五四運動から支那の排日運動が始まった
支那の排日運動が本格化したのは大正八年(1919年)からなのだが、中国研究者の長野朗が昭和十七年に著した『支那三十年』に、支那で排日運動が起こった事情が記されている。長野は当時北京の中国人の家に一人で下宿していて、「排日運動」が「抗日運動」に発展する経緯を身近に見てきた人物である。彼が著した本のうち十八点がGHQによって焚書処分されているのだが、著者別の焚書点数の多さでは野依秀市、仲小路彰についで三番目になる。彼の『支那三十年』(GHQ焚書)には、次のように記されている。
排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動といわれている。やったのは北京大学の学生だが、起こりはいろいろでここに詳しく述べている暇もないが、第一には英米が欧州戦争*中に、東亜の市場を日本に独占されていたのを、何とかして取戻そうとして、排日を煽り日貨排斥**を宣伝した。欧州戦争中はさすがに気兼ねしていたが、休戦ラッパが鳴り響くや忽ち英米新聞が排日の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染し、漸く気勢が出来てきた。
*欧州戦争:第一次世界大戦 **日貨排斥:日本製品ボイコット
長野朗 著『支那三十年』大和書店 昭和17年刊 p.75
第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和条約で山東省におけるドイツの利権をわが国が承継することが決まったのだが、北京大学の学生らが条約調印に反対する運動を起こしたことがきっかけとなって、排日運動が支那全土に波及していった。ところがこの運動には、東亜の市場を狙っていた英米が仕掛けたというのである。
長野は五四運動が始まった頃について、次のように書いている。
五月四日の夜、親日派の曹汝霖邸を焼き討ちし、章駐日公使*に負傷させた北京大学生は、さすがに自分達ののやったことに驚き、学校に帰って小さくなって震えていると、翌日の全市の新聞が大いに彼らの行動に肩を持っているし、政府の処置が緩やかであったのに元気をだし、忽ち火の手は北京の各大学から天津に伝わり、全国の学校に及んだ。全国の学生運動の中心をなしたのは英米系の学校と、基督教青年会の幹部とであった。基督教青年会の連中は学生を取り付けるために映画を見せたり、お茶を出したりして誘い込むのである。
*章駐日公使:章宗祥駐日公使
同上書 p.76
長野が下宿していた中国人の家にはよく排日ビラが投げ込まれていて、彼は排日の行列を何度も見たそうだが、当時は排日行列に参加すると一日五十銭が支払われていて、学生にとっては行列費が貰えるだけでなく、授業は受けなくても良いし、試験も行われないので、試験が近づくと良くデモをやったという。また排日演説をすると一回あたり五十銭、巧い演説には一円、女学生の演説は効能があるの一円が支払われていたことも同書に記されている。
問題はこのようなデモを誰が煽動し、誰が学生に運動費を払っていたかだが、長野は次のように記している。
排日運動を初めから見ると、英米人の煽動は実に目に余るものがあった。公吏自ら乗り出してやっているし、運動費を出す。それも一度に出すとパッと焚えて後は火の消えたようになるから、毎月に出すし、外字新聞が排日煽動の音頭取りをやるし、それに自分の新聞だけで足らずに、支那紙を買収して盛んにやったものである。宣教師どもが排日運動に大童で活動する。殊に基督教青年会の活動が目立っている。英国は未だ日英同盟が存在していたたので、表面には出ないで、アメリカを表に出して裏で盛んに活動した。彼らの最も恐れたのは日支の結合である。日支が結合すれば、世界何物もこれを冒すことは出来ない。それでは彼らの野望が達せられないので、まず日支を離間することに全力を注ぎ、次にこれを衝突させ相闘わしめようとした。
同上書 p.79
以前このブログで支那排日運動についての新聞記事をいくつか紹介させていただいたが、英米人が排日運動を煽動したことはわが国の新聞各紙が報じており、「神戸大学新聞記事文庫」の検索により同様な記事を多数見つけることが出来る。
上の画像は大正八年(1919年)五月七日付の報知新聞の記事だが、五四運動の背後に在支アメリカ宣教師が動いていたのではないかと論じている。その後五月十六日の大阪朝日新聞によると、天津の北洋大学の学生らが北京大学生と共に日貨排斥等と書かれた旗を押し立てて市中を練り歩いたのだが、その中に外国人宣教師らが参加していたことが目撃されている。
北京大学は今では国立大学なのだが、上記の報知新聞記事によると、一八七〇年にアメリカ人宣教師が小学校を創設し、一八八八年に大学が設立され、五四運動が起きた当時は外人教師が二十数名いた純米国式学校であったという。また天津北洋大学もまたアメリカ人が経営する大学である。大正九年四月二十六日の大正日日新聞の記事によると、当時支那にはアメリカ人が経営する学校は、大学以下百八十三校あり、アメリカ人宣教師が二千二百三十四名いたという。これらのアメリカ人がどう動いたかについて記事にはこう記されている。
…吾人は是等の機関が悉く排日宣伝に従事したりとは断言しない。又其の排日宣伝を援助するものも、必ずしも米本国の内命によりて之を行いしとは思わない。併し乍ら吾人が支那の各地に於て見聞する所によれば、是等の事業に携わる米国人にして、実際排日宣伝に従事し、若しくは之を援助するもの余りに多く、其の或は米国政府の方針が、殊更に日支両国を離間し、東洋の平和を攪乱し、其れによりて漁夫の利を占むるの魂胆に出でしにはあらずやと疑えば疑われぬにあらざるを惜むものである。
大正9年4月26日 大正日日新聞 神戸大学新聞記事文庫 外交24巻-126
英米が何のために支那の排日運動を煽動したかについては日支両国を離間させて支那の市場を獲得する点にあったというのだが、その点については後述することとする。
反日教育の開始と、親英米化への英米の努力
前掲の『支那三十年』によると、当時の支那には国定教科書はなく商務印書館とか中華書局とかいうところで勝手に教科書が作られていたのだが、排日運動が広がるようになると盛んに排日記事を入れた教科書が売り出されるようになり、初めて排日教科書が現れたのは大正八年(1919年)だったという。
その当時の排日的教科書の事例として、当時の地理の教科書が紹介されているが真実とは異なることを平気で子供に教えていたようだ。
日本は島国なり、明治維新以来国勢驟に盛なり、我が琉球を県とし、我が台湾を割き、我が旅順大連を租借し、朝鮮を併呑し、奉天、吉林に殖民し、航業商務を我国各地に拡張す。膠州湾は重要の軍港にして昔ドイツに租す。日本は欧戦に乗じて之を奪い、旋て復た我に向かって権利を強索す。我力弱く未だ戦うべからざるを以て隠忍してこれを承認す。
同上書 p.78
このように、わが国の領土である沖縄や、日清戦争のあとの下関条約でわが国に割譲した台湾や、第一次大戦のあとのヴェルサイユ条約で膠州湾におけるドイツの権益を承継したのだが、それらをすべてわが国が奪い取ったかのごとく記されている。この国のやることは、今も昔も変わらない。
国民政府になってからは政府自らが排日教科書を編纂し、童謡に童話に児童劇に、皆排日を盛るようになったそうだが、一方英米は支那の民衆が親英米となるように努力した。
最初に英米人は、排日と親英米の空気を造るのに全力を注いだ。そのために宣教師と学校を配置した。英米の宣教師はわずか数百の県を除き、支那数千の県にことごとく配置され、その数は数千に達した。大正八、九年には、一船毎に数十人の宣教師が送られ、アメリカは年に二千万ドルの金を費った。これらの宣教師は教会に簡単な診療室を設け、支那人の歓心を得た。また教会の手で各地に学校が設けられた。大学、専門学校など外人設立のものが支那で設けたものよりも多く、二十七を算した。中等学校が数百、小学校、幼稚園は数千に達した。準備は完了した。これを基礎に排日の運動を起こしたから、燎原の火のように一挙に全国に拡がったのである。これらの学校は排日の宣伝場となり、医科大学においてさえ学校に日米比較の統計表が懸けてあるが、国の大きさ、産物、工業、交通等を比較されたのでは、日本は米国の足許にも寄り付けないのだから、事大思想の支那人の頭には、米国親しむべし、日本侮るべしの感を抱かせる。こうした細工は、アメリカ輸入の映画にもある。支那の映画は当時ほとんど外国物で、殊にアメリカ映画が主であったが、映画の合間に、外国の風景を出す。それがニューヨーク辺りの摩天楼を映した後に、日本の北海道の田舎町のはずれを子守りが子供をおんぶして鼻を垂らして歩いているようなところを出す。するとアメリカは如何にも偉い所で、日本は見すぼらしいように見える。こうして英米支親善と排日の感情は次第に高まって行ったのである。
同上書 p.80~81
もっとも日貨排斥は支那にとってもメリットがあり、日本商品とよく似た自社の商品を造って売ろうとする企業がいくつも現れた。例えば森永のミルクキャラメルは毒が入っているから買うなと宣伝して、支那で作ったミルクキャラメルに似せた菓子を売る。あるいは仁丹に代わって人丹というのを売り出したり、ライオン歯磨の代わりに獅子が二頭いるライオンマークの歯磨きを売り出すなど、同様なことが支那各地で起こっていたようだ。
英米が支那排日を仕掛けた理由
英米が支那の排日運動を煽動した目的について、長野はこう述べている。
英米の狙いの一つは支那市場の独占である。それには日本品を支那市場から追っ払わねばならぬ。ところが日本の方が万事条件が良いので、尋常の方法では駄目だから、日貨のボイコットをやって、その間に英米貨*を入れようとした。事実アメリカの対支貿易はずっと低い所にあったが、めきめきと出てきて、英を抜き日本を抜いて第一位となった。
*英米貨:英米の商品
同上書 p.81
支那の市場はすでにイギリス、ロシア、ドイツ、フランスなどがすでに地歩を築いており、遅れて支那市場に参入したアメリカがシェアを大幅に拡大することは容易ではない。そこでアメリカは、支那人に反日感情を植え付けて支那と日本を離反させ、日貨排斥で支那市場から日本商品を排除し、日本がこれまで開拓して来た市場を奪い取ろうとした可能性はかなり高いと思われる。
実際に日貨排斥により日本の対支輸出は激減し、アメリカの輸出が激増していった。アメリカの雑誌に「米国は千歳一遇の此絶好機会を逸すべからず」との記事が掲載されたことが、大正八年(1919年)十二月十七日付の神戸又新日報に紹介されている。
各国の対支貿易がどのように動いたかが、大正十二年七月二日の中外商業日報にまとめられている。
大正七年(1918年)と大正十年(1921年)の輸出額を比較すると、日本の数字が約十五%程度減少しているのに対し、アメリカやイギリスは三倍近く伸ばしていることが分かる。イギリスは日英同盟があったので排日運動には表立っては動かなかったが、長野が指摘している通りアメリカの裏で盛んに動いてしっかり輸出額を伸ばしていたのだ。
それでもこの頃はまだわが国の対支輸出額はアメリカを上回っていて、アメリカの対支輸出額がわが国を上回るのは昭和六年(1931年)のことである。
このような史実を日本人に知られては、戦勝国が日本人に押し付けた「日本だけが悪かった」という歴史観が成り立たないことは誰でもわかるだろう。支那の排日の背後に英米が動いていたことを理解しなければ、なぜわが国が国際連盟脱退を余儀なくされ、第二次世界大戦に巻き込まれて行ったかを正しく理解することは不可能だと思う。長野の著作の多くには「戦勝国にとっては都合の悪い史実」が縷々記述されていたために、GHQの焚書処分にあったというしかない。
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コメント
お久し振りです。
歴史も長い目で見ると一つの周期が在りそうです。短期は100年位で中期は300年、長期は600年位という目安で考えています。もっと長い周期も在るでしょう。その期間は人によって見方には違いが出てきます。然し、何らかの周期がある事は理解いただけると思います。直近では、何と言っても江戸幕府を崩壊させた英米の攻撃です。また淵源を辿ると大航海時代という西欧の侵略があり、それが世界史を変えた。2020年代の地球史が、今後、どの様な展開を見せるかを知ることが大切だなと感じています。其の為には過去の事件を動かして来た勢力の動静を知ることが不可欠でしょうね。
井頭山人さん、お久しぶりです。
周期というものは確かにありますね。人間の寿命には限界がありますので、50年前に起きた大事件のことは体験した世代が残っていますが、100年前の出来事を詳しく知る者は誰もいません。人々が古い大事件を忘れた頃に、再び大きな事件が仕掛けられます。歴史を学ばない国は何度もひどい目に遭うことになりますね。
幕末に英米が動いたことは戦前の書物には書かれていますが、戦後の日本人にはほとんど知らされていません。そればかりではなく第一次世界大戦や、第二次世界大戦についても、ほとんどの日本人は英米にとって都合の良い歴史しか知らない現状にあります。まともな政治家を選ばないと、いずれ大きな国難を迎えることにならないかと心配しています。