伏見稲荷大社の楼門から千本鳥居へ
先日、伏見稲荷大社(京都市伏見区深草藪之内町68)を訪れてきた。この神社は全国約三万社あるという稲荷神社の総本宮である。社伝によると二月の初午の日に秦伊呂巨(はたの いろこ)が稲荷山の三ヶ峰に神を祀ったことに始まるとされ、今も二月の初午大祭には全国の老若男女が参詣する。
伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)で、本殿に五柱の神が祀られている。
上の画像は表参道の鳥居だが鳥居をくぐると石畳の長い参道が続いている。
楼門は国の重要文化財に指定されていて、天正十六年(1588年)六月に、豊臣秀吉が母大政所の病気平癒を祈願し、本復御礼の奉加米で、翌天正十七年(1589年)に建立されたと伝わっている。
応仁・文明の乱により多くの社殿が失われてしまい、本殿は明応八年(1499年)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
本殿の北東にある権殿(ごんでん)は寛永十二年(1635年)に再建されたもので、これも国の重要文化財である。
権殿東北の石段を登り、奥社の向かう参道に全国の信者から奉納された鳥居が林立している。途中から鳥居が小さくなって、左右に分かれるところがある。そこからが千本鳥居と呼ばれており、混雑防止のため右側通行となっている。鳥居で作られた空間の写真は多くの方がブログなどで紹介しているが、このような鳥居が密集して建てられるようになったのは江戸時代の後半期以降と言われている。
上の画像は安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会 巻之三』の伏見稲荷大社の画像であるが、当時の社名は「三の峰稲荷大明神の社」とか「稲荷社」と呼ばれていたようだ。千本鳥居や林立した鳥居は今ではこの神社のシンボルのようになっているのだが、『都名所図会』が描かれた頃は、鳥居はそれほど多くなかったようだ。
『都名所図会』の画像をよく見ると、左の方に「あいぜん院」と書かれた建物がある。この画像から、今の社務所があるあたりに、稲荷社(現:伏見稲荷大社)の神宮寺であった愛染院が存在したことがわかる。
昔は有名な神社も大半が神仏習合で、稲荷社にも境内に多くの仏教施設があり本殿などに仏具なども存在したのだが、明治時代初期の神仏分離により撤去されてしまった。それまで愛染院は「稲荷社」において重要な役割を果たしてきたのであるが、貞享三年(1686年)に黒川道祐が著した『雍州府志』にはこう記されている。
今存するところの愛染院は当社(稲荷社)修造の本願人にして勧進聖(かんじんひじり:寺社の新造・修復・再建のために浄財を集める僧)なり。倭俗に、僧を呼びて或いは聖(ひじり)と称す。凡そ、斯の社、破壊するときは即ち、斯の聖、尊卑諸人を勧めて造営の資料を請うものなり。毎年、正月五日、五月五日、九月五日、社家、各々斯の院にあつまる。これ即ち、旧例にして社頭の修補を謀るの微意なり。
(『雍州府志 ――近世京都案内 (上)』岩波文庫p.174)
このように愛染院が、稲荷社の建物や仏具などの新築や修復、再建に関して中心的な役割を果たしてきたのだが、明治初期に行われた神仏分離により、愛染院や稲荷社の社殿にあった仏像や仏具類が撤去されてしまったのである。
稲荷山の神蹟を巡る『お山巡り』
千本鳥居を抜けると奥社奉拝所がある。一般には「奥の院」と呼ばれ、社殿の背後にある稲荷山三ヶ峰を遥拝するところである。
参拝の後、奉拝所の横にある「おもかる石」にチャレンジした。灯篭の前でまず願い事をして、灯篭の頭の部分を持ち上げて、自分が予想したより軽いと思えば願い事が叶い、重いと思えば叶わないと言われている。
以前来た時は本殿参拝のあと千本鳥居を通り奥社参拝で帰ったのだが、今回は時間がたっぷりあるので稲荷山を一巡する『お山巡り』にチャレンジする予定を立てていた。
神社のホームページに境内案内地図がでているが、本殿から稲荷山山頂の一ノ峰まで歩いて戻るのは約4kmだという。途中にあるいくつかの神蹟や休憩所などでどれだけ過ごすかによるが、二時間近くかかると見てよい。途中でいくつか有人の休憩所があるので、水筒などは持たなくてもよいが、靴はなるべく運動しやすいものを履いた方が良い。
奥社奉拝所から先は山登りという雰囲気となる。参道はほとんどが石で舗装されており、平坦なところもあるが何度も階段を上ったり下りたりするので、思った以上に足に負担がかかる。稲荷山の参道にも相当数の鳥居があり、境内全体の鳥居の数は約一万基あるという。
三ツ辻を右折し四ツ辻に至ると京都市内を見渡せる場所がある。稲荷山の山頂にはもっと見晴らしの良いところがあるのではないかと誰でも思うのだが、残念ながらお山巡りで見晴らしの良い場所はここともう一か所しかなかった。
四ツ辻から一ノ峰に向かうルートは時計回りか反時計回りかで迷ったのだが、反時計回りで、三ノ峰を目指す。時計回りが正式なルートなのかもしれないが、反時計回りの場合は一ノ峰に行くには距離的にはかなり短くなるのと、長者社からの急な坂を避けるメリットがある。
応仁の乱で消失する前は稲荷山の山中にお社があったそうだが、再建されずに現在は神蹟地として残されている。明治時代に七神蹟地が確定され親塚が建てられたのだが、親塚の神名は古くから伝わっているものだそうで、本殿の五柱の神名と異なっているところが面白い。
三ノ峰は白菊大神と崇められている。明治20年代の半ばにここから変形神獣鏡が出土したという。かつてはこの場所に社が建てられていたのであろう。
二ノ峰は青木大神と崇められている。
やっと稲荷山最高峰の一ノ峰に辿り着いた。ここには末広大神が祀られている。
御劔社(長者社)は古くから神祭りが行われていた場所である。下鴨神社のご祭神である玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀っており、すぐそばに御神体である「雷岩(御劔石)」と呼ばれる岩がある。
御膳谷遙拝所は稲荷三ヶ峰の北背後にあたり、古くからこの場所に神饗殿(みあえどの)と御竈殿(みかまどの)があり、ここから三ヶ峰に神供をしたと伝えられている。
ここを過ぎてしばらく歩くと見晴らしの良い四ツ辻に戻り、そこから三ツ辻に至ると、直進して荒木神社を経由して本殿に戻る方法と、左折して熊鷹社を経由し、奥社奉拝所や千本鳥居を通らずに本殿に戻る方法があるが、距離的には後者の方がかなり短くなる。
御茶屋と荷田春満旧宅と東丸神社
本殿の南西に寛永十八年(1641年)の禁裏造替に際して御水尾上皇から下賜された御茶屋がある。内部は非公開だが、入母屋造・杮葺きの数寄屋風の書院で国の重要文化財に指定されている。
また楼門の南に国史跡の荷田春満(かだ の あずままろ)旧宅がある。荷田春満は江戸時代中期の国学者で、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学の四大人の一人とされ、賀茂真淵は荷田春満の弟子にあたる。彼は稲荷社(現在の伏見稲荷大社)の社家に生まれたが家を継がず、契沖の後を承けて万葉集の研究などに専念し、国学の基礎を固めた人物と評価されている。
旧宅の内部は非公開だが、敷地の西北隅に神事舎という小さな建物があるという。そこで稲荷勧請(かんじょう:神仏の分霊を請じ迎えること)を求める信者に分祀する神璽(みたま)を修封した場所なのだそうだが、そのようにして神璽が分祀され、江戸時代に稲荷の祠が各地に分布していったのだという。
その東隣には荷田春満を祭神とする東丸(あずままろ)神社がある。この神社は明治十六年に、荷田春満が正四位の追贈があったのを機に、当時の稲荷社宮司らが創建したものだが、案内板に荷田春満に関する元禄十五年(1703年) の興味深いエピソードが記されている。文中の大人とは荷田春満のことである。
「東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古楽を講じておられました。吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人(通称:羽倉斎[はくらいつき])は彼の日ごろの汚行を見聞するに及んで教えることを止められました。たまたま元禄十五年に以前から親交のあった大石良雄の訪問を受け、その後堀部弥兵衛、同安兵衛、大高源吾とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、十二月十四日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂浪士を援助したこともありました」
Wikipediaにも荷田春満が情報を赤穂浪士に流したことを書いているが、荷田春満は大石良雄とは一面識もなく、
「事件当日に堀部金丸宅で大石良麿・良穀兄弟より春満からの情報を聞いたときはじめてその名を知った。それも、来客が泊まるようなので討ち入りは延期したほうがよいという情報だった。」
と解説されており、案内板の内容とは随分異なっている。
赤穂浪士がいかにして吉良の情報を得たかについては諸説があり、『堀部金丸覚書』ではまた別の名前が出てくるのだが、この覚書にも羽倉斎(荷田春満)の名前が出で来るのは面白い。
しかしながら、極秘情報の情報源を記録に残すことは情報提供者を危険にさらすことにつながるので、本当の名前を記録に残さないのが普通ではないだろうか。荷田春満の関与を断言できる根拠となる書類が他にも存在するのであれば別だが、本当の情報提供源を隠すために、荷田春満の名前を出したこともあり得ると思う。
伏見稲荷大社に来て忠臣蔵の話が出てくるとは思わなかったが、時間をかけて調べたり歩いたりすることで味わいの深まる神社であり、また稲荷山の山巡りも楽しかった。昨年は、京都の有名観光地はどこへ行っても混雑していて敬遠していたが、今はゆったりと参拝することが可能になっていることはありがたい。
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ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、2019年4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。
通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。
読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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