿ちすぎたる想像説ではあるが、その実薩摩でも、若し代理公使、水師提督等が、藩の請求に応ぜざるに於いては、彼等を御春屋内に幽閉し、同所を焼き討ちする計画であったと言う。[男爵本田親雄談話]
(同上書 p.219~220)
次に薩摩藩は決死隊を募り艦隊にうまく乗り込み、合図とともに斬りこみをかけ、軍艦を奪い取ろうとしている。通訳士としてアーガス号に乗船していたアーネスト・サトウの著書にこう記されている。
…別の役人が数名旗艦へやってきて、回答の期限については何とも言明はできぬと言った。その際ニール大佐を訪れた重役の名前は伊地知正治といった。…この男とこれに従う四十名の者が、イギリスの士官を急襲して重だった者を殺害せんものと、充分な計画の下に主君と別盃を酌みかわして来たのである。彼らは、こうした方法で、旗艦を奪取しようとしたのだ。それは大胆至極な考えではあったが、当方で前もって警戒していなかったら、あるいは成功したかもしれない。それらの者は二、三名しか提督の室に入ることを許されず、一方水兵たちは、後甲板に居残った者たちを警戒の目で注視していた。
これらの日本人がまだ艦上にいる間に別の船が到着したが、それは援兵を乗せてきたものか、計画的殺戮の取消し命令を持ってきたものか、私には判断できなかった。
(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.105)
アーネスト・サトウは旗艦のことだけを書いているが、『維新史 第三巻』によると、薩摩藩士は七隻とも奪い取るべく八十一人の決死の士が八艘の小舟に分乗し、一艘は回答書を携えて旗艦に向かい、他は西瓜や鶏や卵を積んで商人の如く英艦に接近したという。
結局上艦を許されたのは旗艦のみで、艦内に入ることが許されたのは代表者のみであった。旗艦に乗り込んだ他の四十名は水兵の厳重な監視下に置かれて何もできず、計画は失敗に終わった。
ところで、薩摩藩の回答には何が書かれていたのか。前掲の『近世日本国民史. 第50』に全文が出ているが、内容はかなり挑戦的なものであった。一部を紹介しておこう。
…昨年来頻りに探索すれども未だ捕獲せず。かつ人数も一人にあらずして、種々遁避の術を盡(つく)すと見えたり。固より江戸と京都を親睦のために往来する者にて、私意毛頭なければ、主人より命じたるにあらざるは疑いなかるべし。…
(貴国においても)我が国法の如く数多の従者を従えて往来する時は、兼て制禁あるにも拘(かかわ)らず、是を犯さば、衝き倒すか、または打ち殺すかせざれば其の国主の往来も成り難かるべし。…諸候を指揮せる江戸の政府にて、従来重き国法のことを条約に載せずして、猥りに諸候の過とするは、政府の不行届なるべし。
同上書 p.227~228
薩摩藩はもちろん英人を斬った人物は分かっていたが、英国に差出す意思は全くなかった。リチャードソンに最初に一太刀浴びせたのは奈良原喜左衛門で止めを刺したのは海江田信義であったとされているが、両名とも、7艘の英軍艦を奪い取ろうとした決死隊に志願したメンバーであったのだ。
薩摩藩が償金支払いに納得できなかったことはよくわかる。当時においては、どこの藩であれ大名などの行列を乱す行為があれば、外国人でなくともその場で処分されることは当然のことであった。落ち度があったのは、むしろ行列を乱し島津久光の駕籠に接近して来たイギリス人の方なのである。
もし薩摩藩の行為が有罪だというならば、条約に於いて外国人が行列を乱した場合は例外的に罪にならない旨を条文に明記しておくべきであり、このような不完全な条約を締結した幕府に責任があるというのが薩摩藩の考え方であった。薩摩藩の回答にはさらに「もし生麦事件の償金の件で薩摩にその義務があるというなら、幕府の役人と薩摩の役人が英国代表の前で議論を尽くしたい。それまでは、薩摩としては賠償金を支払うことは出来ない」と書いてある。
薩摩藩の回答は、普通に考えれば正論なのだが、ニール代理公使にとっては要求を悉く拒絶されたのと同様であった。アーネスト・サトウの著書で、薩摩藩の回答書に対する英国側の反応が如何なるものであったかを述べている部分があるので引用したい。
…(薩摩藩の)使者が到着したとき、わが方は使者に向かって、回答は不満足なものと考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ日本人との交渉には断じて応じられぬと告げた。それから提督は、湾の上の方を暫時遊弋(ゆうよく)し、図面にあるウィルモット岬(訳注 大崎ノ鼻、図面省略)の沖合に投錨している外国製の汽船数隻を偵察し、また遥かかなたの湾頭で数回の測量を行なった。当方には砲台を即時攻撃するつもりはなかった。数隻の汽船を拿捕するという報復措置をとれば、薩摩人は前回持ってきたものよりも満足すべき回答を持参するに違いないと、提督は考えたようだ。
(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.106-107)
この計画にしたがって、…(8月)15日払暁(ふつぎょう:明けがた)汽船の拿捕を開始した。汽船に近づくにつれて、もちろん私たちは大いに興奮し、任務に従って各自忙しく立ち働いた。薩摩人の抵抗を予期したからだ。
…
われわれは、拿捕した船を艦の舷側につないで、桜島の下にある碇泊所へ帰った。…
しかし正午になると、突如一発の砲声が聞こえた。それと同時に、全砲台がわが艦隊に向かって火ぶたを切ったのである。
攘夷の薩摩藩が先に英国に戦争を仕掛けたというイメージがあったのだが、薩摩は英国の敵対行為を確認してから砲撃を開始していることは注目して良いと思う。
ニールが数隻の汽船を拿捕したのは、前回の「歴史ノート」の記事で書いた通り、イギリス外相・ラッセルから、薩摩が要求に応じない場合は「司令官に要請し報復(船舶の捕獲、海上封鎖など)せよ」と命令されていたことに従ったことによるのだが、そもそも下手人を死罪にし、償金を求めよとするイギリスの指令のどこに妥当性があるのだろうか。
GHQ焚書の大熊真 著『幕末期東亜外交史』には、イギリスの要求は不当と断じている。
…日英条約(日英通商通交条約)第五條は
『ブリタニア(英国)臣民に対し悪事を為せる日本人は、日本司人にて糺し日本法度に随て罪すべし云々』
となっていた。生麦での下手人が、死刑に該当するや否やは、日本の国法、この場合は、薩摩の法律によって裁断せらるべきであって、イギリスから「死刑」と指定すべき筋合いはないのである。
(大熊真 著『幕末期東亜外交史』乾元社 昭和19年刊 p.178)
この論理からすれば、イギリスが一方的に償金の金額を決めて要求することもおかしなことと言わざるを得ない。
このブログで何度も書いているのだが、歴史の叙述はいつの時代もどこの国でも勝者にとって都合の良いものに書きかえられる傾向にある。特にわが国においては、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い真実は、戦後の歴史叙述の中ではほとんど伏せられているのが現実で、たとえば一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川日本史』では、次のように書かれているだけだ。
1862年(文久2年)には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)。
(『もう一度読む 山川日本史』p.214)
このような教科書では、薩英戦争においてイギリス側に正義がなかったことを理解することは不可能だろうし、薩英戦争は攘夷事件を起こした薩摩藩に責任があり、薩摩は薩英戦争で英海軍の前に完敗したとしか読めないだろう。実際には薩摩は善戦し、イギリス艦隊に大きな損害を与えているのだ。
では、薩英戦争で薩摩藩はいかに戦ったのであろうか。その点については次回の「歴史ノート」で記すこととしたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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