十一年前に兵庫県丹波市内の紅葉名所を観光して旧ブログで記事を書いたのだが、その当時丹波市は『丹波もみじめぐり』と題して、市内の紅葉名所九ヵ所を紹介するパンフレットを作成していたので、それを参考にして五ヶ寺を選んで旅程を組んだ。
久しぶりに丹波市の紅葉を見たいと思って、丹波市観光協会が制作した今年のデジタルパンフレットを見ると、紹介されている紅葉名所が十二ヶ所に増えていたので、今まで行ったことのない古刹を選んで早速旅程を組み十一月二十一日に訪れて来た。
小新屋観音(こにやかんのん)
最初に訪れたのは小新屋観音(丹波市山南町小新屋石金47-1)。普段は無人の観音堂で、電話もなく、石金という住所もカーナビには登録されていなかったので到着できるか不安だったのだが、「小新屋観音」と書かれた赤いのぼりが道のポイントに必ず立ててあるので、それを頼りにすれば何とかたどり着くことが出来る。
今年の紅葉はあまり色づかずに枯れて落葉してしまっていて、地元のボランティアの方は「せっかく来ていただいたのに、今年の紅葉はイマイチ」と言っておられたが、周辺は楓の木が林立しており例年は鮮やかな紅葉を長く楽しめるという。
小新屋観音は永正七年(1510年)にこの地を領していた岩尾城主和田日向守(ときより)が本堂と小庵を建立し祈願所としたと伝わっている。
三寶寺(さんぼうじ)
次の目的地は三寳寺(丹波市柏原町大新屋571)。
三寳寺は文明四年(1472年)に臨済宗妙心寺派の太宗守順和尚により開山されたが、天正七年(1579年)に兵火に遭い焼失。再建されるも慶長十一年(1606)に失火により焼失してしまい、二年後に再建されたと伝わる。現在の本堂は天保四年(1833年)に修復されたという。ご本尊は平安時代に制作された十一面観世音菩薩で今年四月に丹波市の有形文化財に指定されている。
本堂向背の龍の彫刻は見事である。彫物師は丹波柏原(かいばら)藩出身で代々宮大工として活躍した中井権次一統の第六代正貞である。丹波市のみならず丹波篠山市、豊岡市、福知山市、綾部市などには中井権次一統が携わったの社寺の装飾彫刻が多数残されている。
今年は暑い日が長く続いたせいか、庭園の紅葉も鮮やかに色づかずに落葉してしまっている樹が多いのは残念だ。
本堂の襖絵に面白い羅漢図が描かれている。京都出身の版画家の幻一(まぼろしはじめ)の作品だが、それぞれ表情が違っていて見ていて飽きない。
岩瀧寺(がんりゅうじ)
次の目的地は岩瀧寺(丹波市氷上町香良613-4)。
上の画像は岩瀧寺の山門だが、門の上は鐘楼になっている。
この寺の開創は弘仁年間(809~823年)で、嵯峨天皇の勅願により弘法大師が建立したと伝わるが、天正時代の兵火により悉く焼失し、詳しい資料は寺には残されていない。昭和二十六年以降はこの寺は尼寺となっている。
上の画像は茅葺の本堂(観音堂)。本尊の浅山不動尊はこの本堂でにあるのではなくて、歩いて十分ほどの所にある洞窟の中にあり、本堂には、観音菩薩像、愛染明王が祀られているという。
本堂の中央部に立体感のある龍が彫られている。この彫刻は三寶寺の龍の彫刻と同じで、中井権次正貞の作品である。
寺の本堂の左に瀧に通じる道があり、害獣防護柵を開閉してしばらく坂道と階段を進むと独鈷(どっこ)の滝がある。
さらに階段を上ると不動明王拝殿があり、その奥にこの寺の本尊である不動明王が祀られている。すぐ近くに護摩堂があるが、今は老朽化のため使用されていないそうだ。さらに山道を進むと不二の滝があるのだが、病み上がりの体なので無理しないことにした。
本堂に戻る途中にある四国八十八仏。このあたりの紅葉も良かった。
常瀧寺(じょうりゅうじ)
丹波市の古刹めぐりで最後に訪れたのは常瀧寺(丹波市青垣町大名草481)。
常瀧寺は養老年間(717~724年)に法道仙人が開基されたと伝わる古刹で、かつては七堂伽藍を有した大きな寺であったが、明智光秀の丹波攻めで堂宇は焼失してしまう。
江戸時代に入って光覚法印が愛宕山麓に再興したが何度か落雷などで焼け、三度目の移転で現在地に落ち着いたという。今の本堂は明治七年に再建されたものである。今の境内はそれほど広いものではない。
上の画像は護摩堂だが、この寺で有名なのは裏山を三十分ほど登ったところにある推定樹齢千三百年という大公孫樹(イチョウ)。幹回りが十一メートルもある巨木で、兵庫県の天然記念物に指定されているという。若いころなら必ずチャレンジしたと思うのだが、岩瀧寺で長い急坂を登って疲れが出ていたので断念した。
寺のパンフレットによると、大公孫樹は「雄種で銀杏はならず、一本の木の枝から乳のような瘤が垂れて地中に潜り、悠久の時を経て新たな幹や枝となっています。全国的に見てもめずらしい公孫樹です」と書かれている。その点については、昭和二年に刊行された『氷上郡志 上巻』にも書かれているので昔から注目されていたことがわかる。
木下武さんがYoutubeでこの大公孫樹を紹介しておられるので紹介させていただく。2分半程度の動画を見れば、推定樹齢千三百年という公孫樹の圧倒的な存在感が伝わってくるのと、寺のパンフに書かれている「乳のような瘤」がいかなるものであるかよくわかる。
名工を生んだ旧丹波
もともと「丹波国」の範囲は、現在の京都府の亀岡市や綾部市、南丹市、福知山市、船井郡京丹波町、兵庫県の丹波市、丹波篠山市などを含んでいて、兵庫県側の面積は二割程度にすぎず、古代からの「丹波国」の中心は亀岡であった。平成十六年(2004年)十一月に兵庫県の旧氷上郡の柏原町・氷上町・青垣町・春日町・山南町・市島町が町村合併により「丹波市」という新市名を用いることについて、当時旧丹波国の他の市町村から強い反対があったと言われているが、旧氷上郡の人々がそれらの反対を押し切る形で「丹波市」という新市名を決定したのは、それだけ「丹波」という地域名に対する愛着が強かったということなのだろう。
先ほど宮大工の中井権次一統の彫刻を紹介させていただいたが、中井権次一統は今の丹波市柏原町に居を構え、彼らが手掛けた社寺の装飾彫刻の作品は北近畿(旧丹波国、旧丹後国、旧但馬国)を中心に、旧播磨国・旧摂津国を含めて約三百ヶ所程度が現存しているという。中井権次一統による社寺装飾彫刻は九代続いて、十代目からは京都府宮津市で印刷業を営むようになったのだそうだが、戦後になって社寺彫刻の仕事が激減して、いくら技術を磨いても生活を維持できなくなれば仕方がないことだ。とはいえ、将来もし建物の修復が必要になったときに、この精細な装飾彫刻の修復ができる名工がわが国に誰もいなくなっているのではないかという不安もある。社寺の装飾彫刻部分だけの文化財指定は存在しないのだが、そういう名工を育てておかないと美しい文化財を維持することは難しい。
上の画像は丹波市柏原(かいばら)町にある柏原八幡宮の狛犬だが、この狛犬は丹波佐吉(たんばさきち)という石工の制作によるものである。丹波佐吉は文化十三年(1816年)に但馬の国の竹田(現在の朝来市)の貧家に生まれ、幼くして両親を亡くし、縁あって丹波大新屋(おおにや:現在の丹波市柏原町大新屋)の石工、初代難波金兵衛の養子となった。
二十三歳の時に独立して渡りの石工となり、佐吉はさらに腕を磨くために近江、大坂、大和を渡り歩いたと考えられており、のちに石の尺八を作って孝明天皇から「日本一」の賞賛を得たとの逸話が残っている。画像の狛犬は丹波佐吉が文久元年(1861年)に手掛けたものだが、豪快で躍動感があり、佐吉の晩年の最高傑作と言われている。
佐吉が制作したのは狛犬、仏像、燈篭、常夜燈、道標など様々で、丹波市やその周辺にもいくつか残されているが、奈良県には多くの作品が残されている。
「丹波佐吉」というのは本名ではなく、彼は自分の郷里は丹波大新屋と答えていたことから、人は彼を「丹波佐吉」と呼んでいたようだ。作品の中には(村上)照信という名前と花押が併せ刻まれているものがあるという。佐吉の全作品についてはComa-たんさく人さんのホームページ『石佛・狛犬巡り』に写真付きでレポートされている。
なお、佐吉を育てた難波金兵衛は今も柏原町大新屋で六代目が石工として今も活躍しておられる。
中井権次一統や丹波佐吉を生んだのがいずれも現在の丹波市柏原町であるということは興味深いことだが、旧丹波の人々は寺や神社になるべくいいものを残して後世に伝えようとし、またそういうことが出来る豊かさがあったことは確かだろう。だからこそ石工や宮大工が腕を磨くことが出来たのだと考える。
他の地方都市と同様、今の丹波市も若者が流出し人口減少に歯止めがかかっていないのだが、地域の人々が文化財を大切にする気持ちの強さは衰えていないようだ。最初に訪れた小新屋観音は普段は無住なのだが、地域の人々が定期的に掃除をしておられるからこそ、建物や庭の美しさが保たれている。二番目に訪れた三寶寺も、今は住職はここにはおられず、他寺の住職がかけもちでこの寺の檀家の法事に来ておられるとのことだが、この寺も地域の方々が毎日大量に発生する落葉の清掃に苦労しておられることが良く分かった。
丹波市は観光地としてはあまり有名ではないのだが、地域の先人たちが大切に守って来た寺や神社が今も美しく残されてきていて、Wikipediaなどに収録されていない寺や神社でも結構いい場所が少なくない。
紅葉の季節は特にお勧めだが、新緑の青もみじの季節も「丹波 青もみじめぐり」が行われているようだ。季節の風景を楽しみながら、中井権次一統の彫刻や丹波佐吉の彫刻を探訪する旅程を立てられてはいかがかと思う。
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