兵士数で圧倒していた張学良軍の敗因
昭和六年(1931年)九月十八日の柳条湖事件から始まった満洲事変で、兵士数三十万とも四十万とも言われていた張学良軍は、およそ一万の関東軍によって総崩れとなって満洲から駆逐されてしまっている。彼らは兵士数では関東軍を圧倒していただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、彼らは簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。

WikipediaにはWikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である。
満洲事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている。
この記述は臼井勝美とNHK取材班が一九九〇年に行った張学良とのインタビューをまとめた『張学良昭和史最後の証言』を論拠にしているようだが、わずか一万の関東軍に対して三十万以上いたという兵士全員に無抵抗を指示したという張学良の言い分を鵜呑みにしてよいのだろうか。その後関東軍により、奉天の兵工廠竝航空処に残されていた飛行機六十機、戦車十二両その他大量の機関銃などが鹵獲されたのだが、張学良がこれらの重要な武器を何の抵抗もせずに日本に差し出すはずがないと考えるのは私ばかりではないだろう。
黄文雄氏は『日本の植民地の真実』で次のように解説しておられるが、おそらく真実はこのとおりではなかったか。
それは、張学良軍があまりにも弱体だったからだ。その最精鋭の主力部隊ですら、関東軍の三十センチ砲の轟音に驚倒し、そのまま総崩れとなっている。それまで排日侮日に狂奔していた彼らは、関東軍が一向に動かなかったことに安心し、完全に侮っていたのだ。逆襲があるなどとは夢にも思わなかったのである。
彼らの本質は、匪賊と変わりがなかった。そのような軍隊だから、反乱や兵器の悪用を防ぐため、夜間銃器類は一括して格納されていた。これが主力部隊の決定的な敗因となった。
黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社 2003年刊 p.277
その後敗残兵は満洲各地で掠奪暴行を繰り返した

こののち張学良軍の敗残兵が満洲各地でどのような酷いことをしたかについて、田中秀雄氏の著書『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』には次のように記されている。
九月二十六日、京奉線を走る列車が新民屯近くでレールを外され脱線した。転覆した客車は待ち構えていた敗残兵の掠奪と虐殺の標的となり、六十数名が死傷した。欧米関係では八名が犠牲となり、インド人一名が殺害され、女性を含む数名が行方不明となった。
これには後日譚がある。破壊車両は天津に運ばれて展示された。日本軍の空爆によるもので、無辜の支那人が多数虐殺されたと宣伝に利用された。アメリカの宣伝も見事で、奉天では三名のアメリカ人が日本人に虐殺されたと報道された。
奥地の朝鮮農民は敗残兵の毒牙にかかりやすかった。撫順の北四十キロ遼寧省鉄嶺県や開原県の二千名あたりが生活する朝鮮農民一帯が襲われ、家はことごとく放火された。辛うじて虐殺を免れた農民は山に逃げ込んだ。虐殺は百名に上った。女性や子供に犠牲者が多かったのは、稲刈りの時期で避難を躊躇した家族が多かったためだ。
十月一日、敗残兵掃討と農民保護のために重松大隊と警察官が被害地の大甸子(だいでんし)に到着した。山に隠れていた農民は日章旗を見て狂気の如く山を駆け下りてきた。日本兵は十日ばかりろくに食べていなかった彼らに食糧を配った。虐殺死体は目も当てられなかった。鉈(なた)で頭部を割られた男性、負った子供ごと刺殺された母親。藁(わら)を斬る押切で首を落とされた婦人の遺体があった(『満洲日報』十月八日付)。警察官は生き残った農民を集め、『どんなことがあってもお前たちを保護する、一歩も譲らぬ』と涙ながらに語りかけた。
田中英雄『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』草思社 2014年刊 p.200-201

この本にはこのような事例が多数紹介されているが、当時の記録には多くの朝鮮人が虐殺されたことが書かれているものが多い。例えば、大甸子の事件は大連商工会議所がまとめた『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』の九月二十六日の記録(二十八)にも記されており、この日には二件の列車の襲撃事件が記録されていることが確認できる。

また陸軍省調査班が昭和六年に出版した『満洲不安の実相』に、支那の敗残兵による朝鮮人の被害状況をまとめている。中央に大甸子の案件が書かれているが、もっと多くの朝鮮人が虐殺された地域があったことが分かる。
黄文雄氏は前掲書で張学良軍のことを「匪賊と変わりなかった」と書いているが、張学良軍には匪賊出身者が少なからずいて、敗残兵が銃を保持したまま匪賊化したのであろう。

昭和七年(1932)四月十四日付の大阪時事新報は満洲全土に十万の匪賊が跳梁していたことを報じているが、それによると、これら匪賊団の中心をなすものは第二次東北義勇軍で全体を指揮していたのは張学良の腹心である胡育坤であったという。
支那兵は国軍の兵ではなく軍閥の私兵であった

昭和三年(1928)に出版された細野繁勝 著『満蒙管理論』という本に、中国の当時の軍隊について非常にわかりやすい解説があるので引用させていただく。
支那には過去においても現在においても、実数を測り知る能わざる多くの軍隊がある。こは世界何人の目にも夙(つと)に映出せられている事実ながら、さてその夥(おびただ)しき軍隊はそもそも支那のために何の用を為しているか。実際は数十万乃至(ないし)百数十万をも超ゆる —— 一九二〇年の統計では百三十六万と称す —— その陸軍が、全部国家の兵員ではなくて、いわゆる護国軍とか、革命軍とか、いろいろの名称をこそ付すれ、その実態は一人残らず軍閥の私兵なのである。
清朝時代には、それでも表面的には官兵たるの形を装っていたが、武漢革命以来は、その形式さえ失われて悉(ことごと)くそれぞれの軍閥の頭目に隷属する私軍私兵となっている。これは海軍も同様である。その上なお驚くべきことは、それが決して普通の良民ではなくて支那名物の土匪、浮浪人、乞丐(カタイ:乞食)の変形であり、それらの異名同体たる事実である。…中略…
私兵の存在を容認する国家は、如何なる場合においても断じて健全国家ではない。しからば私兵ばかりしか持たぬ国、私兵以外に一個の国軍も有せざる国、これを目して世界の人々はいかなる名称を与え、如何なる取り扱いを為すべきであろうか —— それに国家の名を付すことすらが妥当とはいえない。…中略…
そこには張作霖とか、馮玉祥(ふうぎょくしょう)とか、閻錫山(えんしゃくざん)とか、蒋介石とか、唐生智などといったような各頭目と、これらに付随する私兵は存在する。そしてその私兵を擁して、一時的にある地方に権力を持つものの存在することも嘘ではない。しかしながら事実はただそれだけである。それが支那を代表するものでなければ、中華民国なるものの権利と義務を諸外国に負うものでもない。ましてや、その軍閥や私兵と没交渉なる絶対多数の支那の人民としては、たとい彼ら軍閥の徒が如何に国家の名を僭称するにもせよ、真実は少しの関係も因縁もないのである。支那の権力者と支那の人民とは徹底的に性質を異にする二元的存在である。…中略…
支那一般の人民は、昔からその軍隊を呼んで『兵匪』といっている。即ち武装せる盗賊の集団という意である。…中略…
支那にあっては、初めからその軍隊に投ずるものが匪賊不逞の徒であり、徴募せらるるものも苦力以下の浮浪者なるのみならず、彼らの目的とするところも、武器を携えて劫掠(ごうりゃく)略奪の機会を得んが為である。支那の軍隊は、給料が法外に安い。被服食物等も甚だしく粗末である。そしてその安い給料や衣食さえ支給されぬことが珍しくない。それを彼等は民家に対する脅迫と掠奪とで補っているのである。無論かかる軍隊のこととて、戦闘力の強かろう筈はなく、掠奪には頗る勇敢だが、戦争には極めて弱い。
細野繁勝 著『満蒙管理論』巧芸社 昭和13年刊 p.43-47
満洲の人々は張学良を支持していなかった
軍閥と人民とは「徹底的に性質を異にする二元的存在」とはいっても、こんなレベルの軍隊を維持するために、人民は重い負担と数多の犠牲を強いられていたのである。
前述の大甸子の虐殺事件では、山に逃げ込んで難を逃れた朝鮮人農民が日章旗を見て山を駆け下りてきたという記録は重要なポイントである。満洲の人々は、わが国の軍隊と警察に信頼を置き、わが国が匪賊の集団たる張学良軍を満洲から追い払うことを願っていたのではなかったか。
朝鮮人に限らず満洲居留民の多くは関東軍を敵視しなかったようなのだが、その背景を知るためには、かれらは張学良軍閥の為に、いかに過酷な生活を強いられてきたことを知る必要がある。

上の画像は昭和七年一月十二日の満洲日報だが、満洲居留民が日本の統治を切望した背景についてこのように解説されている。
建国次来軍閥のため搾取されている彼等は生色を失い、今日では統治者の何者であろうと搾取主義でない統治者であればよいと悲鳴を挙げている。恐らくこれは偽らざる告白であろうが、暗に日本の監理統治を切望してる者も決して少くない。
之は今次の事変により吸血搾取者たる軍閥を一挙に屠った日本の軍隊が規律整然として秋毫も犯さざるのみか、軍行動に徴発使用した総てのものに対しては支那人からすれば余りに高価過ぎる程の金銭を支払い、兵匪のために掠奪された悲惨な良民に対しては金品を恵与し、曾て味うたことのない人間味を日本軍隊によって味うたことが彼等支那人間に如何に好感を持って迎えられたか。彼等は日本の軍隊と支那の軍隊とを比較して見たのである。
前者は勇敢で強く、勝って良民を犯さず、戦い休めば我等の顧客で、毫末も搾取的に出でない。後者は良民にのみ強く、敗走に際しては敗戦の駄賃として手当り次第にこれ掠奪、婦女子を姦し放火殺人、全く強盗か軍隊か解釈に苦しむ。また役人は役人で重税に重税を課し、安い日本品の輸入買入を圧迫し、或は日本人との合弁事業禁示、国土盗売等々で個人的の財産を殆んど搾取し尽すという有様である今日の彼等は生きんとして生きられぬ悲惨な極に達していた。何が彼等をそうさせたか、云うまでもなく軍閥と役人所謂彼等の統治者である。日本の統治を切望し歓迎するのは理の当然であろう。
『神戸大学新聞記事文庫』外交105-98
張学良はこれまで満洲の民に過酷な重税を課しただけでなく、軍の兵士が各地で資産家の誘拐・強奪・財産没収等の悪事を働いていたわけだが、一般居留民がそのために恐怖に晒されていた状況を改善するためには、『兵匪』と呼ばれていた連中を武力で討伐する以外にどのような方法があったというのだろうか。わが国は何度も「厳重抗議」を繰り返してきたのだが、そんなことで改善してくれるような相手ではなかったのである。
関東軍は侵略軍であったのか

戦後の歴史叙述では関東軍が満洲を「侵略した」と描かれるのだが、居留民に対し掠奪・暴行を繰り返してきた張学良の私兵を関東軍が討伐したことを、「侵略」と表現することに疑問を感じるのは私ばかりではないだろう。もし満洲の人々が関東軍を敵視し強く抵抗したのであれば、「関東軍の侵略」という言い方は理解できるのだが、実際のところはどうであったのか。
まず満洲の人口の推移から見てみよう。
満洲国が建国された一九三二年十月の人口は二千九百二十八万人であったが、一九四〇年には四千百八万人に増加している。
次に満洲国の予算規模は一九三二年が一般会計一億一千三百万円、特別会計四千二百万に対し一九四〇年は一般会計五億七千四百万円、特別会計二十億二千五百万円と大幅に増加しており、日本の資金が投入されてインフラなどが整えられていったのである。
もし関東軍が満洲の人々に敵視され抵抗されていたのなら、人口が増加することも、経済が成長して税収が増えることもなかったであろう。関東軍に対する満洲の人々の支持があったからこそ、平和が訪れて満洲の人口が増加して経済発展を遂げたと考えるべきではないのか。
満洲国はわが国の傀儡国家であったのか

関東軍が張学良軍を打ち破っていく過程で、満洲の各地で中華民国からの独立運動が澎湃として立ち上がっていく。上の画像は昭和六年十月十日の満洲日報だが、このような記事は他の新聞でも多数報じられている。誤解されないように一言加えておくが、これらの独立運動は関東軍に抵抗するものではなく、それまでの軍閥支配に対する抵抗運動である。張学良の勢力が衰えたから、満洲人を中心に独立運動が起きたのである。
また九月二十九日のわが国の閣議では、このような独立運動に関与することは諸外国の誤解を招くことになるので、陸軍も外務省も一切関与しないことが決定されていることを知るべきである。
しかし、この時点では関東軍が張学良の残党討伐はまだまだ終わっていなかった。
黄文雄氏の前掲書にはこう解説されている。
満洲事変が起こると、中国側の軍隊二十二万人と警察官十一万人の大部分は民衆の武装勢力と合体し、あるいは錦州に逃れた王以哲軍に合流している。この混乱に乗じて匪賊集団は勢力を拡大し、敗走兵や逃亡兵も取り込んで人員、装備を充実させ、強大な勢力を形成し、匪賊の総数は十数万にも膨れ上がった。
こうした匪賊が錦州にいた王以哲軍に合流し、遼西地方を荒らしたため、一九三一(昭和六)年十二月には関東軍が、奉天省長臧式毅(ぞうしきき)の要請を受け錦州を攻撃、翌年七月にここを占領して、武装集団を内外に駆逐した。
このように匪賊、兵匪が各地で跳梁する政情、治安の不安定ななかで満洲国は成立した。
同上書 p.302
戦後の歴史叙述では「満洲国は日本の傀儡国家」などと書かれているのだが、満洲国が成立したのは一九三二年三月一日で、関東軍が匪賊討伐を完了したのはその四ヶ月もあとの話なのだ。
関東軍が満洲のあちこちで勃発した独立運動を仕掛けて工作した証拠があるなら『傀儡国家』という言葉を使うことは理解できるが、この言葉を使う論者は論拠を示さずにただレッテルを貼っているように見える。彼らはその論拠が薄弱であることを承知の上で、議論を避けるために声高に言い続けているだけではないのか。
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