秀吉に滅ぼされた根来衆と雑賀衆
先日このブログで根来衆の杉ノ坊算長が種子島に伝来した鉄炮をいち早く入手し、鉄砲の生産に成功すると鉄砲隊を組織したのだが、天正十三年(1585年)の秀吉の紀州攻めで根来衆は壊滅し、根来寺は大師堂、大塔など数棟を残して焼け落ちたことを書いた。
この紀州攻めで焼き払われたのは根来寺だけではなく、岸和田市の神於寺、貝塚市の水間寺、孝恩寺、泉佐野市の七宝瀧寺、泉南市の金熊寺、阪南市の波太神社、和歌山県の粉河寺などもこの時に焼き払われたと伝えられているのだが、秀吉の紀州攻めで、なぜこんなに多くの寺社に火をつけられたのであろうかと誰でも思うところだがこの点については後述する。
秀吉が壊滅させたかったのは寺社そのものではなく、根来寺周辺に居住し鉄砲で武装した僧兵集団であった根来衆や、同じく鉄砲で武装した地侍集団の雑賀衆(さいかしゅう)であったはずなのだが、彼らは何故秀吉に亡ぼされたのであろうか。
フロイスの記録による根来衆、雑賀衆
ルイス・フロイスの『日本史』にこんな記述がある。
まず根来衆についてだが、
これらの仏僧たちは、日本の他のすべての州はとはまったく異なった注目すべき点を幾つか有している。すなわち彼らの本務は不断に軍事訓練にいそしむことであり、宗団の規則は、毎日一本の矢を作ることを命じ、多く作った者ほど功徳を積んだ者と見なされた。彼らは絹の着物を着用して世俗の兵士のように振舞い、富裕であり収入が多いので立派な金飾りの両刀を差して歩行した。肩衣を着物の上にまとっていない点を除くと、その服装は他の俗人と異なるところがなかった。…
(中略)
都に隣接した諸国に住む武将や諸侯は、互いに交戦する際、ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で雇って戦わせた。彼らは軍事にはきわめて熟達しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては、日頃不断の訓練を重ねていた。そして戦場においては自分たちに有利な条件を齎す側に容易に屈するのであった。
(中略)
彼らに奉仕する家僕を除き、仏僧だけで八千人から一万人もいたが、それらの家僕の大部分は下賤の出で、主人のもとから逃走した下僕とか、悪人、また下等な輩の寄合いであった。だが彼らはひとたび根来衆になると、たちまち尊敬を受け、血統の賤しさも、以前の生活や習慣における卑劣さももはや己が身に汚点を残さなくなると信じていた。
(『完訳フロイス 日本史4 豊臣秀吉篇Ⅰ』中公文庫p.57-58)
もちろん彼らは仏僧であるから、戦争に参加しない時は僧侶として仏像に参拝し読経をしていたのだが、彼らの主な収入源はむしろ戦場にあったと思われる。彼らは非常に豊かであったとあるが、金で雇われて戦争に参加し、「有利な条件を齎す側に容易に屈する」とフロイスが書いている点に注目しておこう。
次に雑賀衆だが、彼らは紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の地侍たちで構成されていて、彼等も根来衆と同様に豊かであった。フロイスはこう記している。
彼らは海陸両面の軍事訓練においては、根来衆にいささかも劣らなかったし、つねに戦場で勇敢な働きぶりを示して来たので、日本で彼らは勇猛にして好戦的であるという名声を博していた。
彼らは僧籍を有せず、すべて一向宗の信徒であり、かつて大坂の市(まち)および城の君主であった(石山本願寺)の仏僧(顕如)を最高の主君に仰ぎ、彼に従っていた。(織田)信長は六年にわたって顕如を包囲したが、しばしばこの大坂勢には悩まされ、信長勢は彼らの攻撃を受けた。当時、この僧侶をもっとも支えたのは、彼が常時手許に置いている六、七千人もの雑賀の兵であった。彼らは自ら奉ずる宗教への信心ならびに熱意から、不断に(大坂)城に馳せ参じ、自費をもって衣食をまかなうとともに、海陸の戦いでは武器弾薬を補給した。
(同上書 p.59-60)
フロイスの文章には書かれていないが、雑賀衆も傭兵的な動き方をしていたようである。
根来衆にも雑賀衆にも強力な鉄砲隊が組織されていた。「傭兵」などといっても、大量の鉄砲を揃えるのに巨額な投資をした彼らである。余程の報酬が得られなければビジネスにはならないだろう。彼らがどちら側につくかの駆け引きで依頼主からの報酬額を釣り上げるか、敗残者から戦利品を捲き上げるようなことはやっていたのだと思う。そう考えなければ、彼らが裕福であったことや、命がけで戦争に参加したことの説明は困難だと思う。
岸和田城合戦
天正十二年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合とが戦ったが、この小牧・長久手の戦いで根来・雑賀衆は織田・徳川方につき、和泉では秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め入っている。
そのありさまをルイス・フロイスは次のように記している。
(根来・雑賀衆は)彼(秀吉)が戦争から凱旋して来た暁には来襲するであろうと見なし、彼の不在に乗じ、約一万五千名が一団となって出撃し、羽柴が大坂に築いた新しい都市をすべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。そして(大坂)城を占拠したうえは、かつて信長が五年も六年も攻囲したかの(石山本願寺の)僧(顕如)をふたたびそこにおらしめることにした。
(大坂の)城と市(まち)には少なくとも戦えるほどのものとてはほとんどいなかったのみならず、当時はなお新たに建築中であったので、城全体が開放されていた。
敵(僧兵)は徐々に前進し、途上幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日もかかった。
大坂にいた人々は、この有様では市は全滅してしまいまともなものは何一つ残るまいと思えたので、あとう限り家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した。市内外の街路にはすでに盗賊が充満しており、物を携えて歩行する者は、ただちに襲われて掠奪される外なかった。こうした、街頭での掠奪は、かって(本能寺の変の後)安土山が焼尽された時とほとんど同じような様相を帯びるに至った。
(同上書 p.45)
大坂城は前年の天正十一年(1583年)から建設が始まったばかりであり、その場所には以前は石山本願寺があった。根来衆らは顕如を再びこの場所に迎えようとして建築途上の大坂城を焼き払い、大坂の町に火を点けたのである。
しかし、秀吉はこのようなことが起こることを予知して、岸和田城に守備隊を残していたのである。
羽柴(秀吉)は和泉国の岸和田という城に六、七千名の兵を率いる一司令官を配置した。この司令官はすこぶる勇敢で著名であり、名を孫一(中村孫平次一氏)と称した。そして同城は敵がかならず通過せねばならぬ道にあったのだが、敵は羽柴がそこに守備隊を置いていることを知らず、実際に彼らが味わうことになったような強硬な抵抗のことを予想していなかったので、城は容易に奪取できるものと考えていた。だが孫一は全軍を挙げて攻撃に出、敵に非常な損害を与え、短時間に四千余名ほどの敵兵を殺戮した。
(同上書 p.46)
秀吉の紀州攻め
小牧・長久手の戦いは、天正十二年(1584年)十一月に秀吉が、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はそれを受諾し家康も三河に帰国して終結し、そのために根来衆・雑賀衆は孤立することとなる。
秀吉は天正十三年(1585年)三月に木食応其(もくじきおうご)を使者として根来寺に派遣し、寺領の一部返還を条件に和睦を勧めたが、反対派は夜中に応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけたために応其は急いで京都に帰還することとなり、秀吉は紀伊侵攻を決意することとなる。
根来・雑賀衆は和泉国に何か所か支城を保有しており、そこに九千余の兵を配置した。一方、秀吉軍は約十万の兵で、海・陸両面から根来・雑賀を攻めようとしたのである。
先陣の羽柴秀次率いる総勢一万五千の軍は、三月二十一日の午後に根来衆の精鋭約千五百が籠る千石堀城付近に到着し、まもなく攻防戦が開始された。城内からの弓・鉄砲の反撃があり秀次軍にも千人以上の犠牲者が出たが、筒井定次の兵が城内に放った火矢が煙硝蔵に命中し、引火爆発して千石堀城は炎上し、討って出た城兵と非戦闘員の合計六千人程度がことごとく戦死したとされている。
その後畠中城、積善寺、沢城城等も落城し、根来・雑賀衆に関わる和泉国の紀州側城砦群は全て陥落してしまい、そのあと休息を取らせてから秀吉軍は紀伊国に向かうのだが、フロイスは同上書にこう記している。
すでに和泉国では為すべきことがなくなったので、、全軍は紀伊国に向かって行進した。そこには根来衆と称せられる仏僧らが八千ないし一万人いたが、あえて羽柴勢に立ち向かう者はなく、一部のものは高野に、そして主力は雑賀に流れた。羽柴の軍勢は根来の盆地に入り、羽柴(秀吉)はそこで一夜の陣営を設けた。かの根来衆の僧侶たちは富裕であり、羽柴の兵士たちは根来衆が財産を貯えている町や寺院や家屋を掠奪することを望んでいたので、夜明けまで待つことは彼らにとって耐え難いことであった。
彼らはまた夜が明けて羽柴(秀吉)がその豪華な寺院や立派な屋敷を見るに及ぶと、それらを焼却することを禁じ、大坂へ移すように命ずるかもしれないと心配し、同夜、大風が吹いたのを幸いとして兵士たちは各所に放火し、あらゆるものの掠奪を開始した。火の廻りは早く、その勢いはすさまじく、すでに羽柴(秀吉)が投宿している家屋も焔に包まれかけたので、彼は急いで家から出、その夜はある山頂で過ごした。このようにして、地形を熟知している者によれば、かの広大な根来の盆地において、千五百以上の寺院、およびその数を上回る神と仏の像が炎上したと言うことである。それらの持主であった仏僧らは日本で見られる中でもっとも豪勢かつ富裕な人々であった。また粉河と槇尾の寺院に対しても同様な仕打ちが加えられたが、それらの寺院の数は五百を超えたと言われる。
かくてその日、悪魔の直参である仏僧たちが治める共和国の権勢は消滅し、後にはただ生気を失った根だけが残ったが、今後それが台頭することはきすべくもないであろう。
(同上書 p.65-66)
紀州攻めで多くの寺社が焼かれたのはなぜか
冒頭に記した通り、この紀州攻めで焼かれた寺は驚くほど多いのである。比較的有名な寺院の歴史を調べて、この時に焼かれた記録がある寺社をGoogleマップ上に印を入れてみたが、探せばもっとあるかも知れない。宗派は天台宗、真言宗、浄土宗などさまざまで神社も焼かれた記録が残されている。なぜ宗派の異なる寺や神社までもが焼かれたのであろうか。
ルイス・フロイスは羽柴軍の兵士たちは掠奪するために各所に火を点けたと書いているのだが、なぜ掠奪が行われたかというと、足軽には戦いに参加して勝利しても報酬はなく、戦いの後の掠奪が彼らの唯一の収入源でありその行為は大目に見られていたことを知るべきである。
ではなぜ寺や神社に火を点けたのだろうか。その当時は武士にもかなりキリシタンがいたし、足軽として参加した農民にも多くのキリシタンがいた。秀吉の紀州攻めには、キリシタン大名の高山右近や大谷吉継、他には蒲生氏郷、田中吉政らが参加していたことが分かっている。キリシタンでない武将の配下の武士や足軽にもかなりのキリシタンがいたことは確実である。
ルイス・フロイスの『日本史』を読むと、宣教師がキリシタンの武士や一般の信者に寺や神社を焼くことを教唆し、実際に寺や仏像などが焼かれる場面が何度も出てくる。紀州攻めにおいて多くの寺社が焼かれたのは、なかには根来衆・雑賀衆と繋がる寺があったのかもしれないが、一部の寺社は紀州攻めに参加したキリシタンが火を点けたのではないのだろうか。一神教であるキリスト教の宣教師たちにとっては、異教は悪魔の宗教であり、寺も神社も仏像もすべてを破壊することが正しいことであることを信者に伝えていたことを知るべきである。
【ご参考】
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最後まで読んで頂きありがとうございます。ブログ活動10年目の節目に当たり、前ブログ(『しばやんの日々』)で書き溜めてきたテーマをもとに、今年の4月に初めての著書である『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を出版しています。通説ではほとんど無視されていますが、キリスト教伝来以降ポルトガルやスペインがわが国を植民地にする意志を持っていたことは当時の記録を読めば明らかです。キリスト教が広められるとともに多くの寺や神社が破壊され、多くの日本人が海外に奴隷に売られ、長崎などの日本の領土がイエズス会などに奪われていったのですが、当時の為政者たちはいかにして西洋の侵略からわが国を守ろうとしたのかという視点で、鉄砲伝来から鎖国に至るまでの約100年の歴史をまとめた内容になっています。読んで頂ければ通説が何を隠そうとしているのかがお分かりになると思います。興味のある方は是非ご一読ください。
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