満鉄沿線を守る任務の重要性
戦後のマスコミや教科書などでは満洲事変について、関東軍が武力による満洲の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、当時の満洲に関東軍がいた理由について解説されることはほとんどない。
黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍が満洲に駐留するようになった経緯とその規模について解説されている。
ポーツマス条約には、鉄道保護のために一キロあたり十五名を超えない範囲で守備隊を置く権利が明記されている。これで計算すると、鉄道守備隊の最大規模は一万四千四百十九名、実質二個師団になる。その後、日清条約第一条でもこの約款は再確認されている。
『関東軍』の前身はこうして生まれたのである。関東軍は、ソ連を仮想敵国とした独立戦闘集団で、その正式発足は第一次世界大戦末期のシベリア出兵(1918年)である。関東州や関東軍の『関東』は、もともと万里の長城の東端である山海関以東という意味の地域名で、日本が一九〇五 (明治三十八) 年九月にそこに設置した行政府が『関東総督府』だったことによる。…中略…
満洲事変を迎えるまでの十九年間、関東軍の規模は内地から交代で派遣される一個師団と独立守備隊、重砲兵大隊、関東軍憲兵隊といった規模に過ぎなかった。もともと満鉄沿線を守備するだけが任務だったため、いたずらに増強することは出来なかったのだ。
黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社 2003年刊 p.274-275

このようにわが国が軍隊を送り込んだのは、明治三十八年(1905)に締結された日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の追加約款第一において、満鉄沿線を守るために一キロ毎十五名を超過しない人数で守備兵を置く権利が認められていたことに基づくのだが、わが守備兵の人数は決して充分ではなかったのである。その点については後述する。
満洲の治安悪化を放置した支那
わが国はポーツマス条約および日露協約により、また清国との満洲善後条約、満洲協約により、関東州の租借地の行政権や南満州鉄道経営権及び鉄道付属地行政権、関東州以北の中立地帯に関する権利などを獲得したのだが、これらの利権を活かすためには、本土から移民を送り込みさらにインフラを整備するための投資が不可欠であったことは言うまでもない。しかしながら、当時の満蒙には匪賊あるいは馬賊と呼ばれる盗賊集団が跋扈しており、治安は劣悪な状態にあったにもかかわらず支那の官憲は治安を改善させようとはせず、そのためにわが国は警察権に関与せざるを得なかったのである。

大正四年(1915)三月十六日から時事新報に連載された「日支懸案解決」の記事に、わが国が満蒙における警察権に関与せざるを得なかった事情が縷々述べられている。
警察権干与の一般的理由を挙ぐれば凡そ左の如し
(第一)満蒙の地たる人煙希疎にして政令の思考風気の教化尚お未だ普からざるが為めに匪賊横行の患い甚だ多く、いわゆる馬賊なるものはこれらの地方を通じて抜くべからざるの根拠を有するを以て地方人民の生命財産は常に危殆を免がれず、たとえ我国人にしてこれら地方に居住、土地所有及び採砿の権を得るとするも、予め是種匪賊の難を防ぐの道を講ずるに非ざれば、安んじて住居を構え業務を営むを得ざるべし
(第二)独り匪賊の難あるのみに止まらず、満蒙に於ける支那官民中には我国人に対して深刻なる敵意を懐き事に臨み機に触れて之を凌虐せんとするの風あり。或は之に反して我国人に対して頗る好意を表する者もなきに非ずと雖も、なおかつ彼等の性癖として瑣末の衝動の為め急に其心情を一変することあり。決して永く其好意に信頼するを得ざるを以て、苟も我国民が三権の獲得に依りて満蒙の内地に支那人と雑居する以上我警察力を以て之を保護するは緊要欠くべからざるの処置ならん
(第三)たとえ支那官民に悪意なしとするも、風俗習慣を異にし文化の程度を異にする日支両国民の間には、往々他の言動を誤解邪推して紛争を生ずるの例少からず。鉄道沿線もしくは之に接近せる地方に於ても尚お且つ然りとすれば、我国人の多数が深く内地に進入するの暁に及んでは、此等の弊風は益々甚だしきを加え、或は意外の奇変を勃発するに至るやも量るべからず。是種の危害を予防するの方法としては、我警察権を内地に拡張し我警察官をして支那官民並に我国人の誤解邪推を矯正せしむるの外なかるべし
(第四)支那官憲の間に無知無能にして徳義廉恥の念を欠くもの甚だ多きは今更言う迄もなけれども、満蒙の如き僻陬の地に在任するものに至りては是等の欠点ますます甚しきを加えるの事実あり。斯る官憲の下に在りて我国人が周到公正なる保護を被らんを望むは、甚だ覚束なき次第と云わざるを得ず。固より司法上には治外法権を存すと雖も、一般の警察事務に於ては現状の儘を以てするときは概して支那官憲に一任するの外なきを以て我国人の内地に雑居するもの増加するに随いて其不利不安ますます甚だしきを加えざるを得ず。即ち我国が三権の獲得を要求すると同時に警察干与をも併せて要求せざるを得ざる所以なり
(第五)我国人は事実上既に鉄道附属地其他の境界を越えて附近地方に雑居するもの少からず。其結果として我国人に対する日支両国警察の権現に関して紛議を生ずるの例も亦少からず。斯くの如きは満蒙に於ける日支両国間の関係を円滑ならしむる所以に非ざれば仮令三権獲得のことなしとするも尚お且つ我警察権を未開放地の一部に向って拡張するの必要あり其獲得に依りて我国人の未開放地雑居無制限と為るの暁に及んでは其必要ますます大なるべし。
『神戸大学新聞記事文庫』外交16-43 8頁
満洲から日本人を排除しようとした支那
生命・財産の危険を感じるような地域には誰しも住もうとは思わないところだが、支那は、満洲の地に移住した日本人を排除するためにあの手この手を用いている。

たとえば大正二年(1913)十一月三日のやまと新聞にはこう報じている。
我外務当局者は満洲未開放地に居住せる邦人が或は退去を命ぜられ其居住営業権の安定を害さるるが如き傾向は多く之を見ず。却て支那官憲は屡々(しばしば)切実にこれが保護を声明しつつありと称しつつあるも、事実は不幸にして屡々我邦人が支那官憲に迫られて折角築き上げたる其根拠地を放擲して退去せるの実例を見る。今是を最近に起れる二三の事実に就いて証せんか
一、本年三月の交長春の西北方なる農安県に居住せる六戸三十四人の邦人は突然支那官憲に退去を命ぜられ、其命に従わざるや遂に多数の巡警は各戸を包囲して其戸扉を釘付にしたり
二、去る九月中奉化県知事の退去命令により売買街及小城子方面に居住せる邦人男女六名は四平街に引揚げたり
三、十月二十七日満洲各地の官憲は北京政府の命令なりとて未開放地居住の邦人に対しては馬賊等の危険につき生命財産の保護の責に任ぜざる旨を言明し其退去を要求せり
『神戸大学新聞記事文庫』外交15-20

満洲の馬賊(匪賊)は大量の武器を保有しており、満鉄の線路のボルトや枕木を抜き取って列車を止め積み荷を盗む事件、住居侵入事件などが頻繁に起きており邦人被害も大きかったのだが、支那官憲は犯罪を犯した馬賊を逮捕するどころか、逆に「馬賊等の危険」があるとして日本人に退去を要求したというのはどう考えてもおかしな話である。
そればかりではない。支那はさらに排日運動を仕掛けて、日本製品の不買や嫌がらせや暴力事件を繰り返したわけだが、国策として満洲移民を推進し多額の投資をしてきたわが国として、満洲に渡った邦人および朝鮮人の生命財産や権益を保護することは当然のことではないか。しかしながら、こんな治安状況ではそれが困難であることは明らかだ。
匪賊による被害の急拡大

匪賊による被害は年々拡大していった。関東長官官房文書課による『関東庁要覧 大正十二年版』には次のように記されている。
南満洲に於ける匪賊の横行は依然として酷だしく、大正十年管内外をつうじて日本官憲の聞知せる馬賊、海賊及び強盗の被害は四百六十一件。死傷者百五十三人、拉去せられたる人質百二十五人、被害価格五十五万千六百四十三円を算し、内邦人の被害七十件、死傷三十五人、被害価格十五万四千三百六十五円にして、邦人被害は前年に比し著しく増加せり。
『関東庁要覧 大正12年版』p.275

ところが『関東庁要覧 昭和六年版』になるとその被害はその数倍に跳ね上がり、彼らの犯行の手口が具体的に記されている。
匪賊犯罪は頓(とみ)に増加し、昭和四年中管内警察署の関知せる近接支那管内の匪賊犯罪は千百七十件の多きに達し、さらに昭和五年に於いては、九月末日までに千六百五十件の夥しき数を示せり。
これら馬賊なるものに付いては確たる定義あるに非ず、頭目、副頭目、小頭目等の下に傾倒的かつ継続的に結合する一種の強盗団体にして、通常小銃、拳銃、刀槍、時としては砲機関銃などを携行し、あるいは馬隊を組織するもの等あり。
昭和五年中には支那軍服を着用せる軍装そのままの馬賊団各地に横行を見たるが、その犯行手段としては、個人または住民団体に対し脅迫状を送りまたは直接侵入し、期限を定めて金品を強要し、これに応ぜざるときは機を見て予告通り焼打ちもしくは殺傷をなしもって報復し、直接侵入して銃器その他の凶器を擬し、場合に由りては容赦なく殺傷をあえてし、金品を強奪し人質を拉致し期限を付し囘贖金を強要し、これに応ぜざれば耳鼻または指を裁りてこれを贈り催促を試み、なお目的を達せざるときは人質を惨殺する等大胆かつ強暴なる行為に出づるを常とす。…中略…
なお銃砲火薬類の取締厳重となり、銃器の容易に得難きに至るや、不逞の徒はわが守備兵および警察官の所持する武器の掠奪を企て、巡邏中の守備兵または警察官を狙撃する事件を生ずるに至り、昭和四年中には数件の被害を見たるも、昭和五年中にはこれらに対する予防訓練も徹底し、常に賊の機先を制して未然に防ぎえたること一再に留まらず。
『関東庁要覧 昭和六年版』p.163

このように満洲は昔から馬賊が跋扈していて法治はおろか人治すら存在しない状況にあり、民衆は仕方なく馬賊に金を払ってその頭目の力で他の馬賊からの襲撃を守ろうとしてきたのである。しかしながら満洲内の混乱が進むにつれ、敗残兵も加わって規模が拡大し大量の武器を持つようになる。満洲で軍閥に成長して悪政を敷いた張作霖・張学良親子は馬賊出身で、その部下にも馬賊出身者が多かったことを知るべきである。
満洲事変以降ようやく治安が回復

そして昭和六年(1931)六月に支那官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが興安屯懇団に捕らえられて射殺され、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられる事件が起きた(中村大尉事件)。また九月に入ると、満洲各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に満州事件の発端となった柳条湖事件が起こっているのである。
関東軍はたちまちのうちに北大営、奉天、長春、営口の各都市を占領していったのだが、前述した通り関東軍の兵力は一万数千程度に過ぎず、一方張学良が指揮する東北辺防軍は三十~四十万もおり、飛行機や戦車などの近代的装備も備えていたのである。

わが国政府は当初「戦線不拡大方針」で臨もうとし関東軍の増派に反対したのだが、もし増派がなければ、圧倒的に人数の多い張学良軍からの反撃は避けられず、多くの犠牲が出たことであろう。関東軍の林銑十郎司令官は独断で満洲に増援することを決め、昭和七年(1932)二月のハルピン占領によって関東軍による支那東北部支配が完了したのである。

柳条湖事件以降、支那官兵や馬賊の活動のため、満洲の日本人居留民に多くの犠牲が出ている。
国立国会図書館デジタルコレクションに『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』という記録がある。「東三省」というのは現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省を指すが、概ね「満洲国」の領土を意味している。
その書物には、五十八日間に民間人が犠牲になった事件が百六十五件も個別に記録されているのだが、この記録とて全体の一部にすぎないのだろう。
一九三二年三月に満洲国が建国されると満洲国軍も創建され、関東軍が従来の任務のほかに満洲国軍の指揮をとることとなり、関東軍も年々増加されていく。
そして、当時満洲に数十万人いたとされる馬賊の討伐が関東軍によってなされて、満洲の治安がようやく安定したのである。
黄文雄氏は、冒頭で紹介した『日本の植民地の真実』で関東軍についてこう解説されている。
中国人だけでなく戦後の日本人からも、関東軍は満洲侵略の張本人として悪名が高い。だが関東軍の歴史的評価の上で最も大切なのは、住民を苦しめ続けてきた軍閥、匪賊を満洲から駆逐して社会に秩序をもたらし、王道楽土の近代化建設の基を築き上げたとの功績ではないだろうか。関東軍が存在しなければ、満洲の地に平和は到来しなかったのだ。
『日本の植民地の真実』 p.275-276
終戦後八十年が過ぎ、戦争を経験した人々はほとんどこの世を去り、戦争の体験談を聞きたくても聞くことが出来なくなってしまっている。ほとんどの日本人にとって、日中戦争から第二次世界大戦のことはマスコミが伝える映像や解説を通じてしか知ることしかできないのが現状だが、戦後のマスコミが伝えてきた大正から昭和にかけての歴史は、国民を『自虐史観』に洗脳させ固定化するために、多くの真実がかなり歪められて記されていると言って良い。
戦勝国が「自国にとって都合の良い歴史」を敗戦国に押し付けるようなことはいつの時代もよくあったこととは言え、いつまでわが国はこのような薄っぺらい歴史叙述に付き合わされなければならないのだろうか。
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