支那排日運動の背後で動いていたのは何処の国か 支那排日6

支那排日

 前回の「歴史ノート」で、昭和六年に柳条湖事件が起きてわが国は満州事変に巻き込まれて行くのだが、支那の排日貨運動再び激しくなりより徹底化される一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤立化させ消耗させようと動き、その背後には英米が動いていて、彼らは排日貨運動が進行する中で、わが国が支那で拡大して来た商圏を奪取しようと動いてきたことを書いた。前回は柳条湖事件が起きた昭和六年における支那の排日貨運動や英米の動きを書いたが、今回は昭和七年の動きを追うことにしたい。

排日の影響でイギリス製綿製品の対支輸出が激増した

 昭和七年(1932年)一月十四日の大阪朝日新聞で、排日の影響でイギリスの綿製品の対支輸出が激増したことが報じられている。

「神戸大学新聞記事文庫」綿糸紡績業17-153

 現在の満洲事変からイギリスが如何なる利益を受くるとしてもランカシア棉業としては事態を正視しなければならぬ。最近対支輸出が増加したのは全く綿業関係以外の原因、即ち主として支那の日本品ボイコットに基づくのである、ポンド為替の下落や、銀の下落の影響を過度に力説することは誤りであろう。
 なおイギリスの対支綿糸布輸出は左の如く漸増している。
          綿布     綿糸
昨年七月   二、四九四    四七六
  八月   三、一五五    四九八
  九月   四、四一九    四二七
  十月   五、八二六    五一七
 十一月   六、五四四  一、三三〇
 十二月  一一、八一三  二、五四二
「神戸大学新聞記事文庫」綿糸紡績業17-153

 数字の単位が記されていないが、昭和六年(1931年)十一月以降の伸び率の異常性が見て取れる。ちなみに柳条湖事件が起きたのが九月十八日であり、それ以降排日貨運動が激烈に行われたのだが、その頃支那駐在の英国公使マイルズ・ランプソンが、日本品の代わりに英国品を入れ、関税免除を支那に要求するなど活発に動いていたことは前回記事で記したとおりである。
 ランプソン公使が張学良や蒋介石と提携して動いていたことを昭和六年十一月三日の東京朝日新聞が報じ、満州事変後に支那がわが国と直接交渉せずいきなり国際連盟に訴えたり、その後の国際連盟の不可解な動きは、この人物が策動していた可能性を示唆している。

「神戸大学新聞記事文庫」外交102-18

 事変発生の直後には、南京政府は日本と直接交渉をやることに方針を決めて、このことは宋子文から重光公使に申出て来た。ところが二三日経つとにわかに方針を変えて事件一切を国際連盟に持だしてしまった。この放れ業のうしろにはランプソン公使がかげで糸を引いたんじゃないかと専らうわさが起ったりした。その点の真偽は兎も角としてもいよいよ国際連盟がこんがらがって来てからランプソン氏が理事会のイギリス代表連にいろいろと日本に不利な材料を送ったりして策動をやったことは確からしい。これは外相レディングが理事会でとった不可解な態度などを考えてみるとうなずかれる節がないでもない。
「神戸大学新聞記事文庫」外交102-18

 ランプソン公使が支那に勤務していたのは一九二六年から一九三三年までだが、彼は支那の対日方針や、国際連盟における支那の対応に大きく関わっていた可能性があると考えるのだが、この人物については戦前の著作では暗躍していたことが書かれていても、戦後の著作では重要人物として登場することは殆んどなく、満州事変と言えば関東軍の自作自演と書かれるだけだ。おそらくそう書かざるを得ない大きな力が影響しているのではないだろうか。

我が国の抗議と支那と英国の対応

 昭和七年を迎えると、支那に居留していた日本人を激怒させる事件が相次いだ。
 一月八日には東京で朝鮮人の李奉昌が天皇を暗殺しようと手榴弾を投げて爆発させた桜田門事件が起き、この事件を上海の国民党機関紙である『民国日報』は「不幸にして僅かに副車を炸く」と書いたことで日本人居留民は激怒し、上海総領事の村井倉松が上海市長呉鉄城に抗議した。
 また十八日には日蓮宗僧侶二名と信徒三名が支那人多数に襲撃されて、僧侶一名が死亡し二名が重傷を負う事件があった。十九日から二十日にかけて、日本青年同志会の三十二人が僧侶たちを襲撃した職工たちの勤務していた三友実業社の物置小屋に放火し、その帰路に巡警二名と乱闘となり、一人が射殺され、二人が重傷となり、巡警も一名が死亡し、もう一名も重傷を負った。
 上海では一月二十日に居留民一千名が集まって、日本政府に対し「直ちに陸海軍を派遣し自衛権の発動によって抗日運動の絶滅を期すべし」との決議文を満場一致で可決し、その後日本総領事館に向かって村井総領事に決議文を突き付け、次に陸戦隊本部に向かったが、途中で支那人に排日ビラの撤去を迫ったことから大騒ぎとなり、制止に入った外人巡査が棍棒で邦人を乱打し、邦人五人が頭部裂傷の重症となった。

「神戸大学新聞記事文庫」外交110-2

 この時提出された決議文にもとづき十八日に村井上海総領事は上海市長あてに、日蓮宗僧侶らの遭難事件に対する謝罪および加害者の逮捕と処罰、慰謝料、治療費の支払い、排日団体の解放を要請し、これに応じない場合は帝国海軍は重大なる決意をするとの抗議文を提出したのだが、全く効果はなかった。

「神戸大学新聞記事文庫」外交110-13

一月二十四日の大阪毎日新聞は次のように伝えている。

上海各界抗日救国会は二十二日執行委員緊急会議を招集し「国家存亡の秋民衆は一致団結ますます対日経済絶交の徹底をはかり一面正当防衛の手段を講ぜよ」との宣言を発し、さちに次の諸項を決議し気勢をあげ飽くまで対日反抗の意思を示した。

一、中央政府に対日絶交を求めること
二、市政府をして日本の要求一切を拒絶せしむること
三、正当防衛準備
四、代表を派し三友社職工および附近市民を慰問すること
「神戸大学新聞記事文庫」外交110-13

「神戸大学新聞記事文庫」外交110-17

 そこで海軍省は、支那が応じない場合は自衛権行使もやむなしと腹を固め、いよいよ最後通牒を出す寸前までいったのだが、なぜか英国が急に態度を一変し、日本と協調する姿勢を示したという。

「神戸大学新聞記事文庫」外交106-20

 一月二十七日大阪毎日新聞の記事では、ランプソン駐支公使が本国に戻ることを命じられ、交代させられるのではないかとの憶測がなされているが、実際はランプソンはそのまま駐支公使の地位に留まっている。

「神戸大学新聞記事文庫」外交110-49

 また翌日の大阪朝日新聞の記事では、上海の抗日会も解散が命じられて激しい抗日運動が一旦収まるのではないかと期待させている。このイギリスと支那の動きはとても無関係とは思えず、連動していると考えるのは私ばかりではないだろう。

 二十七日某所着電によると、上海抗日会は南京政府の命令に本づく上海市長の解散命令によりいよいよ解散することとなったが、その実体は抗日会の看板を救国会に塗り替え合法的愛国運動として存続する模様あり。自然支那の排日は従来の如く露骨暴戻でないとしても、抗日会の解散によって根本的排日の絶滅を速断し難い点がある。
「神戸大学新聞記事文庫」外交110-49

 前回記事で長野朗著『民族問題概説』の解説を紹介したが、長野は満州事変以降から一九三五年の年末までの支那の対日方針を「一面抵抗、一面交渉」と表現した。支那は武力で日本に抵抗できないので、戦備を整えるまでの間は、ボイコット(日貨排斥)を行い、日本から抗議を受ければ交渉に応じては時間を稼ぎ、一方でソ連や英米に接近して、最終的に日本を孤立させ消耗させていく戦略であったという。
 支那は抗日会を解散させたが、抗日活動を辞めたわけではなかった。

支那のボイコット戦略はアメリカから学んだもの

「神戸大学新聞記事文庫」外交110-59

 このようにわが国を手こずらせたボイコット戦略は、もともと支那がアメリカから学んだもののようだ。
 一月二十九日の大阪朝日新聞に詳しく解説がなされている。

 支那では極めてポピュラーなボイコット戦術。この模範を示したのがアメリカで明治三十八年アメリカ政府は支那人排斥を主眼とした移民法を制定し徹底的に支那移民にボイコットを喰わしたが、これを早速支那側が応用してその実力を試したのが明治四十一年の辰丸事件だ。この事件は要するに日本が広東派へ輸送した武器を押えたものだが、日本が兵力を用いてガンと出たのでこれでおじゃん。しかし一旦味を占めた支那側がこれを自分のものにせずにはおかない。支那人一流の秘術がこれに加わって各地でちょいちょいその奥の手を出しはじめていたが、越えて大正十三年広東では漸く排英の機運が醸成され、逐に翌年の七月沙面事件に憤慨した同地の労働団体は突如対英罷工団を組織し、統制のとれた対英ボイコットに入った

 この遣方こそ始めて支那側が列国を驚嘆させた極めて戦慄すべき威力を発揮したものでまず罷工団糾察隊なるものを組織し、租界から広東に通ずる各国橋梁を占領し、その交通を遮断すると同時に商船の広東入港を厳禁しイギリス人と支那人との一切の商取引を禁止するなど徹底的な峻烈振を示した。この結果としてイギリスの受けた打撃は非常なもので香港の商権的地位は完全に失墜し、イギリスはここに兜を脱いだが、喜んだのは支那人だ。ボイコットの威力を彼ら自身自覚したのだ。そしてここに当然出現して来たのは職業的ボイコットマンである。彼らの多くに学生の失業者、共産土匪草賊で彼らが各地に固まってがっちりした組織のもとに一団を構成し尖鋭化した排外排貨運動を開始したのである
「神戸大学新聞記事文庫」外交110-59

 孫氏の兵法に「戦わずして勝つ」という言葉があるが、武力を用いずに相手を消耗させることにかけては、支那に敵う国はない。今も情報工作で世界を手こずらせていることは知る人ぞ知るである。

第一次上海事変

 一月二十六日に支那当局が戒厳令を布告し、二十七日に日本を含む列国は共同租界内を列国が分担して警備することが決まり、上海では二十八日に戒厳令が出されて、わが国の海軍陸戦隊も担当警備地域に移動している最中に、側面から支那の十九路軍の射撃を受け、たちまち九十余明の死傷者が出た。十九路軍は三万を超える陸兵がいたのだが、海軍陸戦隊は二千にも足らない兵力であるため、海軍は巡洋艦七隻、駆逐艦二十隻及び陸戦隊七千名を上海に派遣。さらに荒木陸相も陸軍の派遣を決断し金沢第九師団及び混成第二十四旅団を上海に派遣し、その後も増派している。

アメリカ退役軍人ロバート・ショート中尉を撃墜した加賀航空隊(1932年2月22日)Wikipediaより

 支那の十九路軍はドイツ将校の指揮のもとに近代的な軍事訓練で鍛えられており、この戦いは熾烈を極めた。日本側の戦死者は七百六十九名、負傷者は二千三百二十二名と多くの犠牲者が出ている。また、この戦闘では日本海軍の正規空母が初めて参加し、日本史上初の空中戦が行われている。アメリカは支那軍に最新型戦闘機ボーイング218を提供し、支那側のパイロットとしてロバート・ショート中尉が搭乗したが、日本は三機がかりでボーイング機の撃墜に成功したことが大阪時事新報に報道されている。

「神戸大学新聞記事文庫」外交112-36

 米軍中尉が支那軍に参加したことについてわが国が米国に抗議したのは当然のことだが、米国は個人的に支那軍に参加したものであり、国際問題にはならないと主張したという。ではなぜ、最新鋭の戦闘機を支那に提供したのだろうか。満州事変も支那事変も同じだが、わが国は支那で戦ったことは事実だが、本当の敵は英米ではなかったのか。

 第一次上海事変の推移の詳細は省略するが、上海日日新聞の創業者で社主であった宮地貫道は昭和七年に『対支国策論』(GHQ焚書)を著し、満州事変以降の支那の排日状況並びに第一次上海事変について次のように総括し、わが国の政府を厳しく批判している。

 支那民衆の排日態度が如何に峻烈であったかは、支那料理店が国人中の最大顧客である日本人に対して、料理を供するを拒み、両替屋が貨幣の両替を断ったのでも大体の様子が分かると思う。足一度租界外へ出れば、群集に撲殺されるのは、ひとり日蓮僧侶のみでなく、出れば必ず殺されるのに決まっていた。貿易の第一線に立つ在留民は、かかる情勢の中に五ヶ月を過ごしたのであった。その間幾度か政府に訴えたけれど、国民政府の鼻息を窺うのみで、常に退嬰的政策を採っていた政府は何ら保護の道を講じなかった。政府部内各方面を通じての意向は満州事変の片付くまで待っておれというのである。中央問題に対する政府の無策無能が、遂に満州事変を引き起こしたのであって、この根本の原因が駆除されぬ限り、満州事変の解決は不可能であると信ずる人々に向かって、満州事変が解決した後に中央問題を解決するという。…中略…何たる不認識かつ非常識な言葉であることよ。在留民の血が沸騰したのは尤もである。…中略…

 国際連盟始め各国の代表者は、日本が正式戦争でもないのに、国際都市と接続した市街地に、空中爆撃を行ったことを批難するけれど、僅かに二千に足らぬ海軍陸戦隊が、十九路軍だけでも三万を超える陸兵、しかも数十回の実践を経て、侮りがたき戦闘力を有する上に、ドイツ将校の指揮の下に近代戦術の粋を尽くした防御工事を施している強敵と対抗して、兎に角十数日を支え得たのは、全く海軍将士の力戦と空爆とのお陰であった。あの空爆がなかったら、上海租界地は十九路軍に占領され、尼港事件に幾十倍した惨劇を生ずるとともに、日本はどれだけ列国の非難を受けたか知れぬ。要するに、上海事変も満州事変と同じく、政府になんら計画が無くて、全く不用意の中に起こったのは確実である。

伝統的退嬰主義の上海事変対策
 上海事変もまた満州事変と同じく、政府の不用意の中に起こったと言っておいたが、それが総て禍いの因となったのだ。在留民の要求に耳を傾けず、あれだけに悪化した時局を成り行きに任せて抛棄して置いたのが、間違いの起こる原因となった。全支在留民大会の決議に従い、堂々と国民政府に向かって抗議を提出し、それを聞き入れなかった場合は、国際連盟に訴えるなり各国に向かって声明するなりして、一応外交上の手段を尽くした後、なお応じなかった場合は自衛手段に訴えるのが政府として当然執るべき態度であった。
 なお遡って論ずれば、満州事変が起こった時、地方的解決をするなどとしみったれた事を言わずに、対支問題の総てにわたって、国民政府相手に堂々と根本的解決を要求するのが、遠回りのようで却って一番近い道であった。しかかしそれは既に済んだことであって致し方ないとしても、支那が一種の戦争行為に均しき経済絶交を断行した時、国民政府相手に強硬政策を執らなかったのが、上海事変を惹起した最大原因であった
宮地貫道『対支国策論 : 満洲上海両事変解説』昭和7年刊 p.52~57

 当時上海には日本の紡績業者の本店や支店が多数あり、工場の数は三十ヶ所以上で錘数約百三十万あり、その投資額は一億五千万以上に達していたというのだが、現在価値にすれば三千二百億円程度になるであろうか。それらの工場の製品が国民政府の対日絶交によって市場から駆逐されてしまったのであるから、紡績業者の損害は計り知れないし、他の業者も同様な影響を受けていた。しかしながら、政府は支那の在留民の要求に耳を傾けることなく無為無策が続き、支那に強硬な政策を執らなかったのが、ここまで問題を悪化させていった原因だというのである。

 とは言え、政府が外国に対して言うべきことを言わず、まともな外交交渉が出来ていないのは、この時期に限ったことではなく、むしろ現在のわが国の方がもっと深刻な状況にあると思う。スパイ防止法を持たない戦後のわが国は、マスコミや有力政治家や主要官僚や経済人がどこかの国と繋がれば、その国がその気になれば様々な工作をかけることが容易であり、実際に今現在はそのような工作が行われているのだと思う。
 今の与党にも野党にも重鎮の中に某国のスパイのような議員が何人もいるし、政府は国民の税金を某国に流すような政策や法案を勝手に決めて実行し、マスコミはそのような重要な問題を報道せず、どうでもいいような事件をことさら大きく取り扱うようなことが繰り返されている。
 わが国から富が外国に流出し、重要な情報や技術が盗まれていくような状況を脱する方法は、主権者である国民が選挙でスパイのような政治家を排除してまともな政治家を選び、マスコミや官僚の粛清をはからせるしかないのだが、有権者が選挙に行かない現状では国の未来が危ういと思う。

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